57.心許され
急に声音が下がったと思った瞬間、イクバールが俊敏に動いた。
獲物を狙って急降下する鷹のように椿を四肢で囲い込むと、その顎を掴みがっぷりと唇を塞がれた。突然の出来事に椿は目を丸くする。
「男の気も知らずに――くそっ、濡れ髪で誘いおって……! なんだその甘い匂いは! 食えと言ってるのか!」
「はっ!? ――んむ……っ! ちょ――、イクバー……、ひゃっ……」
真上から激しく口付けられ、椿が首をひねるとイクバールの舌が顎の下に滑った。ぞわっとする感触に思わず首をすくめると、漏れた声に興奮したのかイクバールの舌先が輪郭をなぞる。
ねっとりと顎先から耳の下まで舐められ、椿がぶるっと震えるとイクバールは耳元で荒い息を吐いた。……息が熱い。
「イク、バー……」
「……呼ぶな。おかしくなる」
「んう……っ。ふあっ……、……ん……」
チュ、と唇を塞がれ、そしてゆっくりと舌でこじ開けられた。先ほどのような激しさはなく、椿はその侵入を許してしまう。
たった一度だけ触れたことがあるその熱は、記憶の通りに熱くそして巧みだった。舌と舌が触れるダイレクトな感覚に、ぞくぞくと体に震えが走る。
頬に大きな手が添えられ、ぴくっと身じろぐ椿をなだめるように熱い舌がゆっくりと這いまわる。
「あ……、は……っ」
「……ツバキ」
――そんな甘い声で呼ばないでほしい。おかしくなる。舌を絡め合うと、心地よくてどんどん体温が上がってくる。
これは知っている。以前のような相手を知るためのキスではない。
これは、行為の始まりのキスだ。いつの間にか椿の手首を掴んでいたイクバールの手のひらも、じっとりと熱くなっている。
唇を濡らしながら舌で口内を探っていたイクバールがふと瞳を開いた。その金の目に浮かぶ明確な欲望に、ドクンと胸が高鳴る。
眉を寄せたイクバールがもう片方の手を椿の腹に滑らせ、そこを覆う布をまくろうとすると椿はギクッと体を強張らせた。
「ま――、待って!」
『……ふぇ、……え……ん』
「――っ!」
椿が制止したのと、遠くの子供部屋から小さな泣き声が聞こえたのがほぼ同時。椿の真上に陣取ったイクバールが、はっと動きを止めた。
泣き声はそれ以上大きくなることはなく、甘い匂いに満たされた寝室に二人分の荒い息、そして沈黙が落ちる。
イクバールは椿の上から退くと、寝台に座り込んで乱暴に髪をかきむしった。
「こうやって止まらなくなるのが予想できたから、手を出さずにいたんだ! くそっ……! これでは生殺しだ!」
「……っ……」
椿は荒くなった息を整えると、やがて唇を拭って起き上がった。深呼吸をしたイクバールが恨めしげに睨む。
「分かったか! 俺が常日頃からどれほど耐えているかが!」
「う、うん……。分かった。……あの、でも、なにも全部が全部、禁止しなくてもいいんじゃない……? その……せめて抱擁だけでも……」
「――っ! お前は本当に……っ。~~っ、くそっ! 抱擁だけだぞ! それ以上は本当に無理だ!」
「わっ」
本人にその自覚はなかったが、いじらしくおねだりをする妻の姿に、イクバールは耐えるように息を詰めるとギュッと椿を抱きしめた。ポンポンとその頭を優しく叩くと赤い顔でぶすっとつぶやく。
「いいか覚えておけ。俺は美味いものは最後に取っておく派だ。……乳離れが済んだら存分にお前を抱くからな。覚悟しておけ」
「……うん」
「だから急にしおらしくなるな! ――もう寝る。お前も寝ろ」
ばたんとそのまま背後に倒れると、イクバールがため息を吐いて寝台の隣を叩く。灯りを消して、そこにおずおずと身を横たえるとイクバールは暗闇の中でじっと椿を見つめた。
いつもの調子を取り戻したように、吐息だけでふっと笑う。
「……寒かったんだろう? もっとこちらに来ればいい」
「う……ううん。もう大丈夫」
よくよく考えたらすごい状況だ。お互いを欲している男女が寝台に二人でいて、何もできずに寝ようとしているなど。
椿は目を閉じて今までのように眠りに誘われようと集中するが、どうしても目前のイクバールに注意が向いてしまって逆に目が冴えてしまう。
(ねっ、寝れるわけがない……!)
「……なんだ。緊張してるのか。子まで産んだというのに初心なことだ」
「そういうこと言わないでよ……」
「そんなに物欲しそうな顔で見るな。お前を今抱けないのが残念だ……。……くぁ……」
最後は囁くようにつぶやくと、イクバールが目を閉じてウトウトとしはじめた。さっきあんなに叫んでいたのに、いつも寝付きが良くてうらやましいことだ。
「マリカみたい。……ふあ……」
イクバールの眠気が伝染したのか、椿もまたあくびをすると目を閉じてようやく訪れそうな穏やかな眠りに身を任せた。
眠りに落ちる寸前、少しだけ、ほんの少しだけイクバールに近付くと、温かな手が肩に添えられた。
翌朝イクバールは目覚めると、隣で穏やかな寝息を立てる椿を置いて寝室から抜け出した。
早朝の回廊を行くと、パリサが早起きしてしまったらしいマリカをおぶって朝食の支度をしている。
「あらまあ、イクバール様。お泊まりでしたか」
「ああ、おはよう」
「ご朝食もツバキ様と一緒に取られますか?」
「ああ、いや……ツバキもまだ寝ているしな。いったん内宮に戻る。茶だけもらえるか」
「かしこまりました」
マリカを預かると、厨房の片隅でイクバールは茶が入るのを待った。離乳食も軌道に乗り、ますますずっしりと重たくなってきたマリカを立たせてみたりしながら、手持ち無沙汰にパリサの貫禄のある背中を眺める。
「……あれはお前の差し金か? パリサ」
「はい? なんですか藪から棒に。パリサにも分かるようにお話し下さいまし」
「ツバキだ。あんな湯上がりに甘い匂いをプンプンさせて――隙だらけで、さあ食えと言われてるようなものだぞ」
「……?」
二段式のやかんの下段で湯を沸かしたパリサが、上段で蒸された茶葉に湯を注いでいく。それを煮出しながら昨夜の顛末を語って聞かせると、パリサはふくよかな腕を組んだ。
「あたしの差し金じゃありませんよ。偶然です。先触れを出して下さったら準備もできたものを、急に来られたらツバキ様だって驚きますよ。突然すっぴんを見られる女の気持ちをお考え下さいまし」
「俺は夫だぞ? 妻の素顔を見て何が悪い」
「そういうことは、段階を踏んでから言うものですよ。……はぁ。女の扱いに長けているかと思いきや、気遣いはまだまだですね。大事にされるのは結構ですが、伝えるべきことはちゃんと伝えていただかないと」
子供を叱るようにため息をつかれ、イクバールはぶすっとマリカを抱きしめた。幼子は父と触れ合えるのが楽しいのか、無邪気にキャッキャと笑っている。
パリサは当然、自分がまだ椿を抱いていないのを知っている。そのことで椿が思い悩んでいたのも把握していたのだろう。チクリと釘を刺されるとイクバールはバツの悪い思いでつぶやく。
「そのことについては、昨夜ツバキにも詫びた。お前にも心配をかけた」
「まったくですよ。あの、女と見ればひとまずは同衾していたイクバール様が、まさかこんなに『待て』ができるようになるとは……。ご成長にパリサは涙がちょちょぎれそうですよ」
「ちょっと待て! まるで俺が見境なしのようではないか。たしかに俺は来るもの拒まずだったが、昔の話だ。それにマリカの前でする話でもないだろう」
「あばー? あーう」
「マリカ。いいな? 忘れろ。お前は何も聞いていない」
拳をしゃぶりながら父を見上げるマリカと、赤子相手に弁明するイクバールにゆったりと笑むと、パリサはチャイをグラスに注ぎイクバールへと差し出した。
この国ではミルクは使わないためそこに砂糖を入れると、イクバールはマリカに注意しながらグラスに口を付ける。
「あちち……。マリカ、これは駄目だ。熱いからな。火傷してしまうぞ」
「ほほ……。本当に変わりましたこと」
パリサがテーブルの反対側に座り、同じくチャイを口にする。血の繋がりはないが仲睦まじい父と娘を見つめると、目尻に皺を刻んだ。
「イクバール様。これはあたしの長年の経験からですが、ツバキ様のように普段は自分を律していらっしゃる方ほど、本来の御心は愛情深く、意中の――心を許した方の前では、驚くほど無防備な振る舞いになってしまうものです。……昨夜と言わず、これまでもずっと……愛らしくはありませんでしたか?」
「……っ」
老侍女に問いかけられ、イクバールは言葉に詰まってしまった。
昨夜の、いやそれより前からの、椿の態度――。
髪飾りを渡したときの、隠しきれないような不器用な笑み。妻にすると言って口付けたあとの、真っ赤な顔。そして昨夜、イクバールの気も知らずに誘いをかけてきた、切なげで熱情が揺らめく瞳。
それを思い返して、イクバールは口元を覆う。……にやけてしまうところだった。
「まあ……可愛かったのは否定しない」
「そうでしょうとも。……お忘れにならないで下さいまし。そのお顔が見られるのはあなた様だけ。今度ツバキ様を悲しませたら、このパリサが許しませんからね」
めっと言い聞かせるように告げ、パリサが飲み終わったイクバールのグラスを回収する。イクバールはマリカをもう一度抱き上げると恨めしくつぶやいた。
「マリカよ。この離宮には俺の味方はいないようだぞ。お前だけは父さまの味方でいてくれ」
「ブブー、ぶうっ! あー」
愛娘は唇を器用に震わせて父に唾を飛ばすと、離乳食をくれる大好きなばあやに手を伸ばした。
娘にまで振られたイクバールは、すごすごと内宮へ戻っていった。




