45.父の顔
「――ルムア!? どうしたの、その格好」
「おはようございます。イクバール様が、ご用意して下さって――。あの、変ですか?」
「とんでもない! えー可愛い……。やだ、可愛すぎてマリカと並べたい……」
マリカが産まれて3日経ち、朝の支度に入ってきたルムアの姿に椿は息を呑んだ。彼が――いや、彼女が? 昨日までの小姓のような男装ではなく、女性用の衣装を身に着けていたからだ。
どこからどう見ても侍女にしか見えないその姿に、椿は衝撃で声を失う。
「え、イクバールが命令したの?」
「いえ。これは自分が望んで……。この先もツバキ様にお仕えするなら、いつまでも小姓姿でいるとあらぬ誤解を招きますゆえ。今後は侍女として護衛として、お側に侍らせて下さい」
「ルムア……。ありがとう。でも、離宮の中では好きな格好をしていいのよ?」
「いえ……。あの、実は……嬉しい、です。宴のときのように、ツバキ様とお揃いみたいで。あっ、でも、パリサさんが動きやすいように縫い直して下さって! 護衛としての動きも問題ありません」
「ちょっと……! 見えちゃう!」
たまらなく可愛いことを言うと、ルムアはおもむろに足を広げて高く上げる。
淑女は絶対にしないその動きに魅惑的な生足が覗き、椿が慌てるとムルアはいそいそと裾を直した。そんなルムアに椿は破顔する。
「……嬉しいわ。大好きよ、ルムア! これからもよろしくね」
「はい……!」
朝食が済むと、寝たままではあるが椿はようやく髪を洗ってもらうことができた。
まだ股の痛みも悪露もあるが、産後の経過は順調だった。どこにそんな機能を隠していたと思うほど出てくる母乳を与えながら、椿は後陣痛にうめく。
「いったたた……。うあ、吸われるのもまだ痛い……。もーちょっと緩めてマリカ」
「ウマル師のところで、傷薬をもらってきますか? それとも馬油? 羊毛脂?」
「羊毛脂がいいってシャウラさんが言ってたな……。とにかく保湿! 切れるのやだ!」
「了解しました。……あ、この匂いはお通じも出てますね。おしめも取ってきます」
肌を晒したことのないイクバールに授乳を見られるのは抵抗があるが、ルムアならもう全然平気だった。素早く色々なものを取りに行った敏腕侍女に椿は微笑む。
食に貪欲な我が子は左右の乳を吸い終えると、満足げに顔を離した。
「終わった? よしよし……。ゲップはパリサが一番上手いのよね」
背中をさすって空気を吐かせると、椿は生後4日目の我が子を見つめる。
沐浴したおかげで髪がサラサラになり、顔のむくみが取れた。椿よりも茶色い瞳がパチッと開き、次の瞬間、へにゃりと笑みのように崩れた。新生児微笑に椿は驚く。
「あ……」
愛らしいその表情には、見覚えがあった。というより、マリカの顔全体から色濃く感じ取れるもの。
椿とは違うクセのない髪。やはり異なる優しい面差し。色の薄い瞳。……それは、元夫の特徴を多く受け継いでいた。久々に、あのちょっと気弱で優しい笑顔が思い出される。
(あの人も、見たかったかな。自分の娘を――。戸惑いながらも、妊娠を喜んでくれたのに……。私が行方不明とか伝わってるのかな……)
ぽた、とマリカの柔らかな頬に雫が落ち、椿は顔を覆った。産後のホルモンバランスの乱れで涙もろくなっている。
――彼は、暴力を振るったわけでも、椿を苦しめたわけでもなかった。むしろ被害者だった。
イクバールに言わせれば、ただ星が合わなかっただけ。……それでも。
何かの奇跡で、忘れていてくれたらいい。彼がこれ以上、自分たちのことで思い悩むことがないように。あの優しかった人が、今度はもっと優しい人と幸せになれるように。
「ごめんなさい――。……ありがとう。…………さよなら」
せめて、大切に育てるから。マリカを抱えて静かに泣くと、幼子はもう一度ふにゃりと笑った。
その夜、イクバールがやってきた。椿が寝台から起き上がろうとすると、それをとどめて近くに腰を下ろす。
「まだ寝ていろ。体もつらかろう。……おおマリカ。今日はご機嫌だな」
イクバールはたまたま起きていたマリカを抱き上げると、胸に添わせて背中を撫でる。その微笑ましい光景に椿が笑うと、突然コポ、と赤子が乳を吐き戻した。イクバールの肩に白い液体が伝う。
「!」
「あ……。さっきゲップが出なかったから――。そこに布があるわ。着替えは?」
「あるわけなかろう。すぐ帰るから問題ない。……まったく。この俺に乳を吐き戻した女などお前が初めてだぞ?」
「それはそうでしょうよ……。そうじゃなきゃ困るわ」
肩を適当に拭うと、マリカを抱えたままイクバールが寝台に乗り上げる。距離が近付き、産後まだ水を浴びられていない椿は思わず体を離す。
「なんだ」
「いや、私たぶん臭うから……」
「……? 乳の匂いしかせん。気にするな」
何を言ってるんだと不可解な顔をして、イクバールが構わずマリカを抱き直す。広い胸に抱かれてウトウトとしはじめたマリカを二人で見つめていると、じわりとくすぐったい気持ちが胸を温めた。
(なにこれ。……これが幸せ?)
両親が揃って、赤子を抱いている。椿が心配する必要もないほど、イクバールはもうとっくに父親の顔だった。
こんな未来が来るなんて思ってもみなかった。いつの間にかホワンとイクバールを見つめていると、眠ってしまったマリカを見下ろし彼は小さくつぶやく。
「お前、そういえば乳母をつけていないと聞いたがそれはなぜだ?」
「え? ……つけてないわけじゃないわ。幸いお乳も出てるし、日中は自分であげてるってだけ。夜は代わってもらってるし――体調が悪い時なんかもお世話になるでしょうね。おしめも家事もパリサたちがやってくれるから、それぐらいはしてあげたいなって」
「普通、貴族の女は乳母に任せるのだがな……。ディルガームのところなんて、産後2か月で軍に復帰していたぞ」
「そういう選択もあるけど、私の体力では無理だわ……。母乳をあげたいのはマリカのためでもあるけど、私のためでもあるの。授乳は母体の回復を助けるのよ」
「そうなのか」
イクバールが小さく目を見張る。それに、と続けようとして椿は言葉を飲み込んだ。
(増えちゃった体重も落としたいし――。とは言えない……!)
知識としては知っていたが、産後も腹が全然へこまない。顔がむくんでいる感じもそのままで、体が落ち着いたら無理のない範囲で産後ダイエットをしようと椿は目論んでいた。こんな体をイクバールの前に晒せない。
プライドの高い椿の葛藤を知ってか知らずか、イクバールがぽつりとつぶやく。
「お前が望むなら、俺に異論はないが。……乳離れが済むまで、一般的にどのぐらいかかるんだ?」
「うーん。5か月か6か月あたりから離乳食が始まるから……だいたい1年ぐらい? 子供によるんだろうけど」
「1年か……。なかなか長いな」
イクバールがどこか残念そうに告げる。その横顔を見て椿は首を傾げた。イクバールは気持ちを切り替えるように、眠るマリカの頭を撫でる。
「マリカ。よく寝てよく食え。動けるようになったら父さまと遊ぼうな」
そうして娘に笑いかける夫の姿に、椿はギュンと心臓を撃ち抜かれた。




