49.触れない唇
「ルムア! ほらどうした、そんな打ち込みでは俺の首は取れんぞ」
「分かっております。――ふっ! はぁっ……!」
マリカが産まれてちょうど100日が経った。
休みが重なったイクバールは朝から青の離宮を訪れ、椿の顔を見てマリカをあやしたあと、ルムアに久々の手合わせを持ち掛けていた。
以前と同じように木剣で打ち合う二人を、椿は回廊の日陰からマリカと眺める。
「見て、マリカ。ルムア綺麗ねえ。まるで舞っているみたい」
「あばー。あーう」
「あら、分かる? 一緒に応援しましょ。頑張れー、ルムア!」
「えっ。あっ、はい!」
「おい、そこ!」
侍女に黄色い声援を送る椿に、イクバールから怒声が飛ぶ。椿がマリカを抱っこしたまま「なによ」と見ると、便乗するようにマリカがブブブ……とよだれを飛ばした。
「なぜ夫を応援せん! マリカよ、よだれを垂らしてないで父さまの雄姿を見ていろ」
「だってルムアを見ていた方が楽しいもの。マリカもヒラヒラしてる方が好きよね。……はぁ、綺麗ねえ。剣舞ってこんな感じ? 今日もうちの子が可愛い……」
「お、恐れ入ります」
夫たる元主人ではなく自分の方を絶賛され、ルムアが恐縮する。侍女姿のルムアは長衣をものともせず、以前にもまして素早く的確な動きでイクバールの急所を狙っていた。
衣装も改良して上着には長いスリット、下はパンツになり、ふわりと舞うように戦う姿に椿はホーッと見とれた。マリカも揺れる布にキャッキャと喜んでいる。
「くそ……。再開だ。こうなったら絶対に勝ってやる」
「ルムア! 勝ったら三人でお揃いの髪紐を着けましょうよ。私と同じ髪型に編んであげる」
「……!」
椿の声援が飛んだその瞬間、ルムアの目の色が変わった。
消していた足音を立てて素早くイクバールの懐に飛び込むと、その首を目がけて木剣を突き立てる。だが一瞬早く、イクバールが剣の柄でそれを弾いた。
しかしルムアは木剣をあっさりと手放すと数歩飛び退き、自らの前腕に手を滑らせた。そこからシャッと、目にも留まらぬ速さで何かが放たれる。
「!」
銀の軌道を描いたそれは鋭くイクバールの髪をかすめ、ビィィン!と背後の壁に突き刺さる。
落ち着いて見ると、ごく薄く平べったい小さな刃物――ナイフが刺さっていた。暗殺者の目をしたルムアに椿とイクバールはひゅっと固まる。
「……っ」
「暗器か――。お前に暗器を出されては、適うわけがないな。……お前、俺を殺す気で放ったな?」
「刃は入れてない訓練用です。……ご無礼つかまつりました」
ルムアが一礼し、イクバールの背後のナイフを引き抜く。それをふわりとした袖に隠していた前腕のホルダーに収めると、ルムアは椿の前で膝を折った。
「……ツバキ様。我が主に勝利を捧げます」
「えっ。あっ、うん! おめでとう。えっと……今度、一緒に買いに行きましょうか」
「はい……! 姫様と、ツバキ様とお揃い……嬉しいです」
さっきまでの凄腕アサシンが、一瞬にしてほわほわのウサギになった。
手を伸ばすマリカを抱き上げくすぐったい笑みを浮かべるルムアと、それを微笑ましく見守る椿。そんな女性たちの語らいの蚊帳の外で、イクバールだけがぶすっとむくれていた。
汗を流しにいくと輪を離れたイクバールを追って、椿は離宮の裏庭に回った。妻どころか娘と元従者にも相手にされなかった背中がさすがに可哀想になり、姿を探す。
この国では特に風習はないようだが、マリカの誕生100日目のお祝いにパリサに頼んで菓子を作ってもらった。それを手に、水場がある一角まで来ると椿は日向を覗き込む。
「イクバール? ……っ」
「うん?」
振り向いたイクバールは、汗ばんだ衣を脱いで裸の上半身を晒していた。強い陽光のもとで褐色の肌に汗がきらめき、それを水に浸した布で拭っている。
鍛えられ、引き締まった体躯の側面を這うように、首から右の鎖骨、そして手首まで黒い刺青が刻まれている。初めて見るその裸身と蛇のような刺青から、椿は思わず目を逸らしてしまった。
「どうした。今さら慰めにでもきた――。……おっ。ロクムか!」
むすっとしたイクバールが、椿が手にした皿を見た瞬間にぱっと喜色を浮かべた。スタスタと歩いてくると、椿の目前で皿の上の菓子を嬉しそうに眺める。
ロクムとは、一口サイズの餅のような甘い菓子だ。果実やナッツの味がする色とりどりなそれは、見た目はゼリー菓子やマシュマロのようにも見える。
(待って。……えっ、無理。直視できない!)
至近距離に褐色の肌が迫り、椿は挙動不審になった。皿を掲げたままさりげなく視線を逸らすと、イクバールが「あ」と口を開ける。
「食わせてくれ」
「え……? なんで」
「手が濡れている。しかし今、猛烈に甘いものが食いたい。……ほら」
もう一度催促されると、椿は適当に選んだロクムを一個つまみ、おそるおそるイクバールの唇に運んだ。それを歯で奪い取ったイクバールは口の中でもぐもぐと咀嚼すると、ふっと相好を崩す。
「これは……フレーズだな。次はそっちの木の実のやつだ」
ピンクはベリー系だったようだ。お次はナッツ系を所望され、クルミのようなものが包まれたロクムを再び運ぶとイクバールの唇が椿の指に触れた。そのままチュッと舐め取られ、椿はびくっと固まる。
そんなことが残り3つほど続き、6個目を求められたところで椿は首を振った。
「もうおしまい! 皆の分がなくなっちゃう」
「なんだ、もうしまいか。まあ、あとで残ったものを頂くとするか。……ほら、お前も食え」
すっかり手も乾いたイクバールが、最初に食べたフレーズ味のロクムをつまんで椿の唇に押し付ける。ふに、と弾力のある甘味が唇に触れ、椿はしぶしぶ口を開いた。イクバールの指になるべく触れないようにそれをかじる。
そんな椿の動揺を知ってか知らずか、イクバールは目を細めると嬉しげに問いかける。
「どうだ? 美味いだろう」
「甘い……。お茶と一緒に食べたい……」
「本来はそういうものだ。茶の用意をしてくれ。着替えたらすぐに行く」
引き締まった後ろ姿で告げるとイクバールが別室に去っていく。残された椿はイクバールのたくましい裸身と、それに反する柔らかい唇の感触を思い返して一人で悶えた。
――そういえば、マリカが産まれてからまだ一度も口付けしていなかった。
イクバールに星読みの館からの来館要請が届いたのは、その茶会の後のことだった。




