35.パリサ
翌日から青の離宮はにわかに騒がしくなった。
「まったくもう、若様ったら! こういうことなら、もっと早く言っていただかないと準備ってものがあるでしょうに!」
生地屋と仕立て屋の職人が招かれ、色とりどりの布が並べられる中でパリサがプリプリと怒っていた。しかしその声音はどこか嬉しげだ。
椿はその色彩に圧倒されながら、パーソナルカラー診断よろしく座ったまま顔の前に様々な色の布を当てられていた。
「あの、ツバキ様。体調は大丈夫ですか?」
「うん、平気よ。すごいわねえ……。布の見本市みたい」
「これだけ上質な生地が一度に見られることは、スークでもなかなかないですから……。あの、ツバキ様は明るい色もよくお似合いになられますね」
椿の体調を気遣いながらも、布を手に取るルムアもどこか嬉しそうだ。刺繍で飾られた布や見事なレースを手にしては、感嘆した様子でうっとりと眺める。
「若様の――太守のお色がこうなので、対のお方はこんな感じで……。ツバキ様、ご希望はございますか?」
「正装のことはよく分からないからパリサに任せるわ。あまり派手すぎない感じで」
「かしこまりました。お腹が大きいのでご負担にならないように――。ああ、意匠が決まったら装飾品もお願いしますね」
パリサがてきぱきと采配してくれるので椿はすべてお任せコースだ。餅は餅屋、その道のプロに任せるに限る。
そうして布とデザインと装飾品が決められると、次に待っていたのは美肌エステだった。
「……あの、パリサ。ここまでする必要があるのかしら……。短時間だし。夜だし」
「ありますとも。輝くお肌の美しさは内側からにじみ出るもの。最後の仕上げがものを言うのです」
星巡りの宴を数日後に控え、椿は離宮に併設されているハマムでパリサ渾身のトリートメントを受けていた。
ハマムとは、ざっくり言うと低温のミストサウナのことだ。今は妊娠中でのぼせやすいので少し体を温める程度だが、椿にはお気に入りの場所だった。
パリサが泡で体を洗ってくれるのも最高に気持ちがいい。出産したらじっくり汗を流そうと今から楽しみですらある。
「私、顔丸くない? 最近太った気がして……」
「妊娠後期に体重が増えるのは当たり前でございます。少しふっくらしていた方が艶っぽく見えるものですよ。ほらパリサをご覧ください。こんなに魅力的でしょうが」
「ふふ……本当だわ」
洗われた髪には丁寧に花の香りの香油が塗られ、この状況の贅沢さにめまいがする。
特別な日に向けて外見を磨き上げるのは決して自己満足ではなく、イクバールとの将来のための投資だ。浮かれている場合ではない――そう思うが、女としてやっぱり嬉しいものは嬉しい。
芳しい香りを満喫するように目を閉じた椿をそっとパリサが覗き込み、微笑んだ。
パリサは心の中で、かつての後宮での日々を思い返していた。
奴隷として親から売られた先は帝都の後宮で、パリサはそこで過酷な下働きに従事し、奴隷身分ということで妃や愛妾たちから陰湿な差別を受けていた。
それでも真面目に働いていたのが功を奏したのか、何度目かの配置換えで新しい側妃の側仕えに抜擢された。
後宮の踊り子出身の側妃ラハディ――第一子となる皇子を出産したばかりの彼女は非常に美しく、そして気性の激しい女性だった。
帝国待望の皇子イクバールにあふれるほどの愛情を注ぐかと思いきや、ラハディは自分が妊娠、子育てをしている間に他の愛妾や側妃たちが皇帝を誘惑するのではないかと気が気ではなく、幼いイクバールを顧みることはなかった。
その我の強さゆえついには夫である皇帝からも距離を置かれ、ラハディに第二子が宿ることはなかった。
母に顧みられず、ぽつんと中庭にたたずむ寂しげなイクバールの相手をパリサは何度もかって出た。時には故郷の遊びを教えたり、時にはイクバールの可愛い悪戯を一緒になって隠したり。
仮初めの母と子のような孤独な二人の優しい時間は、イクバールの腹違いの弟たちが不慮の死を遂げたときに唐突に終わりを迎えた。
硬い表情で「母から離れ、後宮を出て内宮で生活する」と告げた幼い皇子を、パリサはたまらず抱きしめた。
こんなに小さな子がもう大人への階段を登ってしまった、と心の中でパリサは泣いた。
それからも細々とした付き合いはあったが、ラハディが逝去し、この州都ジクラに呼び寄せられてはや数年。このまま穏やかに歳を取っていくのだろうと思っていたら、愛妾の世話をしてほしいと請われてパリサは驚いた。
引き合わされたのは、異国から来た年上の寵姫。しかも妊娠している。
警戒心を瞳いっぱいに浮かべた彼女に「これは何か事情がある」と長年に渡る侍女の勘が告げたが、イクバール直々の命にパリサは誠心誠意、彼女に仕えた。
礼節はありながらも最初は本心を見せなかった椿が徐々に心を開いてくれるさまに、喜びとやりがいを感じた。それはラハディに仕えていたときにはないものだった。
当初はイクバールに押され気味だった椿も、離宮とこの街での生活に慣れるにつれて、イクバールをいい意味で雑にあしらう場面が見られるようになってきた。
「太守」でも「殿下」でもなく、その名を敬称もなしに呼ぶ稀有な女性。
年上ゆえなのか、はたまた異国出身だからなのかそれは気安い態度で、そのようにイクバールに接する女性はこの国には他にいないためパリサは微笑ましく見守っていた。
しかしパリサをもっと驚かせたのは、イクバールの変化の方だった。
最初は椿を手の上で転がしてその反応を楽しんでいるのかと思っていたが、徐々に様子が変わってきた。
金の目に虎視眈々とした欲ではなく情がにじむようになり、椿に対する表情も驚くほど柔らかくなった。だんだんと膨らんでくる椿の腹を愛おしげに撫でるのを見たとき、パリサは胸が熱くなった。
――あの孤独だった子が、こんな顔をするように。
(……絶対に、無事に産ませて差し上げます。若様に初めての愛を、ツバキ様に安らげる居場所を、お二人に穏やかな家庭を――持っていただきたい。どのような事情があろうとも)
「……応援しております」
「ん……なに?」
薄布をまとい、豊かに波打つ濡れ髪や白い肌から幸福と色香を滴らせる美しい女主人の姿に、パリサは侍女としてこの上ない満足感を感じていた。




