59.妃教育
イクバールが帝都に出発したのち、椿の周囲はにわかに慌ただしくなった。
まず、椿自身が職場での仕事を再開した。やはり離宮で書物を読み込むだけでは分からないことが多く、またマリカがハイハイで動き回るようになったため、とても薬草を置いておける状況ではなくなったからだ。
産前と同様に午前中だけではあるが、現場で実務に当たれるのは産後の頭と体を活性化させる起爆剤となった。
そして午後は、ほぼ習得できたクファール語の読み書きに代わって、この国の妃として必要な知識を詰め込む時間――いわゆる妃教育が始められた。
太守代行としてこの街に残ったサーリフが采配したそれは、彼が手配した者やサーリフ自身が講師となることもあるが、女性ならではの領分に関しては意外な人物が抜擢された。
「……はー。では、最初から側妃として入ってくる人もいれば、愛妾から上り詰めることもあるんですね。そしてその逆の降格もあると」
「そうですわね。側妃の上限は4名と決まっておりますので。ただ、後ろ盾がおありで最初から側妃として入られた方は慣例上、よほどのことがない限り降格は事実上ございません。それゆえ、愛妾から昇格された方は入れ替わりの可能性が高く、争いごとも生じやすいと昔から言われておりました」
今日の講師は、なんとナーラだった。おっとりとしたナーラは椿にも分かりやすい言葉で、皇族や貴族の婚姻について優しく説明してくれる。
実はナーラは国でも屈指の大貴族の出身で、歳が近いこともあり一時期はイクバールの正妃候補として有力視されていたらしい。
相当なレベルまで妃教育も受けていたようだが、体力面の問題と「お妃などとても務まりません!」という本人の強い固辞により、その話は立ち消えになったということだ。
ナーラが断ってくれたおかげでイクバールとの今があり、そしてナーラとサーリフの今もあると考えると、その彼女から教えを受けているこの状況に不思議な繋がりを感じずにはいられなかった。
「ありがとうございます。……ナーラさん、大丈夫ですか? まだ産後なのにお手を煩わせてすみません」
「大丈夫ですよ。気を遣ってツバキさんに我が家にまで来ていただいておりますし。……それに、嬉しいのです。こんなわたしでも、大事なお友達のツバキさんに教えてさし上げられることがあるのですもの! サーリフに聞いたとき、絶対わたしがお役に立ちたいと思ったのです」
ふんす、と両手を握った親友は相変わらず一児の母とは思えないほど可憐で愛らしい。
出産は大変だったが産後の経過は順調で、一人息子のアズハルも首が据わって元気に成長しているようだった。
「教えてもらっている私が言うのもなんですが、休みながらやりましょうね。アズハル君も寂しいでしょうし」
「ええ。それにしても、マリカ様と並んで寝ていた姿は愛らしかったですわね! アズハルも5か月後にはあんなに大きくなるのですね……。マリカ様がすべての先輩ですので、先の見通しができてありがたいですわ」
キャッキャとおしゃべりに興じながら教えを受けるこの時間は楽しかった。その夫サーリフの講義はスパルタもいいところで絵に描いたような鬼教師のため、余計にナーラの優しさが身に沁みる。
ちなみにシャウラに教えを受けることもあり、彼女は隣国の武門の名家出身なので国内外の軍事や地勢について学ばせてもらっていた。
「わたしたちで力になれることがあれば、何でもいたしますので。太守がお戻りになったとき、びっくりさせてあげましょう!」
「あんたも大変だな。ちゃんと休めてるか?」
「ええ……家事は侍女に全任せなのでなんとか。でも私、この国の料理とか何も作れないんですよね。妻としてそれもどうなのって気はしますが」
「あんたはそもそも料理が苦手そうだから、できる奴がいるならそっちに任せた方がいいと思うけどな。その代わり、あんたにしかできないことをやればいい」
そして職場にて。先輩マジュディと薬草を点検しながらぼやくと、さらりとひどい返しをしたマジュディが「ん」と1本の薬草を差し出す。
「わっ。……あ、これがラツダですか? ちょっと、素手で触ったら駄目ですよ。皮膚から吸収されるかもしれないんですから」
「すまん」
革の手袋とマスクをして慎重に受け取ると、椿は目下のところで「麻酔」の原料として最有力視されているラツダという薬草を観察した。
薬草といっても、裏を返せば毒草だ。間違っても皮膚や髪につかないように、椿はその形や匂いを記憶に焼き付ける。
「なんだか、ニンニクみたいな匂いがしますね。美味しそうな……」
「実際それで、年に何度か中毒者が出る。匂いの奥に、少し苦みを感じないか? 田舎の山菜採りなんかはそれで嗅ぎ分けるそうだが」
「ん……。言われてみれば、そうなような違うような……? 色々嗅ぎすぎてもう分からなくなってきてますが」
「俺もだ」
二人は麻酔を作る前段階として、毒草を含めた様々な薬草の資料集めをしていた。その過程で匂いを嗅いだりもするのだが、見た目以上に匂いで毒草を見分けるのは難しい。
絶対山菜採りには行かないぞ、と椿は誓った。そもそも山菜が生えているような山はこの近くにはないけれど。
「抗菌薬作りならともかく、このままじゃ私たち毒の専門家になれそうですね……」
「毒使いの妃か。物語みたいで俺は面白いと思うけどな」
再び毒舌を吐いた先輩に呆れた一瞥をくれると、椿は限られた時間で成果が出せるよう、再び薬草観察に没頭していった。
職場と離宮の往復で慌ただしく日々は過ぎ、気付けばイクバールの出立からひと月が過ぎていた。合間に一度だけ文が届けられたが、あちらはあちらで忙しいのかそれ以外の音沙汰はない。
その日も椿はサーリフのスパルタ授業を受けたあと、ぐったりしながら彼と夕食前の茶を共にしていた。
「早く帰らなくていいんですか……。ナーラさん待ってますよ」
「ナーラには、『ツバキさんを正妃にするために頑張りましょう!』と激励をもらっているのでお気になさらず。……ふふ。我ら夫婦が同じ目標を持つことなど初めてです。あのようにやる気に満ちたナーラの顔……非常に新鮮で、たまらなく愛らしい。ありがとうございます、ツバキ様」
「あ……はあ。そうですか……」
サーリフは椿に対する過度の感謝の念を抱いたまま、おかしな感じで態度が固定されてしまった。敬愛されながらも容赦なく妃教育を施され、椿はもうヘロヘロだったがそれでも食らいついているのは持ち前の負けず嫌いと、社畜生活で鍛えられた心身のおかげかもしれなかった。
チャイグラスを爪で弾きながら、椿はぽつりと問いかける。
「それにしても、イクバール遅いですね……。道中何かあったんでしょうか。太守府には知らせも来ているんでしょう? ディルガーム将軍が同行されてシャウラさんも大変そうですし、早く帰ってくるといいですね」
「イクバール様は……まだ帝都におります。宴は終わりましたが、所用がありまして……帰還にはあとひと月ほど要す見込みです」
「そうなんですか。……忙しいんですね。留守を預かるサーリフさんも大変ですね」
あと一か月も会えないと聞いて落胆してしまったが、普段の仕事と太守代行の役目に加えて、椿の教育までしなくてはいけないサーリフの心労を思えばささいなことだ。
椿が労うと、サーリフはじっと表情を消して黙り込む。そして真顔で口を開いた。
「……ツバキ様。いずれ分かることでしょうから、私からお伝えさせていただきますが――イクバール様が帝都に足止めされているのは、正妃候補と引き合わされているためです」
「え――」
サーリフの言葉に椿は顔を上げた。彼は気まずげな表情で続ける。
「帝都に赴く前に、私とイクバール様とでやれる対策はすべて行いました。あなた様を正妃に推すべく、ウマル師と大神官からの推薦状を用意し、陛下への貢ぎ物を用意し――これはあなた様にも一役買っていただきましたが」
「ああ……強壮薬。なんか好評だったみたいですね。手紙でイクバールが」
「はい。正直、賭けではありましたが功を奏して良かったです。……ただ、陛下御本人の裁可を得ることよりも、帝都にいる大臣――貴族の方々の賛同を得る方が難しいと推測されます。陛下が是と言う前にさっさと他の側妃をあてがってしまおうと彼らに画策され、何人かの正妃候補との引き合わせが――見合いが、行われております。……私の力及ばず、申し訳ございません」
「そんな……。サーリフさんのせいじゃありませんよ」
苦渋の表情のサーリフに椿は慌てて首を振った。
――見合い。その言葉から受ける衝撃は強かったが、覚悟はしていたことだった。帝都に行けば、そういうこともあるのではないかと。
そもそもが、いずれ正妃を娶ったとしてもやむを得ないと思っていたのだ。自分には後ろ盾もないし若くもないし、イクバールとの間に息子もいない。
イクバールたちが正妃に、と言ってくれるのは嬉しかったが現実問題として厳しいとも感じていた。
「仕方ありません。まあジクラで気を揉んでいてもしょうがないですし、私たちは今やれることをやってイクバールの帰りを待ちましょう。帰ったらどうなったか聞かせてもらうだけです」
「ツバキ様――」
苦笑する椿にサーリフが感心したようにうなずく。
その後、太守府ではまことしやかに「側妃様は良からぬ噂にも惑わされず、太守の無事の帰還を願って気丈にお勤めに励まれている」と尾ひれのついた噂が立ち、それはやがて市井の民たちにも広がっていった。
その噂を流した張本人は、そうして外堀から椿への支持を固めていったのだった。




