48.私情と大局と
「最近マリカがよくしゃべるようになってな。『あうあうエイエイ』言ってるだけだが、会話しているようで面白いな、あれは。すぐヨダレを垂らすのには困ったものだが」
「離乳食が始まるともっとすごいぞ。離乳食もなあ……気に入らんと粥をペッペと飛ばしてくるからな。シャウラが無言でキレていたから結局4人とも俺が食べさせたなあ」
――昼下がり。太守府の執務室では、報告に来たディルガームが部屋の主のイクバールと子育て談議で盛り上がっていた。
マリカは3か月になり、最近は自分の手を見つめてしゃぶるのに夢中だ。体もずっしりと重たくなってきて、椿が肩が凝ったと言っていた。そう告げるとディルガームは髭を撫でる。
「ツバキどのは息災なのか? シャウラに聞く限りは産後の肥立ちは良さそうだが」
「ああ。護衛を増やして、少しずつ外出するようになってきた。先手を打って公にした側妃だからな。おいそれと手出しできる馬鹿はこの街にはいないだろうよ。シャウラも良い働きをしてくれていると聞く」
「久々に赤子と触れ合えて嬉しいと言っていたぞ。こちらとしても、妻の機嫌が良くて助かる」
出産前後で落ちた体力を戻すために、椿は少しずつ行動範囲を広げるようになっていた。
産前に何者かに急襲された経緯もあり、外出時の護衛をルムアだけでなくもう一人増やすことになり、時折ディルガームの妻シャウラが駆り出されていた。
友人関係となった二人の交流の時間も兼ねており、椿もいい気分転換になっているようだった。
イクバールはいったん言葉を切ると視線を鋭くして尋ねる。
「……それで、帝都まで探らせていたが結局首謀者は分かったのか?」
「いや……分からずじまいだった。面目ない。あれから音沙汰がないのを見ると、お前が椿どのを側妃だと公にしたことで諦めた可能性もあるが……なんとも言えんな。しかし子供が姫君だったのは幸いだった。男児だったら、次はその子が狙われていたかもしれんからな」
太い腕を組んでディルガームが告げると、イクバールもため息をついた。そこに、サーリフが扉を開けてやってくる。
「イクバール様。……ああ、ディルガーム将軍もお越しでしたか」
「おおサーリフ。ナーラどのの調子はどうだ?」
「日ごとに慈愛深い美しさを増しております。8か月に入り、腹がだいぶ重たそうですね。あの華奢な体で子を育んでいるのがいじらしくて、常に後ろから支えていてやりたい気持ちが日々ふつふつと湧いてきますが――」
「あまり構いすぎると逆に嫌われるぞ。シャウラなど、産前は手負いの獣のようだった。『腹が重い』と、俺まで理不尽に重石を持たされてなあ……。良い鍛錬にはなったが」
「あなたのところの女戦士とうちの可憐なナーラを一緒にしないで下さい。……まあ、友人として良くしていただいてるのには感謝しますが」
いつものやり取りを終え、サーリフがイクバールに向き合う。彼は懐から書状を取り出すと机の上に置いた。
「帝都から、側妃を迎えた件とマリカ姫誕生についての祝辞が届いております。建前上は好意的に」
「ほう。……して、本音は?」
「当然、印象は良くありませんね。後ろ盾もない、子持ちの若くもない女を娶ったわけですから。しかも『禍つ者』のいわくつきで」
淡々と告げるサーリフにイクバールは苦笑した。見ないでも分かる面倒な書状を、一応は開いておく。
「事実だが辛辣だな。……まあそうだろうよ。俺が父だったら、どこの毒婦にそそのかされたのかと息子の頭が心配になる。もしもマリカが将来子持ちの男を連れてきて『結婚するの!』などと言い出したら、そいつを殺しかねん」
「それにはまったく同意です」
「そうかあ? 俺は面白いと思うがな」
「ディルガーム将軍は黙っていて下さい」
ぴしゃりと言い、サーリフは長いため息を吐く。薄い色の瞳で主君を見ると、怜悧な補佐官は低く問いかける。
「本当に、ツバキを正妃にと望まれるのですか? お父上や帝都の意向に逆らって。……マリカ様も産まれ、ツバキに執着するのは分かります。あの者たちの存在があなた様の癒しと、支えになっているのも分かります」
しかし、とサーリフは厳しい瞳で続ける。
「あなた様は、いずれこの国を統べるお方。私情で正妃をお選びになるのはおやめ下さい。……ツバキに私心がないのは分かります。他に正妃を迎えると言えば、彼女は納得するでしょう。お互い干渉させず、別で囲えば良いではないですか。正妃には、国の大局にふさわしい立場の方をお選び下さい。……あなたの懐刀としての私からの進言です」
「…………」
忠臣として一線を引いたサーリフの言葉に、イクバールは真顔で彼を見上げた。静かになったディルガームに視線を向ける。
「お前も同じ意見か? ディルガーム」
「俺か? 俺は……そうだな。政治的なことはよく分からんが、俺はお前を支持するぞ、イクバール」
「ディルガーム将軍――」
「怖い顔で見るな、サーリフ。腹の子が泣くぞ。……イクバールが、理想の女をずっと探していたのは事実だろう。しがらみがなく、自分で立てる力を持った賢く美しい女……だったか? ツバキどのがまさにそうなんだろう?」
無言でうなずくと、ディルガームは自慢の顎ひげを指でしごく。
「そう思える女に出会ったのなら、その直感は信じた方がいい。星の導きやもしれんからな。ツバキどのが国の大局にふさわしくないと言うのなら、そうなるよう周りが導けば良いだけよ。……イクバール、ツバキどのは努力家か?」
「まあ……そうだな。師に心配されるほど負けず嫌いではある」
「それなら心強い。あとはいずれ跡継ぎを産んでくれれば盤石だが――これに関してはイクバール、お前が励めとしか言えんが」
「ふん」
まだ抱いたことすらないのに、励めとは言ってくれる。イクバールが肩をすくめるとサーリフが割って入る。
「そんな悠長な――。ここまでのんびり引き延ばしたぶん、跡継ぎ問題は喫緊ですよ?」
「そうは言っても今すぐイクバールが枯れるわけでもなし。今から待っても5年ほどだろう? 他に正妃を迎えるかどうかは、その時点で判断してもいいとは思わんか。何より今こいつに他の妃を娶らせても、ツバキどののところに入り浸ってロクに通いもせずに怒らせて、それこそ大問題になりかねんぞ」
「……っ」
真顔でうなずいたイクバールにサーリフが苦々しい視線を向ける。彼は大きなため息をつくと、この話は終わりとばかりに乱暴に書状を折りたたんだ。
「ひとまずは、お礼の返信だけしておきます。……ああ、あと5か月後には帝都で陛下の即位30周年の式典がありますね。そのとき直接お願いしてきて下さい。私もナーラの出産を控えておりますから、この件に関してはいったん保留です。……そういえば、婚儀はいつにするのですか? 産後に落ち着いたらとおっしゃっていましたが」
「それも保留だ。お前もナーラが落ち着かんし、そうこうするうちに帝都へ向かう時期になるだろう。まあ、マリカの1歳の誕生日頃にすればいいんじゃないか? いっぺんに宴が終わって楽だろ」
「子供の誕生日とご自身の婚礼を同列にする方がありますか。まあ、あなたがそれでいいのなら特に急ぐ必要もありませんが……」
呆れたように答えたサーリフを見上げると、イクバールは眉を歪めて口の端で笑う。
「ツバキが何やら体型を気にしているようなのでな。元に戻ってからの方が気持ちが楽そうだ。……まったく、産後は産後であのむっちりした感じと胸の大きさがいいのに、男心の分からん奴よ」
「はっはっは。分かるぞイクバール。あの妙にそそる感じは、乳をやっている期間特有だからな。今のうちによく拝んどけ」
「だから将軍は黙って下さい。……はぁ。あなたがこんなに骨抜きになるなんて予想外ですよ。あなた、女の趣味悪いですね」
余計な仕事を増やしてくれるな、とキッとサーリフに睨まれると、主君に対するとは思えない態度にイクバールは小さく笑った。
「前にツバキにも言われたが、なんだかなあ。毛を逆立てていた猫を手懐けたつもりが、そいつがいざ懐いてみるとたまらなく可愛く思えてな。ときおり野生を思い出したように歯向かってくるのも、またいい。……なんだこれは。これが骨抜きということか?」
「何度も言いますが、私の前でのろけるのはやめて下さい。……分かりましたよ。ひとまず、ツバキには妃にふさわしい知識とふるまいを身に着けてもらうよう、おいおい努力してもらいますから」
「知らんうちに寝首を掻かれるなよ、イクバール。俺たちを女に溺れた馬鹿皇子の、間抜けな臣下にはせんでくれ」
「まったくです」
忌憚なく意見を述べてくれる側近たちの存在が心強い。イクバールは自身の感情と椿の資質を冷静に分析しながら、今後の対策を考えていた。
「さて、頑固な親父殿への手土産は何にしようか……」




