64.正妃ツバキ
クファール帝国、ザハーブ州の州都ジクラにはその日、家々の窓に砂漠では貴重な花が飾られた。
星読みの館が導き出した吉日に、太守府で執り行われるのはこの国の第一皇子――皇太子の婚礼だ。庶民は参列しないとはいえ、賢君で快活な現太守、そして次期皇帝の晴れの日に街の誰もが心躍らせている。
遠くにそのさざめきを聞きながら、椿は離宮で婚礼の支度を整えていた。
「――はい。目を開けて大丈夫ですよ」
化粧の最後にアイラインと口紅を引かれ、パリサに言われて顔を上げると今度は両耳に豪奢な耳飾りをぶら下げられた。
パリサは満足したようにうなずくと、仕上げとばかりに化粧筆を手に取る。口紅とは違う紅で、椿の額に何か模様を描きはじめた。
花鈿と呼ばれるそれは婚礼限定の装いで、中でも椿に描かれた印は皇族の正妃にのみ許されるものだった。
筆を置いて仕上がりを確かめると、皺が刻まれたパリサの目がじわりと潤んだ。腹心の侍女は涙を流しながら微笑む。
「お美しゅうございますよ。あたしの自慢の娘……!」
「パリサ、泣いちゃだめ。私も我慢してるから。……今日はパリサにも来てもらうんだもの。化粧が崩れないようにしないと」
「そうでございました。大人の色気で魅了しないとですね……!」
母とも慕う彼女と笑い合うと、すでに支度を終えていたルムアが顔を出した。あでやかな侍女姿のルムアは腕にマリカを抱えている。
「ツバキ様。姫様のお支度も整いました」
「マリカ。……えっ。この服……!」
ベビードレスのような白い晴れ着を着せてもらい、短い髪を飾ったマリカは今日も愛らしい。だがそのドレスに既視感を覚え、椿はルムアを振り返った。ルムアはもじもじと唇を緩ませている。
「昨年の星巡りの宴のときのツバキ様のお召し物を、ルムアが仕立て直しました。……母の持ち物から娘の衣装を仕立てると、その子は幸せになれるという言い伝えが古来よりございます。今日の晴れの日に最も適した装いでしょう」
「ルムア――」
パリサの言葉を受けて見つめると、ルムアは照れくさそうに微笑む。
「武器としての針の扱いには慣れておりましたが、本来の用途では難しいものですね。パリサさんに見てはもらいましたが、拙い部分がありましたらご容赦ください」
「そんなことない……! ありがとう。大好きよ……!」
ルムアからマリカを抱き取ると、思い出深いデザインの面影が残るドレスにまた視界が滲む。幼子はキラキラと揺れる母の耳飾りに手を伸ばすとニカッと笑った。
「マリカ。可愛い子。……愛してるわ。1日早いけど、お誕生日おめでとう」
マリカとパリサとルムアと。4人だけで離宮で過ごす日々も今日で最後だ。今夜からは内宮に居を移し、そこでイクバールと生活する。彼が帰ってくる場所になる。
この太守府の後宮は、当代は閉められたままになる予定だった。イクバールが、そう決めていた。
離宮に身を寄せ合った女たちが最後に笑い合うと、門が開いて夫が迎えに来た。
「皆、準備は整ったか。……おっ。マリカ! 今日は一段と愛らしいな!」
「とー! んまんま」
「ご馳走はもう少し後だな。……さて」
手を伸ばしたマリカをひょいと抱き上げ、イクバールが椿に視線を向ける。髪を後ろに撫で付けた、正装姿の夫はまぶしいものを見るように告げた。
「俺の愛する妻は、今日も格別に麗しいな。……さあ、行くか。爺や大臣どもに自慢してやる」
一方、大広間では、参列者たちが皇子夫妻の登場を今か今かと待ちわびていた。サーリフの妻、そして友人として招かれたナーラが手を組みながら興奮したように正面を見つめる。
「あなた、ツバキさんはどんな装束かしら? マリカ様もいらっしゃるのよね? ああ、楽しみ! この場に呼んでいただけるなんて……!」
「ナーラどのはたいそうお喜びのご様子。妻のご友人は大切にされるべきですぞ、サーリフどの」
「あ、ああ」
妻の可憐な正装姿とウキウキと宴を心待ちにする愛らしさに釘付けになっていたサーリフは、今日は軍人としてではなく、やはり友人として招かれた正装姿のシャウラに小突かれて生返事を返す。
なお、シャウラの珍しいドレス姿に目を奪われている侍女も何人かいるのだが、それはまた別の話だった。その横で、ディルガームがのんびりと髭を撫でる。
「――お。来たぞ」
帝都からはるばる駆け付けた大臣や貴族たちを除くと、その婚礼の列席者は星巡りの宴に招かれた顔ぶれとそう変わりはなかった。
だが娘を抱えた皇子に手を引かれて正妃が登場すると、彼らは目を見開いた。
昨年と同じような淡い色の、甘い印象を抱かせる出で立ちで現れるだろうと思っていた者たちの予想は裏切られた。
正妃がまとっている装束は、抜けるように鮮やかな青。昼の砂漠の空の色だ。
昨年は臨月間近で大きく膨らんでいた腹はすっきりと引き締まり、元の美しい曲線を取り戻している。そしてその顔には生来のやや気の強そうな美貌を生かした化粧が施され、艶のある長い髪には皇子が手ずから選んだ髪飾りが揺れていた。
豪奢な装飾品も相まって凛とした、意志の強さを感じさせる正妃の姿がそこにあった。
仮初めの寵姫でも夫に付き従う側妃でもなく、いずれ皇帝となる皇子に並び立つ正妃の存在感に広間がシンと静まり返ると、対となる夜の砂漠の空のような黒い正装姿のイクバールが朗々と口を開く。
「皆、よく来てくれた。異界からの来訪者であり、我が正妃となったツバキと我らの娘マリカだ。この婚姻に承服しかねる者も中にはあるだろうが、今日の選択を後悔させることはないと今この場で誓う。今宵は共に祝い、飲み、国の未来を語ろうぞ。――乾杯」
杯を高く掲げたイクバールに、広間に集った人々が声を合わせた。
(接待は……しない。お酌もしない、酒も飲みすぎない。今日の私は毅然とした正妃!)
宴が始まってしばらくは和やかな歓談時間が設けられたが、椿はイクバールの隣に座したままゆったりとした笑みを崩さなかった。
本当に余裕があるわけではない。むしろ逆で、表情を固めていないとあれこれ気になって顔が崩れてしまいそうなのだ。
イクバールが言ったように、この場に集った全員がこの婚姻に諸手を挙げて賛同しているわけではない。
そもそもかつて椿を襲撃してきた首謀者も結局分からずじまいで、警備が厳重な今日はともかく、今後も身の安全が続くとは限らない。
そういう過激派は置いておいても、少しでもボロを出せば、それ見たことかとつついてくる陰湿な貴族たちもいるかもしれない。
そしてパリサが付きっきりとはいえ、近くで食事をしているマリカが飽きて叫んだり泣き出したりしないかも心配だった。
『今日のあなた様に必要なのは愛嬌でも従順な妻の顔でもなく、何事にも動じない美しい正妃の姿を示すことです』と、サーリフは宴が始まる前に口酸っぱく言ってきた。
舐められたら終わりだ。社畜精神でつい接待に向かってしまいそうなのを押しとどめ、椿は余裕ある態度でにこやかに参列者たちからの祝辞を受け取る。
順不同のその中で、見覚えのある老人が自分たちの前にかしずいたとき椿は小さく目を見開いた。
「……皇太子殿下ならびに正妃殿下の婚儀に際し、とこしえのお慶びを祈念いたします」
盛大な宴には不釣り合いな地味なローブ姿で祝意を述べたのは、白髭をたくわえた小柄な老人――大神官ザラムだ。
政治からは独立した機関である星読みの館の関係者、しかも大神官が、こうした世俗の場に姿を現すのは非常に珍しい。
周囲のざわめきの中、ザラムはしゃがれた声で無表情に言祝ぎを告げると、顔を強張らせた椿にガラス玉のような瞳を向ける。そして深く頭を下げた。
「……妃殿下におかれましては、我らの誤りのために多大なるご心労をお掛けいたしました。改めまして、伏してお詫び申し上げます。星の導きにより異界より参られし『恵みの者』よ――あなた様の頭上に、永遠なる星の加護が続くことを願っております」
輪をかけて希少な、大神官からの個人的な祈りの言葉に周囲の空気がざわっと揺れる。
ザラムがイクバールに対して誤認の謝罪をしたこと、そして帝都の皇帝に向けて分厚い推薦状をしたためてくれたことを、椿は夫から聞いて知っていた。
姿勢を正すと、私心なく国の安寧に尽くす老神官に頭を下げる。
「ありがとうございます。今後とも、どうぞご指導をよろしくお願いいたします」
礼節を尽くした正妃の態度に、広間の空気は好意的に緩んだ。
その後も挨拶は続き、主な顔ぶれが一巡する頃になると椿の緊張もさすがにほぐれてきた。
余興として、先日の野営の宴でも大好評だったシャウラとルムアによる剣舞が披露されると宴はさらに盛り上がる。気付けばマリカはすやすやと眠っていた。
イクバールの周りの酒瓶はあらかじめ水に変えておいたが、それでも振舞われる酒をこっそり引き取って代わりに干していくと、さすがにトイレに行きたくなってきた。
独身の男たちから垂涎の視線を向けられるルムアを伴って席を立つと、奥へと下がる。そして用足しを済ませて広間の端から戻ってくると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
(美味しそう……)
厨房から新しく運ばれてきた野菜料理だ。宴には珍しく、ニンニクのような匂いが利いていて食欲がそそられる。新婦である自分が食べるわけにはいかないだろうが。
長老会の面々が居並ぶ席のそばを通り過ぎ、上座へと戻ろうとした椿はふいに違和感を覚えてはっと振り返った。
香ばしい匂いの奥に、わずかにひそむ苦み――それが記憶とリンクする。
『――なんだか、ニンニクみたいな匂いがしますね』
『実際それで、年に何度か中毒者が出る。匂いの奥に、少し苦みを感じないか?』
薬草を何度も何種類も調べて嗅いだ中にあった、見過ごしてしまいそうなわずかな違い。それを思い出し、椿は叫んだ。
「待って――。食べないで!」
『麻酔』の原料として最有力視されている毒草ラツダ。その香りをかすかにまとった料理に、椿はとっさに手を伸ばした。




