32.誓約
イクバールの咆哮に目を見開いた直後、椿は上半身を引き寄せられた。腹には負担をかけぬように、だがしっかりと褐色の太い腕に抱き込まれる。
思わず手で突っぱねると、今度は頭を引き寄せられた。
「……っ。……抱擁は……許してないわよ」
「聞かん。ここで許しを待っていたら、お前は去るだろうが! 俺のもとから……!」
「……っ」
イクバールの胸に強く抱かれ、椿は滲む瞳で天井を見上げた。
熱い体温と、早い心音と、そしてムスクの香りが椿を包む。それはもう逃れようのない蟻地獄のように、甘く苦しい場所だった。
抵抗をやめた椿を少し離し、イクバールが金の目で正面から椿の瞳を見据える。
「……ツバキ。俺の妻になれ。愛妾ではない、正式な妃に。……慣例上、すぐに正妃にはしてやれないが俺はお前を妻として迎えたい」
「え――」
間近で放たれた、予想もしていなかった言葉に椿は目を見開いた。イクバールはこれ以上ないというような真剣な表情で椿を見つめる。
その意味が頭に届き、だが戸惑いが先に立って椿は唇を震わせる。
「で、でも、子供――」
「…………」
膨らんだ腹に置かれた椿の手を見つめ、イクバールが大きな手をその上に重ねた。しっかりと、その手を握りしめる。
「……俺の子だ」
「え……」
「俺とお前の子として、育てる。……血の繋がりは関係ない。誰にも文句は言わせない。男だろうと女だろうと、こいつは俺の子だ。もう決めた」
「…………」
信じられない気持ちでイクバールを見上げると、ポコンと腹が蹴られた。その振動が伝わったのか、イクバールもまた目を見開く。
「……はは。こいつも賛成と言ってるぞ。……俺が父だ。安心して出てこい」
「……まだ出てきちゃ困るんだけど」
「そうか。ならば、あとふた月はそこにいろ。無事に出てきたら――いい景色をたくさん見せてやる」
イクバールがふっと笑うと、呼応するようにもう一度腹が蹴られた。椿が顔を歪めると、溜まっていた涙がとうとうこぼれ落ちる。
「……仕事は……? あなたの気が変わって、路頭に迷うとか嫌よ私」
「最初から疑ってかかるな。信じろ、俺を。……制約はあろうが、お前から取り上げることはせん。ウマルにも、お前という風変わりな知識を持った薬師を失うのは国の損失だと釘を刺されたのでな。……俺はお前自身の幸福と国の利益の双方を追い求めることになるが、それならどちらにも旨みのある選択肢を取る」
甘い言葉だけではない現実的な言い分に、椿は少し笑ってしまった。そんな椿を見下ろし、顎に手をかけると鷹のような金の瞳と視線を結ばされる。
「妃として娶りながら、腹の子と血の繋がりがないと知れればひと悶着はあるだろう。だが何とかする。……そうだな、サーリフにもう少し恩でも売っておけ。あいつは悪知恵が働くから助けとなるだろう」
「人任せなの?」
「まさか。……いずれ帝都にて父の許可も取り付ける。許しを得たら――お前が正妃だ」
「……っ」
思ってもみなかった、いや完全に身に余る言葉を与えられ、椿は目を閉じてそれを噛みしめた。
この国の事情に疎い椿にも、さすがに分かる。愛妾なら、運が良ければ側妃までなら許されるのかもしれない。
けれど正妃は――無理だ。感情だけではどうにもならない、それこそ国の利害が絡む問題だから。
(でも……いい。今はもう十分……)
将来的に、自分が唯一の存在でなくてもいい。正妃となる人からは離れた場所で、彼とささやかな時間を過ごせたなら――もうそれでいい。
椿は目を開くと、自らの枷を外してイクバールにゆっくりと抱きついた。体温が重なり、固く張りつめた心を溶かしていく。
「……お前から求めてもらえたのは初めてだな」
「予想外よ。予想外すぎて……意味が分からない」
後頭部に手を添えたイクバールが愛しげに椿の髪を撫でる。その大きな手の心地よさに浸っていると、イクバールがぽつりとつぶやいた。
「婚礼もしないとな……。まずは子が産まれてからだな」
「私……後宮に移るの? 出入りが制限されるんでしょう……?」
「うん? ……いや、後宮を開けると広すぎて人手も足りんし管理が面倒だからな。このまま離宮にいてもらう。お前もその方が気楽だろう?」
「良かった……。広い場所に自分だけとか病みそうだし、私はここが好きだから」
「ふん。欲のない女だ。……それにな」
椿の頭を少し離すと、イクバールは正面から椿を見据えた。ふいに真剣な顔でつぶやく。
「俺は、後宮に女を閉じ込めるのはどうも好かん。狭い世界で鬱々としていると、ロクでもないことを考えはじめるからな。相応の警戒は必要だが、夫と同様、妻も自由であるべきだ。……外の世界に目を向けろ、ツバキ。お前にはまだまだ知らねばならんことが山程ある。俺のこともな」
最後は間近でニッと笑われ、椿はきょとんと瞬いた。
――帝都の後宮で、人の道に外れる過ちを犯したかもしれないイクバールの母。彼はそれを警戒している。弟たちの死をいまだに悔やんでいる。
軽口に隠された苦い感情に椿は気付いたが、あえて傷口に触れることはせず苦笑で返す。
「だいぶ知ったと思うけど? こんな顔して甘党なところとか」
「いいや。お前はまだ、俺がどのように妻を愛するか知らんだろう。……喜べ。お前が最初で唯一、知ることができる女だ」
「……っ」
親指を唇に押し当てられ、それ以上の言葉を封じられる。イクバールは金の目を鋭くすると笑みのない声で告げた。
「唇を許せ。誓約の対価に」
「……風邪がうつるわよ」
「舌を入れなければ大丈夫だろ。それにもしうつったとしても、お前が薬を作ってくれるだろう?」
「勝手なことを――。…………。妻にすると決めた女にも、そうやっていちいち許可を取るの?」
イクバールの唇を手でガードしながら問いかけると、彼はそれを掴み、大きな口で弧を描く。
「当然だ。……許しを請うのは、妻にする女には丁重に接すると決めていたからだ。己の最も大切にすべき女だからな」
「――っ」
褐色の精悍な顔が近付き、椿はとっさに目を閉じた。
彼に口付けられるのはこれが初めてではないのに、前とは意味合いがまるで違う。恐れるように首をすくめると、ふ、と吐息でイクバールが笑う。
「誓約だと言ったろう。……目を閉じるなよ、ツバキ。俺を見ていろ」
「……っ、無理……」
命じられてうっすらまぶたを開くが、間近に迫る黄金にやっぱり目を閉じてしまった。
ちゅ、と軽く温かな弾力が触れ、そして角度を変えてもう一度――長く、想いのこもった温もりが与えられた。
「……閉じるなと言ったのに。俺の花嫁どのは存外初心な反応で愛らしくて困る」
フッと色めいた瞳で笑われ、椿の頬がボッと染まった。それを見てイクバールは相好を崩す。
「……やはり物足りんな。もう一度、濃厚なのをしておくか?」
「しないっ! 本当にうつるから……!」
迫ってくるイクバールの頬を押しのけると椿は寝台に突っ伏した。声を上げて笑ったイクバールが上から覗き込んでくる。
「また熱が上がってもかなわん。今日のところはこれで帰ろう。……養生しろよ、花嫁どの。また明日来るからな」
最後にこめかみに口付けを落とし、イクバールが去っていく。
目まぐるしすぎたこの半日の感情のジェットコースターに翻弄されながら、椿は再び上がった気がする熱を完全に持て余していた。




