53.親愛なる妃
翌朝、ナーラのことが気になってなかなか熟睡できずにいた椿は早起きしてしまった。
身支度をして中庭で朝のヨガをしていると、椿に付き合って傍らで鍛錬をしていたルムアがピク、と小動物のように顔を上げる。ほどなくして門が叩かれ、ルムアはそこに近付くと警戒を緩めないまま扉を開けた。
「――ツバキ!」
「わっ。……サーリフさん!? えっ。どっ、どうしました!?」
サーリフは一人で、膝に手を置きゼーハーと荒い息をついている。普段のツンとした様子からは想像もつかない鬼気迫る形相に、水を持ってきますとルムアが奥に下がると彼は力尽きたようにガクッと膝をついた。
「ちょっ――、大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫だ……。早朝に……すまない……」
「起きてたんで大丈夫です。あの、ナーラさんは? お産は無事に終わったんですか!?」
「…………」
サーリフがうつむいたまま沈黙する。
ざわっと嫌な予感が広がり、椿は思わずサーリフに詰め寄った。まさか……!
「明け方に……産まれた……! 男児だ……。疲労困憊ではあるが……母子ともに、無事だった!」
「あ――。よ、良かった……! おめでとうございます!! あー良かったー!」
最悪の想像が頭をよぎったが、サーリフの声に椿もまたその場にへたり込んだ。笑顔でサーリフを見ると、彼の肩が細かく震えている。
「……サーリフさん?」
「……っ。――ッ!」
(えっ!?)
サーリフはグスグスと、両目から涙をあふれさせていた。椿がぎょっと目を剥くと、水を運んできたルムアも雷に打たれたように固まる。
あふれる涙を拭うこともせず、サーリフは両手をつくと勢いよく椿の前に頭を下げた。――いわゆる、土下座。
「お前に……っ! いや、あなた様に、感謝申し上げる! ツバキ様、あなたは私たち夫婦の恩人だ……!!」
(え――。えぇえええ!?)
サーリフは土下座したまま震えていた。椿は衝撃で唖然としながらも、サーリフを起こそうと慌てて手を振る。
「ちょ――、ま、待って下さい。お礼なら、産婆さんやナーラさんに言って下さい。恩人だなんてそんな、私何もしてないですし……!」
「産まれる前に産婆から、ナーラの体格や年齢的にこれが最初で最後の機会だろうと言われていた。ナーラは体力がなく、出産に耐えられるかも分からなかった……! だが、お前が――あなた様が、体を強くする動きを教えてくれて、十分な準備ができた。出産のときも的確に励まして下さって――夫婦二人で、乗り越えることができた……!」
「え、ええ……。だから頑張ったのはナーラさんとサーリフさん――」
顔を上げたサーリフに涙目で叫ばれ、椿はもうどうしていいか分からなかった。サーリフは神を目の前にしたかのように熱っぽく続ける。
「しかも! 産後用に痛み止めと滋養の薬まで置いていってくれたと聞いた……! その機転と慈悲深さ! あなた様がいなければ無事に産むことはできなかった! 感謝してもしたりない……!」
(たっ……、助けてイクバール!!)
すっかり毒気を抜かれて信奉者のようになってしまったサーリフに、椿は焦りを通り越して薄気味悪さすら感じてしまった。
これが夫の産後ハイか。イクバールがこのタイプでなくて心底良かった。
ひざまずくサーリフを立たせると自らも立ち上がり、椿はどうどうと手でなだめる。
「あの……落ち着いて。感謝とかいらないんで、頼むからいつも通りでお願いします。本当に大したことはしてないので、早く帰って休んで下さい。サーリフさんも徹夜でお疲れでしょう?」
「私など、ナーラの尽力に比べれば何ということもない。だが、これだけは……! 今伝えておかねば!」
「……?」
サーリフが姿勢を整え、胸に拳を当てた。そのまま深く頭を下げると、誓いを立てる騎士のように彼は宣言する。
「我が主イクバール殿下の親愛なる側妃、ツバキ様――私はあなたを、必ず正妃にする! このご恩に、我が魂をもって報いてみせます……!」
「!?」
熱っぽく告げたイクバールの側近に、椿はもう眩暈を起こしそうだった。
(私情混じりっていうか……私情しかない! 頼むから助けて! イクバール!!)
そしてその夜、噂をすればのイクバールがやってきた。椿から事の顛末を聞いた夫は、涙を滲ませながら爆笑する。
「おっ、俺のところにも涙目でサーリフが報告に来たぞ。素晴らしい妃を娶って下さり、ありがとうございますと言ってな。……ふふ、ふはは……っ! お前、いったいどんなまじないを使ったんだ。あのサーリフが……くくくっ。手のひら返しもいいところだ……!」
「私にも何がなんだか分からないわよ……。ほんっと困ったんだから! ルムアなんてカタカタ震えてたんだからね!」
「ぶっ……! くくく……。お前、実は……すごい女だな?」
「もう、笑いすぎ!」
遠慮なく笑い倒しても、イクバールはまだ足りないようだ。やがてそれが収まると、大きな口でにやりと笑ってみせる。
「だが、これで強い味方が増えた。……もう少し待っていろよ、ツバキ。俺はお前を必ず正妃にする」




