1.虚飾の幸せ
「どこなの、ここは……」
つぶやいた唇が渇きはじめているのに気付き、口内を唾液で湿らせる。
空には遮るもののない灼熱の太陽。足元にはこれまた熱い果てしなく広がる砂――砂漠。そんな砂の上を、ローヒールのパンプスで足を取られながらゆっくりと歩く。
新調したばかりのベージュのジャケットはとても着ていられず、脱いで小脇に抱えた。額に滲む汗を拭こうとして、ハンカチはなくしてしまったバッグの中に入れたままだったと気付きチッと舌打ちする。
「暑い……。信じらんない……」
綺麗に巻いてオイルをつけた髪はじっとりと汗ばみ、長いそれが邪魔で何度もかき上げた。猫の目のようなぱっちりとした瞳をしばたかせると、椿は視線の先にあるぼんやりとした光景を睨んだ。
揺らめく空気のその先に、茶色い塊のような建物たち――街が、見える。
(なんなの、ここ。鳥取砂丘? でもあそこって海が見えるんじゃなかったっけ――)
直前の記憶は、たしか会社に向かって普段とは違うルートを歩いていたところだった。
メキ、と音がして振り向いた瞬間、水柱が上がった。その水しぶきが自分に降りかかって――そこから先の記憶がなく、気付いたら砂漠の上に倒れていた。
(水道管の老朽化とか、最近よく見るから……。でもだからって、なんで砂漠? もしかして私、死んだ?)
それにしては陽光の容赦なさや、足元をすくう砂の熱さがひどくリアルだ。一歩一歩進むとぼんやりとしていた建物たちがはっきりと輪郭を示すようになり、椿は少しだけ歩みを速めた。
これは違う。死後の世界じゃない。だってこんなに暑く、そして――苛立っている。
(新幹線にしろ飛行機にしろ、仕事ほっぽって無意識のうちに旅に出てるとか、私の精神状態結構ヤバかった? 離婚で参ってた?)
「違う……。そんなことない!」
脳裏に浮かんだその弱気な考えを、椿は声を出して一蹴した。両の拳をぐっと握ると、街に向かってずんずんと進む。
「なんで私が、こんな目に――!」
頭をかすめた憎らしい顔を黒い思考で塗りつぶすと、椿はまだふくらみもわずかな腹を覆って歯を噛みしめた。
離婚してほしい。そう夫――元夫から告げられたのは一月前のことだった。
妊娠して、ようやくつわりが落ち着いてきた頃に突然告げられた言葉にぽかんと彼を見返すと、元夫はグジグジと今までの不平不満を述べ、最後にこう告げた。
『俺はもう椿さんとやっていける自信がない。椿さんは強いから、一人でも生きていけるだろう? 養育費はちゃんと払うから――』
『は……?』
そう言った瞬間の、彼の顔。まるで逃げるように椿から視線を逸らした。
しんどいつわりを乗り越えて、産後のブランクに備えてさあ仕事を頑張ろうと思っていた矢先に。ようやく自分らしい生活に戻っていけると思っていたその時に。
父となる責任に、伴侶としての責務に背を向けた彼に一瞬にして――失望した。気持ちが冷めた。
そこからはただひたすらに冷静だった。財産分与と慰謝料と養育費。もらえるものはもらう段取りをつけて、さっさと新居を探して引っ越した。離婚届は相手に出させた。
せめて浮気でもしてくれていたら慰謝料が増えたのに、と内心で思ったときには笑ってしまった。たった2年の間柄だったけど、それにしたってこんなにも浅かったのかと。
あとに残されたのは、もう産むしか選択肢のないお腹の子と空っぽの心だけ。その空虚な体を抱え、椿はひたすらに歩く。
(私は悪くない。あの人が悪い。一人だって何も困らないし。やってやるんだから……!)




