63.黎明
陽が完全に沈み視界が利かなくなってくると、一行は歩みを止めて野営地を整えた。かがり火を焚き、テントを張って絨毯を敷く。その準備にはイクバールも加わった。
しゃがんだラクダの上でルムアと待っていると、同行していたディルガームとシャウラが寄ってきた。
「いかがですかな、正妃殿下。無骨な軍仕様ですが一晩はご辛抱下さい」
「殿下との天幕はわたくしが整えましたので、ご不便がおありでしたらなんなりとお申し付け下さい」
「ありがとうございます。屋根のついたところで寝られるだけで十分です」
設営は手際よく整い、すぐに食事の準備が始まった。持参した料理が大半だが、肉を焼いたりなどその場で調理するものもある。
これには椿も加わり、身分に分け隔てなく同行者たちと笑い合った。……なんだかキャンプみたいで楽しい。
調理をしながら宴会が始まり、それが一息つくとイクバールが手を叩いた。心得たようにディルガームが何かをラクダの背から下ろしてくる。
「え……楽器?」
「ああ。宴に楽器はつきものだろう? ディルガーム、俺にラバーブをくれ」
「ああ。じゃあ俺はダルブッカにするか」
ディルガームが手渡してきたのは細いギターのような弦楽器だった。3本の長い弦と、横に短い弦がたくさん。それをチューニングするようにイクバールがつま弾く。
「弾けるの?」
「当たり前だ。演奏は貴族のたしなみだぞ? 俺は人並みだが、サーリフなどだいたいの楽器を扱える。ディルガームは打楽器が上手い」
「そうなの……」
そばにいすぎて忘れがちだが、そういえば皆上流階級の人たちだった。椿が感心すると、おのおのの楽器を手にした男たちが楽を奏ではじめる。
「それに、楽器ができると女にモテる。女も上手く奏でられるのではないかとな。……弾けないなら、お前は手拍子でもしてくれ。それか踊れ。華があると場が盛り上がる」
ディルガームの叩く太鼓――ダルブッカの音を皮切りに、弦楽器や笛の音が重ねられていく。それはやがて一つの旋律になり、かがり火の中に世界が生まれた。異国の音、けれどどこか懐かしい音。
即興の楽団だったが、音のない砂漠の中でその音色は椿の胸に深く響いた。手拍子をしながら感激する妃の姿に場の雰囲気も盛り上がる。
「――ツバキ様。お手を」
「え。……えっ。私、踊れない」
「わたくしに合わせていただければ大丈夫です。宴に華を添えるは女の役目」
シャウラに手を差し出され、椿は絨毯の中央へと引き出された。戸惑いながらもシャウラの動きに合わせて見よう見まねでステップを踏むと、楽の音はいっそう高鳴る。
そのうちルムアも加わり、三人はくるくると絨毯の上で回った。自然と笑みが湧き上がり、シャウラとルムアが美しい剣舞を始めると宴の盛り上がりは最高潮に達した。
「はー。楽しかった……!」
後片付けを臣下たちに任せ、早めに天幕へ下がると椿は充実した顔で伸びをした。天幕の中にはクッションが敷き詰められ、快適そのものだ。
ぼふんとクッションに倒れ込んだ椿を見て、ターバンを取ったイクバールが満足そうにうなずく。
「たまには外での宴席も良いものだろう」
「お偉いさんがいないならね。余計な挨拶がなくてあなたも気楽なんじゃない?」
「ふん、違いないな」
天幕内に灯りをつけるかと思われたイクバールは、天井のあたりを探るとするすると紐を引いた。
「もう寝る?」
「いや。見せたいものがあると言っただろう。まずは……これだ」
紐を引くと天幕の天井部分が開き、夜空が見えた。目が慣れてくると、満点の星空が四角く切り取られた視界いっぱいに広がる。
「……すごい」
「今日は新月だからな。星がよく見える。……贅沢だろう?」
イクバールが椿の横に寝転び、二人並んで星空を見上げる。就寝の準備が整ったのか、そのうち周囲のざわめきもなくなり静寂が天幕内を満たした。
夜目が利いてくると、イクバールが金の目で椿を見つめていることに気付く。
「……なに」
「いや? ……幸福だと思ってな。美しい妃と愛らしい娘がいて、信頼できる臣下が多くいる。その星の導きに感謝をしていた」
「……っ」
恥ずかしいことを臆面もなく告げて、キスを一つ落とす。天井を閉じるとそのままのしかかってこられそうになり、椿は小声で抗った。
「ちょっと。しないわよ……! 外に人がいるでしょうが」
「俺たちの天幕からは離れている。お前と二人で並んで寝ているのに我慢できるか」
「しなさいよ……!」
頬に口付けながら、イクバールが椿の夜着の紐を引く。相変わらずの手際の良さを発揮しながら椿の夫はつぶやいた。
「お前、婚儀が終わったら離宮ではなく内宮の方に引っ越してこい。通うのも面倒だしマリカの顔も毎日見たい。パリサとルムアもまとめて」
「そっ……れはいいけど、それとこれとは話が別……っ」
素肌に触れたイクバールの手が不穏な動きをしはじめ、椿が抗うと彼は甘く自信に満ちた声で言った。
「なあ、ツバキ。……俺はいい男だろう?」
「え? ……ええ」
それは否定しない。愛情深く、誇りと自信があって――ついでに権力者で顔もいい。そしてたまに可愛いというおまけ付き。
素直にうなずくと、イクバールは椿を囲い込んでもう一度ささやいた。
「そのいい男に愛を乞われているんだ。お前も対価として、俺の望むものを差し出せ。……声を出さなければバレやしない。無理ならずっと塞いでいてやる――」
「んっ……。もう……っ!」
年下夫の甘い願いに、椿は今夜も抗えなかった。
翌朝、肩を叩かれて目覚めると椿はもそもそと起き上がった。イクバールはすでに身支度を整えている。
とりあえず服だけ身に着けて天幕から出ると、夜明け前のひんやりとした空気が頬を撫でた。これから灼熱の昼を迎えるのが嘘みたいだ。
イクバールに手を引かれて野営地から少し離れると、砂漠の向こうが白み始めていた。
昨日は残照で足元がよく見えなかったが、砂丘の表面に不思議な模様が浮かんでいるのに椿は気付いた。波のように段々になっている。
「これはなに?」
「風紋だな。風に吹かれ、砂にできる模様だ。一度として同じものはできない。人の営みのようだろう?」
しゃがんで手を広げると、さらさらとした砂がイクバールの手からこぼれ落ちる。立ち上がると彼は砂丘の向こうを指し示した。
「この砂漠の果てに、帝都と皇帝が住まう宮殿がある。……いずれ、お前を連れていく」
「……ええ」
イクバールの決意に椿もまたうなずいた。彼は腕を下げると表情を消してつぶやく。
「お前に話しておきたいことがある。……前にも言ったが俺には二人、腹違いの弟がいた。しかし、幼くして死んだ。……殺された」
「……っ」
椿は無言で目を見開いた。いつか、パリサから聞いたことがある話。真相は闇の中だと言われたそれを、イクバールは事実のように淡々と語る。
「弟たちは毒殺された。それを指示したのは、俺の母だった。毒と薬は表裏一体と昔から言うが、毒を使って罪を犯した母を持つ俺の伴侶が、薬師とは――なんの因果だろうな」
「私は毒で人を殺めたりしないわ。薬は人の役に立つために使うものよ。毒草を扱ったとしても、人に害なすものは絶対に作らないと誓う」
「分かっている。重ねてるわけじゃない。……だが、弟たちのことは俺が生涯背負っていかねばならない罪だ。俺が産まれたゆえに殺されたのだから」
「…………」
――それは違う、と椿は思ったが、彼が母親の罪に責任を感じ、亡くなった弟たちのことを今でも想っていることが伝わってきて何も言えなかった。
代わりにイクバールの隣に寄り添うと、その手をそっと握りしめた。誰にも言えない彼の痛みを分かち合うように。
イクバールが小さく身じろぎ、椿を見下ろす。彼は安らいだ表情になるともう一度顔を上げた。
「先日帝都に赴いた際、弟たちの墓前で誓った。お前たちに恥じぬ皇帝になると。安らかな国を作ると。その伴侶として――生涯、付いてきてくれるか?」
イクバールが笑みを消して椿を見つめる。その瞳の奥にわずかな恐れを感じ取り、椿はふっと微笑んだ。
年下の、傲岸不遜で自信に満ちた夫。そんな男が何を恐れているのか。
「……仕方ないわね。乗りかかった船だから、付き合ってあげるわ。ただし他の女になびいたら承知しないんだから」
「こいつめ。俺が妻に心奪われっぱなしと知っての発言か」
「あら、そうなの? それは知らなかったわ」
椿の髪を雑に乱すとイクバールが肩を引き寄せる。椿の手をすいと持ち上げると、彼は懐から何かを取り出し唇の前で小さくつぶやいたあと、それを妻の指に当てた。
左手の薬指にはめられたそれは――指輪だ。しかも、どこか見覚えがある。
「これ――」
「ああ。クファールにはない文化だが、外つ国では婚姻の証として指輪を贈るのだろう? ……俺が産まれたときに当時の大神官から贈られた、魔除けの品をお前に合わせて打ち直させた。女が着けるには少々無骨かもしれんが、俺が肌身離さず身に着けていたものだ。……受け取れ」
「…………」
金色に輝くそれは、イクバールの小指にいつもはまっていたものだ。出産のときに借り受けた指輪よりもさらに前から、彼が大事にしてきたもの。そんなものを贈られて、嬉しくないわけがなかった。
椿は手を組んでそれを大事に包むと、震える声でつぶやく。
「……ありがとう。もうこれ以上、何もいらないわ」
「何を言う。これで終わりと思うなよ」
イクバールは手を上げると地平線の先を指差した。
「――そら、夜が明けるぞ。これがお前に見せたかったもう一つだ」
砂漠の向こうが明るくなり、オレンジ色の光が頭を出した。それは一瞬にして雲がたなびく空を染め上げ、そして周りの砂丘を照らしていく。
藍から群青へ、そしてオレンジから見慣れた茶色へ――その色彩の変化に椿は目を奪われる。
顔を上げると、緩やかな風に髪を揺らす夫の姿。同じく髪をなびかせた椿が微笑むと、イクバールは愛おしげに笑った。
「……美しいな。俺の国と妻は」
二人が生きる大地が、新しい一日を迎えた。




