62.砂の大地
「かー? あたったったた。……ふーう。シャッ!」
「そう、母さま! これは服よ。パリサに着せてもらったの? マリカはお話が上手ね」
「アーキャ! アキャ!」
「もう自分の名前も言えるの!? 天才!」
婚儀の日まであとひと月に迫り、椿は相変わらず忙しい毎日を過ごしていた。
誕生日の前日ということで、マリカのお披露目兼、1歳のお誕生日会――ちょっとした星巡りの宴も一緒に開かれることになり、初めての場所と雰囲気で泣かないようマリカを少しずつ外に連れ出しているが、物怖じしない我が子はどこに行っても楽しそうだ。
この日は仕事が休みだったためルムアと共に太守府まで行ってみると、まさかの人物に出くわした。
「とぉっ! あっきゃあああ! んばばでいっ!」
「マリカではないか。どうした、こんなところまで」
ディルガームを護衛にイクバールがちょうど通りがかった。大興奮したマリカはヨダレを飛ばしながら、理解不能な喃語で喜びを示す。
イクバールが駆け寄って椿の腕から抱き取ろうとすると、マリカはむちむちした手で地面を指差す。椿がそっと下ろすと、マリカは震える二本の足で砂の大地に立った。
「おお! 立てるようになったのか!」
「うぁいっ! あでゅでゅ、うぱー」
マリカがどこか得意げにぽっこりした腹を両手で叩く。そのさまに椿が吹き出すと、つられてイクバールもディルガームもルムアまでもが笑った。
……子供はすごい。こんなに幸せと喜びを与えてくれる。ふらついたマリカをイクバールが抱き上げ、高く掲げると幼子は満面の笑みを浮かべる。
「あっだーあ!」
「すごいぞマリカ。歩けるようになるのも、もうすぐだな」
ぴたりと寄り添う父と子には血の繋がりはない。それはここにいる全員が分かっていたが、もう誰もそんなことを気にする者はいなくなっていた。
マリカの顔は元夫に似ていたが、何にでも興味を示すそのキラキラした瞳は誰に似ているか明白だった。よく似た瞳でイクバールが愛娘に笑いかける。
「そうだ、マリカ。すまんが明日の夜は母さまとルムアを借りるぞ。パリサと楽しく留守番していてくれ」
「……えっ?」
翌日の夕刻、椿はルムアとロバの馬車で街の入り口――城門までやってきた。
馬車を降りると門をくぐり、この街に来てから初めて街の外に出た。訳が分からないまま砂漠をさまよっていたあの日から、思えば1年半近くの時が過ぎていた。
城壁に沿って少し歩くと、屈強な男たちが10人ほど慌ただしく出立の準備をしている。その中心に立つイクバールの姿を認めると、椿は砂を踏みしめながら近付いた。
「ああ、来たか。似合っているな」
イクバールはいつもの執務用の服でも軽装でもなく、今日は藍色の洗いざらしの長衣をまとっていた。
露出は少なく、最も特徴的なのは普段はしていないターバンを頭に巻いていることだ。砂漠に調和するその姿は一国の皇子には見えず、まるで遊牧民のようだった。
そして椿も今日は、装飾の多い妃としての衣装でも仕事用の服でもなく、生成り色の同じく長衣だった。下はパンツで足さばきが良く、風になびく上着が心地いい。
「これから日没とはいえ、日差しと砂でやられるぞ。お前も頭は覆っておけ」
髪は三つ編みにしてまとめていたが、緩みかけていたスカーフを巻き直されると本当に夫婦そろって遊牧民族になった気がしてくる。椿は普段と異なる装いの夫に少し見とれつつも、素朴な疑問を口にする。
「一体どういうことなの。用事もないのに砂漠にわざわざ出るなんて」
「うん? 言ってなかったか? ……いずれ、お前を帝都に連れて行くと言っただろう。その道中は街にも泊まるが、野営を余儀なくされることもある。まあ、その予行練習といったところだな。今回は一晩で帰るが」
「それ、婚礼前の今にすることなの……?」
宴の前お決まりのフルコースエステがすでに始まっているのに、わざわざ労力をかけてやることなのだろうか。どこかウキウキしている様子のイクバールに呆れながら問いかけると、彼は悪びれもせずに答える。
「婚儀のあとはしばらく予定が詰まっている。……それに、婚儀の前にお前に見せておきたい光景がある。つべこべ言わずについてこい。ラクダには乗せてやるから」
「もう……。――え。ラク、ダ……?」
「そうだ。……乗ったことないのか?」
「えっ。馬じゃないの!?」
「馬は高級品だ。何より砂漠なんかで乗ったらすぐ駄目になるぞ。ラクダなら荷物もたくさん積めるし、渇きにも強い。少し揺れるが、まあそのうち慣れるだろ」
「本当にラクダだわ……」
柵で囲われた集積地から人数分のラクダが連れてこられ、荷物を手際よく積んでいく男たちを見ながら椿は呆然とつぶやいた。イクバールは何を当然のことを、という目でそのラクダたちを検分する。
もっしゃもっしゃと干し草を噛むラクダを恐る恐る見ていると、唾を吐かれそうになり椿は飛び上がった。そしてなんというか、非常に独特な臭いがする。
「気を付けないと尿をかけられるぞ。……ほら、こっちに来い。お前が前に座れ。初めてなら俺か手すりにでもしっかり掴まっておけ」
「ひっ。――うわわっ! 高い!!」
「こら、暴れるな。心配せずともゆっくりしてやる。……そういえばこんな台詞、最初の夜にも言ったな」
「知らないわよ……! こっ、怖……。揺れる……っ」
イクバールの騎乗でラクダが立ち上がり、その高さに椿はおののいた。ゆっくり歩き始めるが、思った以上に上下運動があり鞍についた手すりにしがみ付く。
酔い止めの薬は先に飲んできたが、それでも気を付けないと酔ってしまいそうだ。しばらくは身を固くしてじっと目を閉じていると、ふいに背後から抱き寄せられる。
「力を抜け。身を任せた方が楽だ。目を閉じていてもいいが、せっかくなら見ておけ。……ほら、ジクラが遠ざかるぞ」
「あ……」
いつの間にか、城壁からだいぶ離れて周囲は一面の砂漠になっていた。夕陽に照らされたジクラの街が見え、その中心に太守府の屋根、そして端には思い出深いあの塔が見える。
――あれが、自分たちの住む街。普段目にすることのない光景に椿は見とれる。砂漠の中にぽつんとたたずむその街は、外から見ても美しかった。
「完全に陽が落ちるまで進んだら今日はそこで野営をする。……どうだ、気分は」
「大丈夫……。すごいわね、こんな風に旅をするんだ……」
「本来はもっと速度を上げるがな。――ああ、もう一番星が見えてきた。急ぐぞ」
イクバールの指さす先に一つだけ星が見えた。静かな砂漠を進みながら、椿は広大な景色と背後の温もりに浸っていた。
ここが自分の生きる世界。この温もりが自分の帰る場所。もう疑いもなくそう思うことができた。




