60.星降る夜
イクバールが不在の間にマリカは10か月を迎え、つかまり立ちができるようになった。
プクプクしていたのが運動量が増えて少しだけ引き締まり、先日持ち上げようとしたら椿はうっかり腰をやられそうになった。以来、抱き上げる時は慎重にいくようにしている。妃がギックリ腰とか目も当てられない。
「ウマル師に聞いたのですが、今夜は流星群が見られるそうですよ」
「へー。天気も良さそうだし、見てみようかしら。寝落ちしないようにちょっと昼寝でもして」
「夜にお起こし――。……ツバキ様。少々お待ちください」
薬房での午前の仕事を終え、いつもより少し遅い時間にルムアと帰路を急いでいると街中が少し騒がしいことに気付いた。
ルムアが警戒しながら耳を澄ませていると、どこからか声が聞こえてきた。「太守のお帰りだ……!」と言っていることに気付くと椿は目を見開く。
「……っ!」
「ツバキ様!?」
その言葉を聞くやいなや、椿は離宮に向かって駆け出した。ルムアが慌てて追ってくる。
この時間に離宮に来るわけがないのは分かっているが、先触れぐらいは届いているかもしれない。逸る気持ちで門をくぐると、マリカを抱いたパリサの前に、背が高く髪の少し伸びた見知った後ろ姿が見えた。
――知らなかった。こんな気持ちは。離れていたのはたったふた月なのに、姿を見るだけで泣きそうになるなんて。
「――イクバール!!」
「おお。我が妻も息災だった、か――。……ッ!」
叫んだ椿は大きく足を踏み出すと、一直線にその広い胸へと飛び込んだ。
「お帰りなさい……っ。無事で良かった……!」
「……ああ。今、戻った。待たせた……!」
帰還して真っ先に離宮に寄ってくれたらしいイクバールは、そのあと政務と宴のために太守府へと戻っていった。
気持ちがあふれて少々熱烈に歓迎してしまった……と反省しながら夕食を取ると、マリカを寝かしつけて中庭に出る。
夜にまた来ると言ったイクバールを一番に迎えられるよう、中庭に造られた浅い水盤に足を浸しながら待っていると、回廊に切り取られた夜空には満天の星が広がっていた。
この世界に来て視力が良くなった今では、星の瞬きもはっきりと見える。
「すごい……」
一人でしばらくぽかんと夜空を眺めていると、ザリ、と足音がした。聞き覚えのあるそれに振り返ると、門からイクバールがゆっくりと歩いてくる。
「イクバール」
「うん? ……ああ、なんだお前か。そんなところで何をしてる」
「ちょっと飲んだから酔いざましに出てただけよ。宴は終わったの?」
「ああ。まったく、帰った直後ぐらい休ませてほしいもの、だが――」
「……っ」
椿の横にしゃがみ込んだイクバールが、こてんとその額を肩に預けた。そのままグリグリと押し付けられ、もたれかかってくる。
ぐんにゃりと体重を預ける、まるで雛鳥のようなその様子には見覚えがある。
「――ちょっと。まさか飲んだの?」
「飲みたくて飲んだんじゃない。飲まされたんだ。……ラーク半分だ。酔ったうちに入らん」
「それだけグニャグニャでなに言ってるの。……ほら、ここ座りなさいよ。足でも冷やせば少しはマシでしょ」
「……うむ」
素直にうなずいたイクバールが椿の隣に腰掛け、水盤に足を突っ込む。
くったりと体を預けてくるのはそのままだが、下手に避けると水に落ちてしまいそうなので椿は仕方なく肩を貸してやった。もたれかかったイクバールが静かな息を吐く。
「眠かったら少し寝ていいわよ。長旅で疲れてるんでしょ」
「いや……平気だ。帝都までの道程は慣れてる」
「そう。……ふふ、長老会の人とかには絶対見せられないわね」
――こんな、甘えたように妃に寄りかかる姿など。
イクバールの息を感じながら、椿は再び夜空を見上げた。先ほどまでは何もなかった体の片側に、確かなぬくもりと懐かしい匂いを感じる。イクバールに合わせて呼吸をすると、潮が満ちるように心が満たされていった。
静かなイクバールに、眠ってしまったのかと視線だけ向けると黒髪が少しだけ揺れた。イクバールはまだ少しかすれた声でぽつりと呟く。
「マリカが……掴まって立てるようになっていた。それから歯……前歯が生えていた」
「ああ、そうなのよ。あなたが出たすぐあとだったかしら。授乳で噛まれてすごく痛かっ――じゃなくて、大変で。まだ下だけだけど、可愛いわよね」
「俺は、成長の一端を見逃した。……くそ、もうしばらく遠出はせんぞ」
「大げさね。これからどんどん育つのに。……そんなに見たかった?」
「当たり前だ。俺の初めての子だぞ? 見たいに決まってる」
ぶすっと呟いたイクバールに椿は微笑んだ。……良かった。帝都で何があろうとも、イクバールの少なくともマリカに向ける情は変わっていない。
酔いの落ち着いたらしいイクバールが椿から体を離し、ぽつりと問いかける。
「帝都で足止めされた理由を……聞いたか」
「え――。ええ。お見合い……してたんでしょ」
――来た、と思った。少し居住まいを正すと、イクバールは椿を見ないまま続ける。
「……どう思った」
「どうって……。仕方ないと思うわよ。後ろ盾のある、たしかな出自の妃があなたに必要なのは本当だし」
「それは本心か? ……お前は、どう思った」
「…………」
重ねて問われ、椿はぐっと押し黙った。細く息を吐き出すと、小さく首を振って答える。
「本当は……いや。割り切ってたつもりなのに、改めて考えるとやっぱりいや。……自分が嫌になる。国の未来を思うなら、答えは分かりきってるはずなのに――」
「…………」
「あなたの隣に他の女が並ぶのはいや。私だけがいい、なんて――」
――平静にしていたつもりだった。サーリフから話を聞いても、太守府の一部の役人から心ない言葉を投げられても。
他の妃を迎えても、イクバールはきっと自分たちに変わらぬ情を向けてくれる。それは分かっていた。その気持ちをさらに独占したいなどと思うのは、ただの個人的な我がままだ。妃として許されることではない。
それでも本音を吐露してしまうと、椿は恥じるように口を押さえてうつむく。
「……ごめんなさい。困るわよね」
「ツバキ。こちらを向け」
「……?」
いつの間にか、イクバールが正面に立っていた。足元を水に浸した彼は星空を背負って静かに告げる。
「断ったぞ。すべて」
「え……?」
「どの令嬢も他国の姫も、丁重に断らせてもらった。……もちろん感情に任せてではない。俺がお前を正妃にと望む理由を客観的に説明した上で、相手に選んでもらった。2番手に甘んじたいという娘は皆無だったため皆引いてくれたが――賭けではあったな。親ではなくその娘と直接話ができたのは、結果的に幸運だった」
「…………」
椿は信じられない気持ちでイクバールを見上げた。夫はたたみかけるように続ける。
「それから親父殿――皇帝陛下にも、正妃を娶る許しを得た。お前のアレが相当良かったようでな。また作って送ってくれと催促されたぞ。……まったく、親が色好みで得することがあるとは思わなかった」
くしゃりと破顔してイクバールが手を伸ばす。椿の手を取ると、彼は裾が濡れるのも構わず水盤にしゃがみ込んだ。
「……お前が正妃だ」
「……っ」
「イクバール・サクル・シャムスが告げる。……愛する側妃ツバキよ。この夫の願いを受け、俺の正妃となってくれ。お前と共に、この砂の大地で民を治め命をはぐくみ、生きてゆきたい」
「――っ!」
金の眼差しと熱い言葉に血潮が沸き立つ。
椿は腰を浮かせると、ひざまずいて夫に抱きついた。勢い余ってイクバールが尻もちをつき、派手な水しぶきが上がる。
「うおっ! ……と。はは、こいつめ。皇子を水に沈める妃なぞ前代未聞だぞ」
「子持ちのバツイチを正妃にするのも前代未聞よ……。しかも『禍つ者』の」
濡れた手で椿の髪を撫でたイクバールが小さく目を見開く。彼は潤む椿の瞳を拭うと金の目をふっと細めた。
「禍つ者? ……馬鹿を言うな。お前は、そうだな……。俺と国に幸福をもたらす、『恵みの者』だ。異界から来た者は今後そう呼ばせることにしよう。今決めた」
もう一度固く抱き合うと、広い肩越しに満天の星空が見えた。その中の瞬きの一つが、ふいにスイと軌跡を描いて消える。しばらくすると、また一つ。
――流れ星だ。初めて見る光景に、椿は自身の姿を重ねた。
遥か異界から流れ、この国に、彼のもとへと落ちてきた。
触れ合った体を離し、見つめ合うと、もう余計な言葉はいらなかった。どちらともなく顔を寄せ合うと二人は唇を重ねた。
「……イクバール」
「ああ。……ツバキ。……ツバキ……ッ」
水の中に座り込み、二人とも腰から下はずぶ濡れだった。イクバールが何度も抱き直すせいで椿の髪も背も濡れ、体が冷えていく。だが心はこれ以上ないぐらいに熱かった。
唇を重ね、舌を重ね、互いの息が荒くなってきた頃。息継ぎのために唇を離すとイクバールが振り切るように顔を少し逸らした。興奮をごまかすように小さく苦笑する。
「さて……すっかり冷えてしまったな。パリサに着替えと温かいものでも持ってこさせよう」
「あっ――」
立ち上がりかけたイクバールの裾を椿はとっさに掴んだ。動きを止めた夫を見つめ、恥ずかしくなって視線を逸らし、けれどやっぱりちらっと見上げる。
「あの……私、酔いざましに出てたの」
「……? ああ、さっき聞いた」
「少しだけど久々に飲んだの。……授乳中は飲めなかったから」
「そうか。酒好きと聞いていたからな。良かったな」
――駄目だ。伝わらない。椿はもじもじと説明を重ねる。
「……あなたがいない間に、マリカの授乳が終わったの」
「……っ」
「仕事が忙しくてヤギの乳をあげたら、美味しかったみたいで私のおっぱ――お乳を、飲まなくなっちゃって。ヤギに負けたとかちょっとヘコむけど、まあ離乳食もしっかり食べてるしいいかなって――きゃあっ!?」
大きく叫んだのは、イクバールが水から突然椿を抱き上げたからだ。彼は椿を抱えると、のっしと水盤から出て歩き始める。
「……ッ。そういうことは、早く言わんか!」
「えっ。ちょっ、怖……っ! 落ちる!」
「落とすものか。なんと親想いな娘だ。……閨に行く。覚悟を決めろ。……俺が温めてやる」
「……っ!」
悲鳴に反応したのか、即座に駆け付けたルムアの足音がした。椿が恥ずかしさにとっさに顔を伏せると、イクバールは視線だけで従者を下がらせる。
二人してずぶ濡れの、正妃となることが決まった妻とその夫の姿は星降る空の下で寝室へと消えていった。
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