55.肩透かし
「先日、ウマル師が言っていた薬の開発費の件――承認されるのですか?」
「ああ。特に却下する理由もないしな。帝都ではなく、このような地方都市からこれまでの常識を覆すような画期的な薬が生まれたら、帝都は大騒ぎになると思わんか? ……まったくあいつは、予想外の面白い種をまいていく」
執務の手が空いたわずかな時間に休憩がてらサーリフに話しかけられ、イクバールはチャイを片手にちらりと笑った。サーリフもまた茶を飲みながら、遥か遠い帝都を思うように空を眺める。
「なんだ。お前はまた反対か」
「いえ。ウマル師の言うように、もし本当にそのような薬ができるのであれば、それを提言したツバキ様の評判が上がるだろうな、と思ったまでです」
「ツバキ様、か。すっかりほだされおって」
「アズハルとナーラの恩人ですので。家に帰ればこの世の何よりも愛おしい存在が二人で出迎えてくれるなど、これほどの喜びがあるとは知りませんでした。ツバキ様にはぜひこのまま名声を高めていただき、正妃への道を――」
「分かった分かった。それはもう聞き飽きた」
アズハル、とは先月産まれたばかりのサーリフの息子のことだ。予想通りに妻と息子への溺愛が止まらないサーリフをぞんざいに遮ると、彼は少しムッとしたように続ける。
「それはそうと、もう再来月には帝都で陛下の在位30周年の宴ですよ。そろそろ出立の準備を整えはじめませんと――。ツバキ様も連れていかれるのですか?」
「いや。あいつもまだ産後だし遠出はさすがにな。マリカと離れ離れなどと言ったら、毛を逆立てて怒られそうだ。……あいつはあいつで、いずれしかるべき時に帝都へ連れて行く。正式にな」
それはいつなのか。そしてどのような立場でなのか。探るようなサーリフの視線に、イクバールはふっと笑って顎をしゃくった。
「その時はお前もディルガームも一緒だ、サーリフ。宰相として大将軍として、そして正妃として――共に砂漠の果てを見に行こう。そのために俺は励むぞ」
「……御意。どこまでもお供いたします。まずその手始めとして、帝都より極秘裏に仕入れた情報がございますので報告してもよろしいでしょうか」
未来が見えているかのような主君の言葉にサーリフは小さくうなずくと、帝都でも敵に回したくないとささやかれる有能さを遺憾なく発揮しはじめた。
「――それで、お前は今度、殺したい奴でもいるのか? それとも俺に一服盛るつもりか」
「そう言われると思ったから離宮で読むのは嫌だったのよ……。違うから。良からぬ企みとかないから」
「ふん。まあその書物は外に持ち出さないことだな。妃が毒について調べているなどと知られたら俺の計画が水の泡だ」
「なんの計画……?」
「さあな」
生理が終わって数日後、イクバールが夜に離宮を訪れた。
月のものが終わったら必ず教えるようにとパリサに言われていたため素直に従うと、わざわざイクバールに確認したのか普段はない「来訪予告」を告げられた。
夕方にハマムの蒸し風呂で肌を磨き上げられ、香油を塗られた椿は夕食を共にするとイクバールと二人で寝室に下がる。
机に積まれた薬の資料や毒に関する本をめくってからかうイクバールをたしなめるが、内心はドキドキと心臓が破裂しそうだった。
(これは……来る? これだけお膳立てされてたら、さすがに来る!?)
緊張しなくて大丈夫ですよとパリサは言った。……無理。
マリカ様の子守りはお任せ下さいとルムアは言った。……恥ずかしいからやめて。
顔は平静を装いながらも緊張感でいっぱいの椿の背後で、イクバールがどっかりと寝台に腰かける。
「ふぁ……。昨日あまり寝てなくてな。……来い。寝る」
「え――。は、はい」
ごろんと横になったイクバールに呼ばれ、椿も寝台に腰かけた。だがイクバールは椿を抱き寄せることもせず、瞳を閉じるとそのまま静かになった。
しばらく待っていると、スウスウと寝息が聞こえてくる。
(ん――。んんん……? あれー!?)
これだけ準備を整えられて、こちらの恥じらいと覚悟も伝わっていただろうに肩透かしを食らった気分で椿は唖然とイクバールを見下ろす。
食事のときはそうは見えなかったが、もしかしてものすごく疲れていたのだろうか。眠るイクバールを見ていると、緊張の糸が解けてこちらもあくびが出てくる。
(だったら……仕方ないか。私も頭が回らなくなってきたから寝よ……)
イクバールから少し距離を空けて横になると、臨戦態勢の新妻は夫にまったく触れられないまま朝を迎えた。
実に、半年ぶりの添い寝だった。
それから先も、日にちを空けてイクバールが訪れたが、食事だけで帰ってしまったり夜までいても先日同様に先に眠ってしまったりと、椿に手を出してくることはなかった。
最初のうちは息まいて椿を磨き上げていたパリサも、そのうち面倒になったのかわざわざ支度しなくなった。
今夜も添い寝するだけのイクバールに、椿ももう諦めてランプの灯りで資料を読むことにした。だが、昼間ほどは頭に入ってこない。
(これは……嫌な予感、的中なのかな――。お互い忙しいし、なかなか二人で話す機会もないし……。産後レスってこんな感じ? いやそもそも最初からやってないけど……)
悶々としてきて椿は書物を閉じた。
こんな気持ちになるなら、マリカと同室のままの方が良かった。こちらの風習に従って夜は子供部屋で寝かせているが、夜泣きで起こされる方が幸せだった。
イクバールの隣に体を横たえるが、心と足の先が冷えていく。
(好きなのは、私だけ? 異性として意識してるのも、私だけ……?)
もう母親なのに、こんなことでグジグジ悩んでいるのが嫌になる。椿がため息をついて渋々眠りに落ちていくと、夜半にイクバールがうっすら瞳を開けた。
寝台に流れる長い髪を一房取ると、そこに口付けを落として皇子はつぶやいた。
「はぁ……。まるで拷問だな」




