56.足りない言葉
「あー気持ちいい~。ルムアはあまり汗かかないのね」
「これでもかいています……。しかし、ハマムは良いものですね。自分の故郷ではこのような施設はなかったため、初めて見たときは驚きました」
「私の故郷ではお湯に浸かるのが一般的だけど、蒸し風呂もいいわよねえ。……あ、そろそろ洗ってもらえる?」
「はい。今日は新しい石鹸をお持ちしたんですよ」
産後7か月目を迎え、椿は仕事終わりの夕食後に離宮併設のハマム――蒸し風呂に入っていた。
一人でのんびり入る日もあれば、パリサやルムアが体を洗ってくれる日もある。育児と仕事に追われる椿にとって、それはちょっとした息抜きの時間だった。
お互い薄布をまとい、どうせ汗をかくのだからと最近はルムアを最初から連れ込んで、おしゃべりに興じてから体を流してもらっている。
夕食後のサウナなんて社畜時代と一緒だな、などと思いながらも汗をダラダラかき、椿は温められた大理石にうつ伏せで裸体を横たえた。もう裸を見られることになんの抵抗もなかった。
「それじゃ、お願いします」
ルムアが石鹸を泡立て、ふわふわにしていく。これで撫でるように体を洗われるのが最高に気持ち良かった。こちらに来て初めて知った心地よさだ。
いつもとは異なる濃密な花の香りが鼻をくすぐり、体を包む泡の感触も相まって椿はうっとりと目を閉じた。
「いい匂い……。なにこれ、蘭?」
「自分には分かりかねますが、南洋の花の香りだと店主が。……ツバキ様が最近お悩みのようでしたので、気晴らしになればと――。差し出がましい真似でしたら申し訳ありません」
背後から告げられ、はっとなった。イクバールとの一件、詳細は知らないまでもルムアたちにも椿の気の沈みが伝わっていた。
南国を感じる芳香を吸い込みながら、椿は小さく首を振る。
「ううん。……ありがとう。よーし、じゃあせっかくだから新しい石鹸でルムアも洗ってあげちゃおうかな。お揃いの匂いになりましょ?」
「えっ。いえ、自分は――! あっ、ツバキ様。そんな……っ」
「あらースベスベ! 若いっていいわね……。髪も香油でトリートメントしたらもっと金髪が輝くから! ルムアも今日はフルコースよ」
「ツバキ様……!」
起き上がって、薄布から出ている細い手足に泡を塗ったくるとルムアがいちいち身をよじる。それに気を良くして、従順な従者をうりうりと追い込むと逆転主従は蒸し風呂で茹でダコになった。
「あっつ……。ちょっと調子に乗りすぎたわね……」
「ツバキ様がああああんなことなさるからですよ……!」
「あんなこととは……なんだ?」
「それはもちろん――。……っ!?」
湯上りに上機嫌で回廊を歩いていると、ふいに低く声を掛けられて椿はビクッと肩を波立たせた。ルムアが慌てて礼を取り、椿はぽかんと現れた男――イクバールを見上げると、次の瞬間はっと布で顔を隠す。
濡れ髪だ。いやそれは構わないが、薄化粧も何もしていないドすっぴんだ!
「なんだ。なぜ隠す」
「す……すっぴんだからよ。急に来たらびっくりするでしょうが」
「すっぴんなぞ、産後に見たぞ? 今さら隠すこともあるまい」
「非常時と今は違います!」
出産直後のあの朝以外、イクバールにまっさらな素顔を見せたことはない。夜でもごく薄くだが化粧はしていた。
このプライドの高さが自分でも面倒だと思うが、頑なに顔を隠す椿をイクバールが不思議そうに見下ろす。
「どうせあとは寝るだけだ。化粧などするな。……このまま寝室に行くぞ」
そうして引きずられるすっぴんの主を、ルムアはサラツヤの金髪とむき卵のような肌で見送った。
「ルムアとずいぶん仲がいいのだな。もうどう見ても侍女にしか見えん」
「無理やり裸にしたりはしてないわよ。だって可愛くて……。私一人っ子だったから、妹がいたらこんな感じかなって――」
「はは! 元暗殺者を妹とは、さすが俺の妃は言うことが違う」
寝室に下がるとイクバールと若干距離を取りながらも、当たり障りのない会話に椿は内心ホッとした。主従の節度を守れとか言われたら、ヘコんでいたところにさらに追い打ちをかけられるからだ。
そんな椿の心など知らぬように、イクバールは鼻をクンとさせると椿ににじり寄る。
「いつもと違う香りだな」
「あ……。これは、ルムアが石鹸を買ってきてくれて――。南の花の香りだって」
「ほう。甘く……濃厚な。……いい匂いだな」
まだ湿った髪に誘われるようにイクバールが瞳を閉じ、すうっと息を吸う。最近なかった近さに椿は気まずく顔を逸らした。
恥ずかしくて――そして、胸が痛い。
触れるつもりがないなら、期待させないでほしい。
この先の道を示してくれた。そのことには感謝しているし、椿やマリカに向ける親愛の情も十分に伝わっている。
けれど、自分ばかりが異性として彼を意識しているのは、やはりつらかった。
満足したようにイクバールが体を離し、ゴロンと寝台に寝転がる。
ああ、またこの苦しい時間が来た――それが続くのに耐えきれず、椿は思わず尋ねてしまった。
「…………しないの……?」
「……うん?」
「聞いてるんでしょ。月のものが再開したって。なのに……しないの? それともそんな気は最初からなかった……?」
「…………」
蝋燭の灯りに溶けてしまうような問いかけに、イクバールが小さく目を見開く。
彼は寝転んだまま、まじまじと椿を見つめるとおもむろに起き上がった。そして寝台の上であぐらをかくと椿に硬い表情で告げる。
「ツバキ。……座れ」
「え――」
「いいから座れ」
「……はい」
有無を言わせぬ圧を感じ、正面におずおずと正座するとイクバールはゆっくりと深呼吸した。やはり言わなければ良かったと椿が重く後悔しはじめると、繰り返すようにもう一度。
二回深く息を吐き出したイクバールは、じろりと椿を睨むと低く切り出した。
「ツバキ。お前と前の夫の関係がどうだったとか、それ以前にもどのような男とどれほどの付き合いがあったかなど、俺は知らんし今さら知りたいとも思わん。……だがな。これだけは分かる。お前は本っ当……っに男心が分かってない!」
「……!?」
たまりかねたようにカッと叫ばれ、椿は耳を疑った。
……突然怒られた。目を見開く椿に、イクバールはたたみかけるように告げる。
「いいか。まず前提として、俺はお前を抱きたい。……『そんな気などない』? ふざけるな。前から抱きたかったに決まってる!」
「!?」
「俺はお前を仮初めの寵姫ではなく、正式な妃と定めた。それはもちろん、肉体関係も込みでだ。……肩書きばかり仰々しい、お飾りの妃など俺はいらん。俺は俺の隣に並び立ち、俺の子を産み、俺と共にこの国の未来を見据えられる女をずっと探していた。それがお前だと思ったから、正妃にすべく今奔走している。それは分かるか?」
「え……ええ……」
よどみなくつらつらと語られるが、しょっぱなから直接的な言葉を浴びせられて椿の顔が一気に赤くなった。
――抱きたい。肉体関係も込みで。俺の子を産み。
突然の爆弾の連投に頭と感情が追い付かないが、ひとまずは――イクバールも、同じ気持ちだった……? 椿はたじろぎながらも言いつのる。
「でも、だったらなおさら――」
「だから、そういう言葉を考えなしに吐くな! お前は俺を暴走させるつもりか!? ……お前、まだマリカに乳をやっているだろう? 俺は俺の信条として、赤ん坊に乳をやっている間は母体はそれに専念すべきと思っている」
「え――」
「聞いた話だが、乳をやるのにも体力が削られるのだろう? 俺がお前を抱くことで、もしマリカに必要な滋養が届かなければ父として申し訳が立たんし、赤子とお前の体を共有するのも俺は嫌だ」
「…………」
椿はぽかんとイクバールを見つめた。……母乳が止まるほど抱くつもりかと恐れる気持ちが半分、もうあと半分は、きっぱりと言い切られた言葉尻に対するむずがゆさが半分。
「ええと……それって、マリカの乳離れが済んでから、体を独り占めしたいってこと……?」
「そうだ」
恥ずかしげもなく即座に肯定されて、椿の方が顔を覆ってしまった。……聞けば聞くほど、体温が上がっていく。沸騰してしまいそうだ。
(この人って――、この人って……!)
「そうでなくとも、お前は仕事を再開したし、マリカの夜泣きに対応することもあり十分に休めていないだろう? ……今は俺のことはいいから、睡眠をきちんと取れ。乳離れが済み、体が完全に回復したらそのときこそお前を抱く。分かったか」
最後は静かに諭すような口調に、椿は顔を覆ったままコクコクとうなずいた。
思っていた以上に――いや、思っていたのとは違う方向で、びっくりするぐらい大事にされていた。
椿とマリカに対する愛情深さと、それに相反する子供みたいな独占欲。そのことに胸がいっぱいになる反面、今まで悩んでいた分だけ少し恨み言が漏れてしまう。
「でも、だったら……言ってよ……。分からないわよ――」
「なに……?」
「キスすら――口付けすら、しなくなって……。抱擁、も――。産後にぴたっとやむから、もう女として見てないんじゃないかって……思って――」
椿は顔から手を離すとうつむきながらつぶやいた。不安だった、と無言で語る妻の姿に、今度はイクバールが天を仰ぐ。
彼は目を閉じて激情を抑えるように再び深呼吸すると、ゆっくりと――本当に久しぶりに、椿を抱き寄せた。
「……っ、イ――」
「……悪かった。お前にそう思わせたのは……俺の落ち度だ。パリサに言われていたのにな。妻を不安にさせるなと」
「…………」
耳元で低くささやかれ、椿の胸がぎゅうっと締まる。あの日から近くて遠かった、ぬくもりと彼の香り。
その広い背中に手を回してしがみ付くと、イクバールも深く椿を抱きすくめた。
「はは……腹がないと、お前をこれほど深く抱けるのか。……知らなかったな」
「……馬鹿。言葉が足りないのよ……」
イクバールが椿の髪を撫でる。その温かく優しい手付きに胸が満たされ、椿は自分がどれほどこの男を求めていたかが分かった気がした。
――抱かれたい。肉体関係も込みで。いつか彼の子を産み。……それは、まだお預けだけれど。
長い時間抱き合い、心音も収まってきた頃イクバールが体を離した。先ほどまでとは違い穏やかな気持ちで椿が寝床の準備を整えようとすると、イクバールは逆にすっと椿から目を逸らしてしまう。
「イクバール? 今度こそ寝る? ……あのね、この前ちょっと寒かったからもう少しそっちに行ってもいい? あなたが眠るのの邪魔はしないから」
「……っ」
しばらくそういう予定はないが気持ちはちゃんとあると分かったら、急にほっとして眠くなってきた。椿は先に寝床に入ると、まだ座っているイクバールの方へとにじり寄る。
イクバールは寝ないのだろうかとちらっと見上げると、彼は小さく目を見開き、ついで憮然とした表情になった。
「お前……本当に、俺に喧嘩を売ってるのか? 男心を理解しろと言ったはずだが」
「え?」
「はぁ……。分かった。お前には、実際やってみて教え込む必要があるようだ。……期待されていたなら、応えてやる。俺がどれほど寛大な心で耐え忍んでいるか――分からせてやろう」
「! むぐ……っ!」




