51.待つ愛、待たない愛
「――おや。マリカ姫は寝返りを習得されたのですな」
「そうなんです。でも寝返りがえりはまだだから、戻れなくなっていっつも『えーん』って。泣くならやらなきゃいいのに、難儀ですねえ……」
「でも、どんどん成長されていて素晴らしいですわ。ああ、わたしも無事に早くこの子に会いたい……」
マリカが生後4か月を迎え、椿はその日シャウラと共にサーリフ邸を訪れていた。臨月間近のナーラは小柄な体には大きすぎる腹を抱え、息を吐き吐き腹をさする。
「お二人とも、お呼び立てしてすみません。もう、サーリフに『家の中だけで退屈すぎる』なんて愚痴るんじゃありませんでしたわ」
「まあまあ。たまたまシャウラさんと約束もしていたんで。調子はいかがですか?」
「お腹が重くて……。あとひと月もあると考えると体力が持つか心配です。でも、お二人が来てくださって本当に嬉しいです。もう外出もままなりませんもの」
「分かります。私も離宮で仕事はしていましたけど、もう外に出たくて仕方なくて。まあ行ったところですぐ疲れたんでしょうけど」
寝返りがえりができず、案の定ぐずり始めたマリカを抱き上げながら椿が言うと、その小さな手を握って少女のような友人は優しく笑う。
二人ともマリカがイクバールの実の子ではないと当然知っているはずだが、産前から態度も何も変わらないのがありがたかった。
「マリカ様と次にお会いできるのもだいぶ先ですね。大きくなるのでしょうね。……あの、サーリフはお二人のご主人に迷惑をかけてはおりませんか? 最近、わたしよりもよほど落ち着かないようで……仕事がちゃんとできているのか心配ですわ」
ほう、と憂い顔をする可憐なナーラに、それまで黙って話を聞いていたシャウラが寄り添う。長身の麗人は、ナーラを安心させるように涼しげな笑みを浮かべた。
「ご心配めされますな。わたくしが見る限り、普段通りにお過ごしですよ。まあ、我が夫へのツッコミは普段より手厳しいようにも思いますが」
「やっぱり……! ごめんなさい、シャウラさん。ディルガーム将軍、お怒りではありませんか……?」
「なんの。本人は気付いていないようなので何も問題ございませぬ。まったく我が背の君は可愛らしい」
森のクマさん――ではなく髭マッチョのディルガームを「可愛らしい」と称え、4人の子をもうけたシャウラは涼しげな美貌からは想像もつかないが夫を深く愛しているらしい。
そんな大先輩ママかつ年齢も自分より上のシャウラに、椿は最近聞いてみたいことがあった。
「あの……こういうことを聞くのは本当に不躾かもしれないので、お嫌でしたら聞かなかったことにしていただきたいのですが――。あっ、あと旦那様にも内緒にしていただきたいんですが……!」
「……? なんでしょう、ツバキ様。なんでもお聞きくださいませ。わたくしに分かることでしたら、なんなりと」
長い前置きにシャウラがゆったりと首を傾げる。椿は急に恥ずかしくなり、マリカを抱きしめながらぼそぼそとつぶやいた。
「あ、あの……シャウラさんは、産後はいつから……その、夫婦生活というか、愛の営み……? を再開されましたか?」
「え――」
単語が分からないだろうと婉曲に表現したら、かえって恥ずかしいことになった。
赤くなりながら気まずく尋ねた椿に、シャウラが虚を突かれたような表情になる。それを見て、椿は小さく手を振った。
「すみません、不躾すぎましたね! ご夫婦の間のことなのに、配慮が足りませんでした。忘れていただいて――」
「お、お待ちください……! あの……わたしも、興味があります……。今まで、こんなことを話せるお友達はいなかったから……」
猛スピードで後悔する椿を遮るように、ナーラが横から小さく叫んだ。椿以上に真っ赤になった友人は、窺うようにシャウラをちらりと見上げる。
年上の友人はふっと優しい笑みを浮かべると穏やかに告げた。
「まったく。わたくしの友人たちは、二人とも可愛くていらっしゃる。問題ありませぬよ、軍ではその手の話が飽きるほど飛び交いますゆえ。……ツバキ様、何か悩みがあるのですね?」
「あ……」
女子校の憧れの先輩のような麗人に問われ、椿は言葉に詰まった。……どう説明しよう。迷っていると、からかうそぶりもなくシャウラが問いかける。
「殿下が、伽を急がれるのですか? 待ちきれずに求めておいでに?」
「い、え……そうではなく――。むしろ逆で……」
「逆?」
シャウラとナーラにきょとんとした視線を向けられ、椿はしどろもどろになった。元の世界でも、女友達とこんな話をじっくりしたことなんてなかった。
けれど真剣に聞いてくれる二人に、まだ誰にも話していない心の内を打ち明ける。
「求め……られないんです。体どころか、出産してから、その、抱擁や口付けさえも――。やはり、相手が母親になったらそういった気持ちは湧きづらくなるんでしょうか。そういう対象としてはもう見られない……?」
「…………」
椿の告白に、二人は揃って静かになった。
産後、イクバールからキスもハグもされていないという事実に気付いてから、椿は日ごとにそれが不安になっていた。
イクバールは忙しい中でも顔を見せにきてくれて、椿やマリカにも良くしてくれる。今後、正妃を迎えるとしても、ここまで来て椿たちを放り出すことはしないと確信できる。良き父で良き夫だと思う。
けれど産前も抱かれたことがなく、産後、スキンシップすらまったくなくなってしまったその素振りに椿は女として不安を抱いていた。
戯れのような言葉や触れ合いはあるが、そもそもイクバールはもう自分を女として見ていないのではないか――。そう悶々として、思わず二人に愚痴ってしまった。
悄然とする椿にシャウラが静かに問いかける。
「失礼ですが、ツバキ様は月のものはもう再開されましたか?」
「え……? いえ、まだです。ほぼ母乳なので、遅いのではないかとパリサも言っていました」
「なるほど。……まずはじめに、産後いつから交合を再開したか、という問いに対しての答えですが……わたくしは、月のものが再開してからでした。わたくしはもう少し早くても良かったのですが、ディルガームが遠慮して……。もちろん、職務もありますのですぐに孕まぬよう注意はいたしましたが」
「そうなんですね……。教えていただきありがとうございます」
恥ずかしがる様子もなく、淡々と答えるシャウラに椿とナーラは深くうなずいた。シャウラは当時を思い返すようにふっと唇に薄い笑みを浮かべる。
「人には向き不向きがありますゆえ、わたくしは乳も子育ても乳母とディルガームに任せきりでしたが……一生懸命、我らの子に離乳食を与えている我が背の君を見ていると愛おしさが湧き上がり――辛抱たまらずわたくしが押し倒しました。何やらムラムラきて」
「ぶっ……!」
「きゃっ……!」
麗人からとんでもない単語が出てきた。ナーラなど口を押さえて真っ赤になってしまっている。
「そ、そうなんですね。仲が良くてうらやましいです」
「……ツバキ様。わたくしは、ディルガームが待ってくれたのも愛、わたくしが急いたのも愛だと思っています。……殿下も同じなのでは? 交わりを求めるばかりが、触れるばかりでは愛ではないでしょう。あなた様の体が完全に回復されるのを、殿下は待っておいでなのではないですか?」
切れ長の瞳で微笑まれ、椿は曖昧にうなずいた。すると、横からナーラも拳を握って力説する。
「そ、そうですよ……! わたしなど、普段から恥ずかしくて触れ合うのはあまり得意ではないのに、それをちゃんと求められるツバキさんやシャウラさんは愛が深いと思います。逆に待っていられるディルガーム将軍や太守も……! お二組とも、とっても素敵なご夫婦ですわ」
ナーラの援護にシャウラも笑ってうなずいた。まだどこか不安な顔をする椿にシャウラが重ねてたたみかける。
「ツバキ様は、お産の前の星巡りの宴を覚えておいでですか? 僭越ながら、わたくしも出席させていただきましたが」
「もちろんです。あの時は助けていただきありがとうございました」
「いいですわね……。わたしも見たかったですわ、ツバキさんの晴れ姿。堂々としたたたずまいだったと、サーリフが」
「ど、どうでしょう。どちらかというと、予想外の行動をして怒らせてしまったような気がしますが……」
新妻かつ妊婦が酒を注いで回って老人たちを褒めちぎったことを思い返し、椿が苦笑するとシャウラはゆったりと微笑む。
「何ものにも染まらぬ真白き衣装で、あなた様が凛と大広間に入ってきた瞬間――殿下は誇らしげで、そして愛おしいものを見つめる目をしておいででした。わたくしは殿下に仕えて長いですが、あのような表情は見たことがありませぬ」
「え――」
「あれほどツバキ様とマリカ様を溺愛されている殿下が、あなた様に女性として魅力を感じていないなどありえない。殿下の臣として、そして女として断言いたします。……時をお待ちなさいませ、ツバキ様。必ず良きようになりますから」
武人らしく節張った手で手を握られると、呼応するようにナーラもうなずく。二人の親友に励まされ、椿は温かい気持ちで目を閉じた。
「ありがとうございます……。もうお二人に、心底惚れてしまいそうです」
「それは僥倖でございますな」
「まあ嬉しい! わたしも、お二人が大好きですの……! 次は産後にまた来て下さいましね」




