31.熱情の先
「――ツバキが襲われて倒れたと聞いたが、まことか?」
「イクバール様……! 申し訳ありません。自分がついていながら、ツバキ様にご負担を掛けてしまいました……!」
白昼堂々の急襲から一刻ほど。サーリフから知らせを聞いたイクバールは急いで離宮へと向かった。
門ではルムアが待機していて平伏して失態を詫びる。
予測できない急襲であったこと、身重であっても椿を逃がすのが最優先だったことを理由にそれを許すと、イクバールは椿の部屋に踏み込む。その枕元で、医務院から呼び寄せられたウマルが小さな目を見開いた。
「太守……。そうでございましたか、やはりあなた様がツバキの――」
「ウマル。久しいな。急な呼び出しによく馳せ参じてくれた」
「いえ。すぐそばですし、ワシの大事な弟子ですからのう……。今日は本調子でもなさそうじゃったゆえ、もっと早く帰らせるべきでした。申し訳ない」
「良い。こちらも油断していた」
恐縮する老薬師に首を振ると、イクバールは椿の容態を聞いた。
腹が張って動けなくなってしまったところに元々の不調が重なり、熱が出ているとのことだった。今は赤い顔で静かに寝ている。
「……腹の子に影響は」
「出血もなく、軽い風邪ですので大丈夫でしょう。しかし、仕事はもうやめておいた方が良いでしょうな。……預かった当初から気になってはおりましたが、この子は少々頑張りすぎるきらいがある。身重の体であるのに、まるで何かに追い立てられるように仕事に打ち込み――無理が祟ったのでしょうな。出産までゆっくり養生させてやって下さい」
「それは……無論」
「あとは、人を頼ることを覚えなされとお伝え下さい。負けず嫌いなのか、この子は他人に頼るのが下手でしてのう……。特に産前産後、それではポッキリ折れてしまうぞと休み前に言うつもりでしたが、あなた様から言ってやって下さい。何やらジジイの知らぬ事情もありそうですしな」
白髭を撫でながら告げた老薬師に、イクバールは深くうなずいた。この者、思った以上に椿のことを理解している。
「……ツバキは師に恵まれたな。そなたに預けて良かった」
「ほっほ。そう思うならば、産後落ち着いたらワシのところにお戻し下されよ。この子は愛でられるだけの女ではありませんからのう。己の役割に誇りを持てる子じゃ。……そういう女はなかなかいない。手放すと後悔しますぞ」
穏やかに笑うと、薬を置いて老薬師は去っていった。眠る椿の赤い顔を見ながら、イクバールは一つの覚悟を固めていた。
「ん……。……イクバール?」
「起きたか」
やがて陽が傾いてきた頃。椿はぼんやりと目を覚ました。
まだうっすら熱のある顔を巡らせると、枕元でイクバールが書物を読んでいた。声を掛けると、彼はそれを閉じて椿を覗き込む。
「私……もしかして倒れた?」
「ああ。走った衝撃で熱が出たようだな。ウマルに診てもらったが、腹の子には大事ないそうだ」
「先生が――。ルムアは?」
イクバールは寝ていていいと言ったが、体を起こした方がお腹が楽だった。支えられて背中を起こすと、彼は今日の顛末を説明してくれる。
「逃げた奴らは今ディルガームたちやルムアが捜索中だ。……ルムアを責めるなよ。お前を守るためにはやむを得ない判断だった」
「そんな気はないわ。……やっぱり、私個人が狙われたの? あなたの『愛妾』の存在がバレて、邪魔に思う人が――」
「まだ確証はない。裕福そうで捕まえやすい妊婦を狙ったただの物盗り、という可能性もある。……いずれにしても、お前は出産まで外出禁止だ。仕事も休みに入らせるようウマルに伝えた」
「そんな……!」
自分のあずかり知らぬところで行われた決定に椿は叫んだ。イクバールは冷静に、だが有無を言わせぬ強さで椿を諭す。
「いくらルムアが付いていようと、腹の大きな女を外で守りきるのは難しい。……お前の身の安全のためだ。逆らうことは許さん」
「…………」
椿は唇を噛んでうつむいた。経験を積んで、少しでも早く独り立ちしようと思っていたのに――そう思うが、今はイクバールの言葉が正しかった。
「……ごめんなさい、産後までお世話になるわ。でも、体が落ち着いて復職したらここを出ていくから」
「……っ。なぜだ。ここで育てればいいだろうが。ここにはパリサやルムアもいる。お前にとって悪いことはないはずだ」
「だってここは、『太守の寵姫』が囲われる場所でしょう……!? 本当は愛妾でもない女がずるずる居ていい場所でも、他の男との子供を育てる場所でもないわ。……心配しなくても、ちゃんとやれるから。一人で頑張る。そのために今まで働いてきたんだから……!」
熱に浮かされ、椿は刺々しく言い放った。虚を突かれたようなイクバールがぐっと眉を歪める。
「お前は……っ! なぜそう頑ななんだ。なぜ俺を、俺たちを頼らない? 誰かに依存するのと、必要なときに頼るのは違う。俺にはお前を助ける力も、助けたい気持ちもある! ……俺を頼れ。出ていくのはそれからでも遅くないだろう!」
「……っ。頼りたくない……っ。だってあなたは、いずれ妃を迎えるじゃない!」
「なっ――」
低い激昂に激昂で返すと、イクバールは金の目を見開いた。椿は赤い顔で、涙を滲ませながら叫ぶ。
「そんなの……間近で、見たくない……。あなたの気持ちは私に向かないのに! …………もうやだ……なんでこんな気持ち――。みっともない……こんなの私じゃない……」
泣き顔を見られたくなくて、とうとう顔を覆った。頭がクラクラする。
熱で感情が制御できなくて、言ってしまった。撤回したいが、口にしてしまった言葉はもう元には戻せない。
体調が許すなら今すぐ飛び出したい。ぐちゃぐちゃな心で深く息を吐いていると、イクバールが絞り出すように口を開いた。
「なぜ分からん……。髪飾りを、渡しただろうが……!」
「……?」
「俺が戯れやその場しのぎで、あのようなことを二度もしたと思うか? みっともないのが、嫉妬するのが、お前だけだと思うな!」
「――ッ!」




