4.誘惑の香り
それからすぐに女性の使用人――侍女がやってきて、椿は太守府の奥……のさらに奥へと案内された。役所然とした表に比べると、中庭が設けられたり小さな水路が流れていたりと私的な空間という感じがする。
その中の一室に椿を通すと、侍女は言葉少なに室内の衝立を指し示した。
「お召し替えを。……急なことでしたのでハマムはご用意できませんでしたが、お湯を用意いたしました。済みましたら、お食事をお持ちします」
「え。……あ、はい。ありがとうございます」
深々と頭を下げて侍女が去ると、椿は首を傾げた。ハマムとはなんだろう。
……それにしても、ずいぶんと待遇がいい。ここまでしてもらえるとは思っていなかったのだが。
ジャケットを脱ぐと、シャツが汗で張り付いていた。こんなに嫌な汗をかいたのはいつぶりだろう。
スラックスと下着も脱ぐと、用意されていたお湯を張った洗面器の中に布を浸す。ぬるい水がほてった肌に心地良く、椿は髪の中まで汗を拭き取った。
「わ……綺麗」
清潔な下着らしきものを身に着けると、渡された着替えを広げて椿は感嘆の声を漏らした。
真紅の長袖の長衣に、ゆったりとしたパンツ。そしてリボンのような帯。中でも長衣には細かな刺繍とビーズの装飾が施され、手のかかった品であることが一目で分かった。
先ほどの侍女の着こなしを真似してふわりとまとうと、一瞬にして自分がこの世界に馴染んだような気がする。
「――失礼いたします。お支度はお済みでしょうか」
「あ、はい」
衝立の向こうから声をかけられ、椿は慌てて表に出た。食事を運んできた侍女がじっと頭から足まで見つめ、断りを入れてから椿の体をまさぐる。
「あの……?」
「……失礼。帯だけ直させていただきますね」
肩から足元までくまなく触れた手が、最後に帯を結び直して離れた。それから侍女は、椿の首と耳元に繊細な金のネックレスとイヤリングを下げる。
「えっ。これ……!」
「お貸しいたします。高貴なお方の前に出る時に着飾るのは、最低限の礼儀ですので」
すん、と当然のように言い放たれて椿は困惑した。この服にしろアクセサリーにしろ、衣食住に困ったただの迷い人に貸し与えるものではない気がする。
そんな椿には構わず、侍女は低いテーブルに食事の支度を整えるとさっさと行ってしまう。床に座り込んだ椿は今になって猛烈な空腹を覚え、見慣れぬその料理を前にごくりと唾を飲み込んだ。体感的には丸半日、水しか口にしていないのだ。
(ここまで来て毒で始末、とか――ないわよね? スパイシーで美味しそう……。これで死んだらその時はその時よ。食べよう)
そっと手を合わせると、この世界に来て初めての料理を椿は残さず平らげた。
それからさらに、1時間ほどが経った。食事は下げられ歯磨きもして、椿は手持ち無沙汰に蝋燭の入ったモザイクランプの灯りを見つめていた。すでに日もとっぷりと沈み、世界は夜になっていた。
腹が満腹になり、やることもないと急激な睡魔が襲ってくる。ただでさえ妊娠してから眠気が強くなったのに、今日は色々なことがありすぎた。
カクンと舟を漕いだ椿はバサッと布が払われる音に、慌てて顔を上げた。足音がして、もう一度仕切り代わりの布を払うと背の高い褐色の男が姿を現す。
昼ぶりに見るこの太守府の長――イクバールの訪れを、椿は背筋を伸ばして出迎えた。
「……なんだ、また礼もなしか。つくづく不遜な奴だな」
「あ。す、すみません。……こんばんは」
「ああ」
ぞんざいに答えたイクバールがどかりと正面に腰掛ける。椿は一度頭を下げてから顔を上げると、イクバールと向き合った。
(……? あれ。この人、そういえば何しに来たんだろう。まだ話すことがあるのかな?)
夜に来るとは言っていたが、何しに来るかまでは聞いていなかった。椿がきょとんと瞬くと、イクバールは無表情にこちらを見返す。
昼に会ったときは猛々しいという印象が先に立ったが、こうして夜に見ると、黒髪が暗い金の瞳に影を落とし、着崩した襟元も相まって思いのほか色気のある人だと思った。
「あの……お世話していただき、ありがとうございました。服や食事まで――助かります」
「ああ。先ほどはなんの装飾もないみすぼらしい装束だったが……なんだ、着飾ればだいぶマシじゃないか」
「…………」
ボーナスで奮発して買ったブランドのスーツを、みすぼらしいと言われた。頬が引きつったが、湧いた小さな怒りを押さえつけて椿は切り出す。
「ええと、それで今回はなんのお話で――」
食事に来たのでもなさそうだし、話があるならさっさと済ませてほしい。椿が促すと、イクバールは短くため息をつき、突然椿の手首を掴んだ。
「えっ」
「まどろっこしいな。……さっさとするぞ」
「え? ……っ! なっ――、んっ……!?」
引き寄せられ、クンと鼻に男性的な香りが通り抜けた。
優しい花や果実の匂いではない。スパイシーなムスク――官能的で、日本ではあまり馴染みのない香りだ。
その香りのする衣に抱きとめられたと思った瞬間、顎に手がかかり、椿は唇を塞がれた。




