29.不器用な笑み
「――ふう。いい汗をかいた」
「……っ」
自室に戻って椿が休んでいると、断りもなくイクバールが帳を上げた。椿がビクッと振り返ると、汗を井戸で流してきたイクバールは髪から水を滴らせたまま床にどっかりと腰かける。
「ちょっと、ちゃんと拭いてよ」
「細かいぞ。お前、パリサに似てきたな」
呆れたように前髪をかき上げ、金の目が椿を見下ろす。その視線に晒され、椿はふいと視線を逸らした。
気持ちを自覚した今となっては、これ以上深く触れ合うのが怖かった。
「ずいぶん長くやってたわね。どうだったの?」
「俺が勝った。ルムアが戦うのとは目的が違うんでな。奇襲ならあいつの方が強いだろうが、長期戦なら俺に分がある」
「そう……」
特に自慢する風でもなく事実を淡々と述べるイクバールに、椿はうなずくことしかできなかった。そんな椿にイクバールは流し目で笑いかける。
「それで、何か褒美はくれんのか?」
「え? ……なんで私が」
「御前試合の勝者には、その場の主が褒美を与えるのが習わしだ。今日で言うならお前だな」
「あなたの方が立場は上じゃない」
やたらご褒美を欲しがる皇子に呆れた視線を向けると、イクバールはじっと椿が動くのを待っている。それに根負けして、椿は息を吐き出した。
「分かったわよ……。何が欲しいの? お菓子?」
「俺は子供か。まあ菓子でもいいが、そうだな、花の笑顔でも見せてもらおうか」
「はあ?」
不可解な言葉に眉をひそめると、イクバールは真顔で椿を見つめる。
「先ほどは上機嫌だったのに、今は浮かない顔でどうした? 何か気がかりでもあったか」
「……っ」
感情を表に出さないようにしていたのに、すぐにバレた。それはイクバールが椿を意識して観察しているからだが、椿には知る由もなかった。
腹をさすると、椿はもっともらしい「理由」を述べる。
「ちょっとお腹が張ってるだけ。平気よ」
「そうか。では、心配事の尽きない俺の寵姫どのにこれをやろう」
「……?」
イクバールは手のひらほどの箱を取り出すと、それを椿の手に乗せた。突然渡された贈り物に椿は困惑する。
「なんで私がもらってるのよ。逆なんじゃないの?」
「寵姫に贈り物をするのは男の甲斐性だ。それでお前が喜べば俺も満足する。……開けてみろ」
この世界では珍しい布張りの箱を開けると、椿は目を見開いた。赤い、繊細な布細工でできた花――の髪飾りだ。それはどこか、故郷の花にも似ている。
「髪飾り……」
「ああ。……ツバキとは、花の名前なのだろう? それがどんな花かまでは知らんが、想像で作らせた」
「……私、あなたに名前のこととか話した?」
「話したぞ。……なんだ、忘れたのか。赤くて、花びらが幾重にも重なり凛と咲く花と――」
「…………」
椿ですら忘れていた何気ない会話を、わざわざ覚えてくれていたのか。その事実に、胸が疼いた。
箱から髪飾りを取り出すと、返す返すそれを見て椿は息を吐く。
「綺麗ね……。すごく細かくて……ふふ、椿に似てる」
「似ているか。そうか、ツバキとはこのような花か」
イクバールが柔らかく笑み、椿の手から髪飾りを取り上げる。それを丁寧に椿の耳の上に挿すと、満足げにうなずいた。
「この国でこの美しい花の名を知っているのは俺だけだな」
「……っ」
それは、髪飾りのことを言ったのか椿自身のことを言ったのか分からなかったが、椿を赤面させるには十分な言葉だった。
横髪をかき上げ、イクバールが顔を露出させる。
――こんなことで、決意が揺らぎそうになるなんて。
そう思うが、じわじわと痺れるように湧いてくる喜びが椿の唇を緩ませる。
不器用に微笑んだ椿を、イクバールが甘い瞳で見つめた。




