2.砂上の街
「嘘……。どこの国なの? ここ……」
30分ほど歩いただろうか。ようやく街らしきところまでたどり着いた。だがその赤茶けた高い壁――城壁と大きな門を見上げて椿は呆然と目を見開く。
そこはどう見ても、日本ではなかった。茶色い門を通る人はまばらだが、その下にいる門番らしき人たちも中に入っていく人たちも褐色の肌をしていて、日本人の風貌とはかけ離れている。
さらには皆が民族衣装のような色とりどりの布をまとい、椿のような洋服を着ている人は一人もいなかった。
(えっ中東……? ドバイ? それともエジプトとか? 私、海外にまで来ちゃったの!?)
パスポートは家に置いてあった。それを取りに戻ってさらには長時間のフライトまで……?
身に覚えのない行動にさすがにぞっとすると、門番らしき男たちがこちらを不審に見ていることに気付く。
引き返したいのはやまやまだか、そろそろ喉の乾きも限界だ。キュッと唇を締めると椿はゆっくりとその男たちに近付く。
(いきなり捕まったりとか、ないわよね? 英語通じるかな……駄目だったら詰むな。まずは警察? いや大使館か……?)
「Excuse me, where is ――」
「なっ、なんだ!?」
「えっ。日本語!?」
警戒されないよう微笑で話しかけたら、まさかの日本語が返ってきてぎょっと目を見開いた。当惑する門番と見つめ合うと、椿はおそるおそる問いかける。
「あの……通じますか?」
「あ、ああ。……何者だ? 通行手形を見せろ」
言葉が通じると分かると、門番の警戒がわずかに緩んだように見えた。椿は無害を示すように両手を上に向けると、困りきった顔を作ってつぶやく。
「それが……すべてなくしてしまって。あの、この街に日本の大使館はありますか? 私、日本から来たんですが気付いたら砂漠にいて――。ジャパンです、分かりますか?」
「待て待て! なんだ、何を言ってる? ニホン……?」
「そう、日本。大使館に行きたいんです」
「タイシ――。太守か……? 太守府に行きたいのか?」
「タイシュ? ……ああ、はい。そうタイシ。大使に会いたいです」
今一つ言葉が噛み合わない気がするが、訛りでもあるのかもしれない。椿がうなずくと、門番は胡散臭そうにこちらを見下ろし「ちょっと待て」と言った。そのまま詰め所に戻っていくと、上役に相談してきたのかため息を吐いて椿の前に立つ。
「太守府は街の中心部だ。……分かるか?」
「いえ……。地図か何かあれば自分で行きますが」
「地図なんて高級なモン、一介の衛士が持てるわけないだろう。……俺は文字は書けん。入り口までは案内してやる。ついてこい」
中年のその男がぶっきらぼうに告げ、すたすたと歩き出す。椿は慌ててその背中を追った。
「あの、その前に……! 水を一杯いただけませんか」
「はあ? ……ああ、しょうがないな。ほら、そこに湧いてる。それは飲んでも大丈夫なやつだ」
男が指差した先には、彫刻――レリーフが彫られた壁と、その下部に洗面ボウルのような小さな水瓶があった。水瓶の中にはこんこんと水が湧き、椿は思わず駆け寄る。
衛生的にどうだろう、という懸念はあったが渇きの苦しみの方が勝った。水の中に手を突っ込むと、それを皿にしてゴクゴクと喉を潤す。たっぷり3杯飲んで人心地つくと、椿はようやく周囲の光景に目を向けることができた。
(何この街――。すごい)
日干しレンガを積み上げた赤茶色の建物の間を、褐色の肌を持つ人たちが行き交っている。その身を彩るのは鮮やかな色彩だ。男も女も長い衣をまとい、首や耳に金の宝飾品を揺らしている。
そして匂い。乾いた熱い空気の中に薄く漂うスパイシーな香りは、ここが日本でないことを強烈に訴えかけていた。動画で見た中東の街並みのような、けれどそれよりも開放的でエキゾチックな光景が椿の胸を刺した。
「落ち着いたか? 先行くぞ」
「あの……! 今、何時ですか? あと今日って何月何日?」
そういえば、ここに来てからどのぐらい経っているのだろう。手荷物はすべて失い、唯一身に着けていたスマートウォッチも水没して壊れたのか画面がつかない。
椿の問いかけに門番――いや、衛士が太陽を見上げて答える。
「2時ぐらいじゃないか。正確なのは広場の日時計を見んと分からん」
「日時計!?」
先ほどこの男が文盲だと言っていたのにも驚いたが、まともな時計すらないとはどういうことだ。しかも道行く人たちも、スマホどころか工業製品らしきものをまったく持っていない。
混乱する椿に男はたたみかける。
「日付は忘れたが、今はシャムウ天暦420年だ。あんた大丈夫か? 外つ国の出身のようだが、荷物と一緒に記憶もなくしちまったか?」
「…………」
聞き慣れぬ暦、そして見慣れぬ街並みと人々に呆然とする椿にため息を吐くと、衛士は無言で足を進める。椿もとぼとぼとそれについていくと、しばらくして他とは違う雰囲気の建物の前に出た。
日干しレンガではなく、石造りの壮麗な建物だ。丸いドームに、見事なアラベスクが浮かび上がる壁面。開け放たれた巨大な扉は鈍い黄金に光っており、びっしりと細かい紋様が刻まれている。
一見して、有力者の――非常に位の高い人が使う建物だと分かった。
「ここが太守府だ。すごいだろ。このジクラで一番立派な建物なんだぜ」
「ジクラ?」
「この街の名前だ。州都なだけあって、帝都の次に大きな街なんだぜ」
衛士がどこか自慢げに言うのを、椿はぽかんとその丸屋根を見上げながら聞いていた。衛士は門番と二言三言話すと、扉の奥を指し示す。
「受付はあっちだ。話聞いてもらいな。じゃあな、気を強く持てよ」
「あっ……。ありがとうございました!」
面倒ごとから解放されたとばかりにそそくさと立ち去ろうとする衛士に、椿は慌てて頭を下げた。
少なくとも、悪い人ではなかった。衛士はひらりと手を振ると、もと来た道を戻っていく。椿はきゅっと唇を引き結ぶと黄金の門をくぐり、薄暗い建物内へと入った。
受付でこれまでの経緯を語った椿は、困惑する職員に案内されて奥に通された。絨毯の敷かれた広間で床に座らされ、そこで待つように言われる。だだっ広い部屋で一人になり、椿は周囲を見渡した。
先ほどの衛士やここの職員と話してみての仮説だが――それは本当に馬鹿馬鹿しい想像で、もしかしたらというレベルのものだけれど――ここは日本ではないどころか、椿の生きている時代ですらないかもしれないと思った。
それなりの文明レベルはありそうなのに、ここまで現代的なものを見かけないなんてきっとあり得ない。
(異世界、とか……? ……中学生みたい。それか、全部私の夢?)
はっと鼻で笑うが、これが夢だったなら本当に精神状態が心配になる。ため息を吐いてずっと抱えていたジャケットを羽織ると、ポケットに何か硬いものが触れた。
「あ……母子手帳……」
取り出すと、赤ちゃんの絵が描かれた手帳が濡れてぐっしょりとしていた。検診のあとに突っ込んだままだったそれを大事に手に取ると、椿はうつむく。
ここがどこなのか分からないけれど、もし、ここから帰れないとしたら。
自分一人ならなんとかなる。でも――こんな体で、どうやって生きていったらいいのだろう。手持ち無沙汰な時間を使い、椿は自分が言うべきこと、やるべきことをフルスピードで考えはじめた。
「太守のお渡りです」
「!」
30分ほど待たされただろうか。低い男の声がして椿ははっと顔を上げた。
首をめぐらせると、重たい木の扉を開けてズカズカと男が入ってきた。そのあとに、今度は音もなく細身の男が続く。
先に来た男はずいぶんと背が高い。艶のある濃紺の長衣をまとった若い男はじろりと椿を見下ろすと、片膝を立ててどっかりと正面に腰を下ろした。
少し長めの黒髪に、褐色の肌が荒々しい印象の精悍な顔つき。その中でも、鋭く輝く金の目が印象的だ。
射すくめられたように見入ってしまった椿に、男は片眉を歪めて笑った。
「ほう……? 俺の前で平伏もしないとは、ずいぶんと不遜な女だな」




