43.産まれくるもの
椿が大声を上げるようになってから、2時間ほどが過ぎた。時刻はすでに夜だが太守府の執務室にはまだ灯りがともっていた。
執務を続けるとイクバールと、そわそわするサーリフと、護衛と称しつつ部屋の片隅で居眠りをしているディルガーム。小さないびきの声が響く中、イクバールはぼそっとサーリフに呼びかける。
「もう夜だぞ。帰ってやらんでいいのか。いつもはナーラが、ナーラがとすっ飛んで行くくせに」
「今日はディルガーム将軍の家に行かせました。シャウラ殿と一緒なら色々な意味で安心ですので。……あなたこそ、そろそろ内宮に戻られては?」
「そろそろルムアの定時報告が来るはずだ。それを聞いたら戻るさ。……ああ、来たか」
本来なら足音も消せる元暗殺者の従者が、それを隠そうともせずに太守府に再度駆け込んできた。目を覚ましたディルガームがわずかに警戒する中、扉が性急に開かれる。
「――産まれたか」
「いえっ……。まだ、です……。産婆どのは、順調に進行していると――」
再び息を切らしてルムアが入ってきた。イクバールの顔を見ると、美しい従者は唇を震わせる。その目が潤んでいるのに気付き、イクバールは立ち上がった。
「どうしたルムア。何かあったのか」
「いえ……。ただ、ツバキ様があまりにおつらそうで――。じ、自分が代わってさしあげられたらと……。出産時にお側に侍ることを許していただきましたが、自分はこうして伝令をするばかりで、何もお役に立てておりません。それが歯がゆくて……悔しくて……!」
いつも冷静な、この国に引き入れたときにはそれこそ人形のようだったルムアが感情もあらわに取り乱している。今にも泣き出しそうなその細い肩に手を置くと、イクバールはゆっくりと首を振った。
「お前とパリサが側にいることが、あいつにとって何よりもの励みとなるだろう。……側にいてやってくれ。そして新しい命の誕生を見届けてくれ」
「……っ、はい……っ」
「なあ、ルムアよ。お前はこれからもツバキの側で仕えたいか? 俺の側仕えに戻る道も、ディルガームやシャウラたちの元で軍人として活躍する道もあるが、お前はこの先どうしたい?」
常に忠実だった自分の元従者に問いかけると、ルムアはぐっと唇を引き結んだ。そして覚悟を決めた瞳でまっすぐに告げる。
「自分は――ツバキ様に、これからもお仕えしたいです。あの方と御子様を、全身全霊で守り抜きます……! ……申し訳ありません、イクバール様。目を掛けていただいたご恩も忘れ――」
「いや。その言葉を待っていた。……さあ戻れ、ルムア。お前の主人が待ってるぞ。次は出産報告で良い」
「御意……!」
細い背を押してルムアを送り出すと、イクバールと二人の側近は祈りの言葉をつぶやいた。
「うう……、うああ……っ! まだ? まだなの……!?」
「あと一刻というところでございますね。順調ですよ、側妃様」
「そんなに!? もう無理ぃ……。――ふっ、ううーっ!」
真夜中になり、椿は寝台の上で悶え苦しんでいた。産婆に内診され、まだ先が長いと知り絶望が襲う。
骨盤が砕けるようなあまりの痛みに気持ち悪くなり、先ほどついに戻してしまった。
思えばこれまで、体の痛みにはそう縁のない人生だった。生理痛や頭痛があっても薬を飲めばすぐ治ったし、こんな痛みはあとにも先にも経験したことがない。
体じゅう汗まみれになり、髪を振り乱す椿の腰をルムアが陣痛のたびに布で包んだ石で押してくれる。
「……ありがと、ルムア……。ごめんね……」
「礼など不要です。少しでも、助けになれば……!」
「――っ! やだ、また、来るっ……! ぐっ……、あああっ! もう無理、もう死んじゃう……!」
「ツバキ様、頑張って……! 息をして!」
はくはくと酸欠になりながら、必死で息を吸い込む。
――死ぬ。初めてリアルに命を終わりを意識して、ぞっと恐怖が襲った。
(死にたくない……! えっ、私だけもし死んだら、この子は一人ぼっち……? パリサたちにも真実を知られず?)
金の指輪を握ると、椿はその陣痛の波に耐えた。そしてそれが引くと、産婆が席を外したのを見計らって汗を拭いてくれていたパリサの腕をぐっと掴む。
「ツバキ様?」
「パリサ……! ルムア、聞いて……。今言っておかないと、後悔する……!」
万が一に備えて、遺書は書いた。だがどうしても、直接伝えたい。
迫りくる波に追い立てられるように鬼気迫る表情で椿はうめく。
「この子……イクバールの子じゃ、ない……! 前の夫との子なの……。私イクバールとは、まだ一度も……っ。ううっ! 今までだましていてごめんなさい……。ごめんなさいぃ……っ」
痛みにうなされながら絞り出した椿に、パリサが目を見開く。その波が引くと、パリサは椿の汗に濡れた頭を撫でた。
「そんなこと! もうとっくに知っておりましたよ。ねえルムア」
「はい」
「……えっ」
「若様から星巡りの宴のあとに直接伺って。それがなんですか。若様が父になると宣言したのですから、この子は誰がなんと言ってもツバキ様と若様の御子ですよ。……まさか、若様から言われてなかったんですか?」
「聞い、て、ない……」
椿が呆然とすると、あー、という顔で従者二人が目配せする。……今まで悩んでいたのは何だったのだ。
再び痛みの波が迫り、椿は天井から吊るされた紐を引きちぎる勢いで引っ張った。
「そういうっ、大切な、ことはっ……! 先に、伝えておきなさいよバカーッ!! 報連相、大事!!」
自らの寝所である内宮に下がったイクバールは、さすがに執務を続ける気にも寝る気にもなれず、中庭で一人星を眺めていた。
今日は新月で、星の瞬きがいつも以上にはっきりと見える。その中天にキラッと輝く星が一つ見え、そして短い尾を引いて消えていった。……一瞬の出来事だった。
「ほうき星か……。この季節に珍しい」
しんと冷え込む空気につぶやくと、おもむろに遠くから「ふにゃあ」と猫の鳴き声のような声が聞こえた。それにイクバールははっと振り向く。
切れ切れに小さな泣き声は続き、落ち着かなくうろうろと中庭を歩き回っていると外から足音が聞こえてきた。扉が開くのも待ちきれず、こちらから開けると全速力でルムアが飛び込んでくる。
イクバールの顔を見ると、ルムアは両目から涙をあふれさせた。
「おっ、お産まれになりました……! 姫君です!! 母子ともに、ご無事です……! うあぁああ……っ!!」
幼子のように声を上げて泣き出した元従者を、イクバールは固く抱きしめた。




