58.俺の妻
「マリカ、こっち! おいで、母さまの方よ」
「いや父の方だ。ほうら、父さまだぞー。来い、高い高いしてやる」
「あきゃー! だうっ!」
産後も8か月目を迎え、育児もだいぶ軌道に乗ってきた。
マリカは最近一人でお座りができるようになり、うつ伏せから両手足を突っ張って首を上げるいわゆる「飛行機ブーン」のポーズがお気に入りだ。ずり這いのようなものも始まって、椿とイクバールは並んで我が子を呼び寄せていた。
喜色を上げたマリカが、腹を引きずりながらイクバールへと向かっていく。
「よーしよし。やはり父さまが良いか。……そらっ。重くなったな」
「あー、ずるい! 高い高いは禁じ手よ。父親がやる高さには勝てないんだから」
「まあそう言うな。しばらく会えんからな。……マリカ、よく食ってよく寝るのだぞ。もっともっと大きくなれ」
「んっ、ばーっ! あだだドゥドゥ。……まーぁ」
ゴールとして選ばれたイクバールがマリカを高く抱き上げると、幼子はヨダレを垂らしながら満面の笑みを浮かべる。
すっかり父の顔が板についたイクバールはマリカの重みを覚えるようにその背を撫でると、小さな額に額を突き合わせた。
その光景を見て椿は幸せだと感じた。こんなに穏やかな気持ちで、今この世界にいられるだなんて。
「出立は明日の朝だっけ? 帝都までどのぐらいかかるの?」
「一週間というところだな。道中の街を視察しつつ、何日かは野営となるだろう。面倒だが仕方あるまい。戻りは一月後の予定だ」
イクバールは明日の早朝から、父である皇帝の在位30周年の宴に出席するためこの州都ジクラを留守にする。初めての長期不在を前にして多忙な中、離宮に寄ってくれたのだった。
夕刻からマリカと過ごすと、夕食を共にしてわずかな残りの時間を過ごす。寝てしまったマリカを預けると寝室で寄り添いながら、椿はイクバールを見上げた。
「準備は万端って聞いたけど……ねえ、本当にあれがお父様への手土産でいいの? 私の良識を疑われない?」
「いい、いい。老いてなお盛んな親父殿には最高の貢ぎ物だ。……ははっ、やはりお前はいい!」
実は先月から、椿はイクバールに乞われて父皇帝に献上する「あるもの」を仕事場で作っていた。
それはなんと――強壮剤。年老いてそちらの元気がなくなってきたことを皇帝がひそかに嘆いているとサーリフが独自の情報網で掴み、イクバールに進言してきたのだった。
「若い頃は相当な色好みだったが、俺の弟二人を相次いで亡くし、すっかりご無沙汰になっていてな。そのまま枯れるかと思っていたら、若い妃でも入ったのか、人生の終盤でまた盛り返してきおった。頭に体が追い付かんらしい」
「……元気ね」
「はは。俺に年の離れた弟か妹ができるかもしれんぞ。腹上死だけは避けてほしいものだが」
くつくつと笑うイクバールに、椿はため息を返すことしかできない。まあ、息子二人をもしかしたら自分の側妃の企てで亡くしたとあれば、男として落ち込むのは理解できなくもない。
イクバールも父親を嫌ってはいないようだし、元気なのが一番か……と椿は自分を無理やり納得させる。
「でもそれならなおさら、ご自分の主治医にでも調合させればいいのに。会ったこともない、しかも皇帝専用の薬を作るだなんて正直荷が重かったわ。いくらウマル先生たちが手伝ってくれたとはいえ」
「それはやったさ。だが効果はいま一つだったようだ。……そこで、お前だ。今まで試したことのない薬を、異界から来た息子の妻が調合する。親父殿は案外単純だからな。それだけでも喜ぶぞ。まして効果があれば心証は最高だ」
「強壮剤で嫁の印象アップとか聞いたことがないんだけど……。変なものは入れてないけど、心証が悪くなっても知らないからね」
念押しするとイクバールがゆったりとうなずく。一応、サーリフが知る限りのツテをたどって、皇帝の現在の体調や持病などを把握した上で調合は行った。
年齢を考慮して効能が強すぎないものを。何段階かに分けて、最初はほぼサプリメントのような偽薬から。
お祝いの挨拶と共に飲み方を丁寧に書いて、体調を整えるための生薬も一緒につけた。健康グッズだと思えば、嫁からのプレゼントとしてはアリなのかもしれない。
「大丈夫だ。気に入るさ。……ああ、そろそろ時間だな。明日は早いから内宮に帰らねば」
名残惜しそうにイクバールが告げ、椿をゆっくりと抱きしめる。椿もまたその広い背に手を回すと、ぬくもりを刻み込むように彼の体温を堪能した。
やがて体を離すと、イクバールはじっと至近距離で椿を見つめる。
「……何か言ってはくれんのか」
「え? ああ……気を付けて行ってきてね」
「違う、そうじゃない。もっとこう、気持ちがこもったやつだ。俺が帰ってきたくなるような」
「……? 待ってるから、無事に帰ってきて……?」
椿的にはだいぶ赤裸々に告げた言葉だったが、イクバールはまだ不満げだ。彼の意図を図りかねて首を傾げると、イクバールはぼそっとつぶやく。
「それはそれでいいが……俺はまだ、お前の気持ちを直接聞かせてもらっていないのだが? 俺が求婚してもう1年近くとなるが、お前はいつになったら言うのだ」
「えっ……」
弾かれたように視線が合い、椿はボッと頬を染めた。イクバールが求めている!? 椿からの言葉を……!
そういえば、ちゃんと言ったことはない気がする。椿は赤くなりながらも、控えめに抗議する。
「それ……あなただって、言ってないじゃない」
「俺? 俺はいつも言っているぞ」
「いつよ。言われた覚えないわよ」
好きとか愛してるとか、そういう直接的な言葉を聞いた覚えはない。特に言われたいわけでもなかったが、乞われて自分だけが言うのもなんだか癪だった。
イクバールは憮然とすると椿に言い聞かせるように告げる。
「髪飾りを二度もやった。それに俺は、いつも呼んでいるぞ。『俺の寵姫』『俺の花嫁』『俺の妻』――俺の唯一、愛するという意味だ。これが愛の言葉でなくてなんと言う」
「……っ」
椿は大真面目に答えた夫をぽかんと見上げた。――愛の言葉。まさかそんな熱烈な意図があったとは。
「枕詞みたいなものかと思ってた……。言われすぎてて気にもしてなかった」
「なんだと!?」
椿の言葉にイクバールがぎょっと目を見開く。まじまじと見つめ合うと、彼は口を覆って視線を逸らす。
「なんという不覚……。まさか伝わっていなかったとは」
「伝わってないわけじゃないけど……。ごめんなさい、そこまでの意味があるとは思ってなかった」
彼の意図を汲み取ってやれず、なんとなく申し訳ない気持ちになってくる。しかし謝罪が追い打ちをかけたのか、イクバールは瞳を閉じるとますます険しい顔になる。
これは自分から言うべきか――椿が口を開きかけると、イクバールは顔を上げ、椿を真正面から見つめた。
「……愛している」
「……!」
飾りも何もない、ストレートな言葉だった。恥じらいも照れもなく、それゆえ椿の心にそれはまっすぐに届いた。
金の目は椿を貫き通すように、嘘偽りない気持ちを伝える。
「お前のような女を、俺はずっと探していた。……美しいだけでは駄目だ。賢いだけでも足りない。それを兼ね備えて、かつ度胸と度量のある女だ。お前は子を産み、愛情深くすらなった。俺はお前に惹かれ、求め、癒され……そして満たされている。イクバール・サクル・シャムスが告げる。俺はお前を愛している。だからお前にも、同じ気持ちを向けてほしい」
「……っ」
からかう余地すらないような真摯な言葉に、椿は胸が引き絞られた。イクバールの強い視線に焼き尽くされたかのように瞳を閉じると、胸の前で手を握りしめる。
自分などにはもったいない、有り余るほどの想いを与えられ、それが限界に達すると感情と共に涙がただあふれた。
「私……っ。私、も……あなたを愛してる……」
「……ツバキ」
「好き――。好き……! 今、本当に幸せなの……。マリカの父になってくれてありがとう……。私を妻にしてくれて、ありがとう……っ。愛してる……。無事に帰ってきて……!」
「……っ。……ああ」
しゃくり上げながら告げると、もう一度イクバールが固く椿を抱きしめる。そこはもう、不安な場所ではなかった。自分の心が帰る場所だった。
「今日だけは許せ」と断って口付けを一度だけ交わすと、名残惜しげにイクバールは椿から離れた。
パリサやルムアと共に門で見送ると、椿の夫は愛おしいものを見る目で快活に告げた。
「留守を頼んだ。……愛する俺の妻よ、帰ったら婚礼の準備を始めるぞ!」




