26.サーリフ
「なあ、サーリフ。知っているか。妊婦の腹は硬いんだぞ」
「私が知るわけないでしょう……」
政務の息抜きに、イクバールは傍らの補佐官へと問いかけた。部屋の中には今二人きりで、聞かれて困る相手はいない。
椿の腹に初めて触れてからひと月ほどが過ぎ、あれから何度か触れさせてもらったが、胎動を感じられたのはあの一回きりだった。もう一度感じてみたいのに、と思っている自分にイクバールは驚く。
「あの女ですか? だいぶ様にはなってきたとウマル師から聞いてはいますが。そういえば、最近顔を合わせておりませんね」
「ああ。一気に腹が大きくなってきたぞ。だがディルガームに言わせれば、それでもまだまだらしい。最終的には弾けんばかりになるそうだ」
「弾けそうに……」
サーリフが端正な顔をヒク……と引きつらせる。彼はンンッとわざとらしく咳払いすると、どこか硬い面持ちでイクバールの前に立った。
「……あの、ツバキの話が出たついでにお話があるのですが」
「うん? なんだ、改まって」
「妻が……妊娠しました」
仏頂面をほんのりと染めて放たれた言葉に、イクバールは瞬き、そして破顔した。
「おお……そうかそうか! 良かったな! 待望だな。あのナーラがなあ」
ナーラというのはサーリフの妻の名だ。童顔でふわふわした印象の顔を思い浮かべて肩を叩くと、サーリフは無言でうなずく。
「まだ分かったばかりか? 大事にするようナーラに伝えてくれ」
「はい。……ただ、つわりがひどく……。毎日吐いてばかりで瘦せ細っていくのが心配で――。産婆は大丈夫と言うのですが」
「ああ、そういうものか……。ツバキも仕事しながら影で吐いていたと言ってたな」
顔を曇らせたサーリフにイクバールは同調する。……まったく、女はすごいと思う。男はこういうとき大したこともしてやれない。
サーリフは暗い面持ちで手元に視線を落とす。
「ツバキがこちらに迷い込んだとき――5か月、でしたか。つわりは収まっているようでしたが、おそらく万全ではなかったはず。それは今もですが――。もう少し配慮してやれなかったものかと、今になって悔いています」
「……当の本人はもう忘れているようだが?」
「妊娠中と産前産後の恨みは一生だと、ディルガーム将軍に言われました」
「さすが4人の子持ちは言うことが重いな」
あれほど毛嫌いしていたのに、急な宗旨替えもあったものだ。やはり溺愛する妻からの影響は甚大らしい。
だがそうかと言って、すぐに謝罪できるような性格や椿との関係性でもない。イクバールは実益を兼ねて助け船を出してやることにした。
「ツバキをナーラのところに招いてみてはどうだ? あいつは薬を調合できるし、つわりに効かずとも話し相手ぐらいにはなるかもしれん。互いの子が無事に産まれたら、ゆくゆくは遊び相手ともなるだろう」
「……なるほど。そのようにいたします。……しかし、変わりましたね。ずいぶん信頼されているのですね」
「うん? ツバキをか?」
「はい。足繁く通われているようで……。正直、腹が大きくなり抱けなくなったら飽きるだろうと思っていました」
「ひどいな。俺が外道のようではないか」
実際は一度も抱いてないけどな、とは告げず鼻で笑うと、サーリフは補佐官の顔に戻る。
「失礼ながら、『太守が見知らぬ女人を離宮に囲っている』と噂になっております。それからその者の腹が膨らんできていることも」
「まあ二月も経てば気付く者もいるだろうな。それで?」
「特に公的な見解は出しておりませんが、長老会や帝都の大臣たちから何か言われるのも時間の問題かと――。独り立ちは出産までに間に合いません。ひとまず住居だけでも確保して居を移すのか、それともこのまま産ませるのか、いかがするのですか?」
サーリフの表情には切羽詰まった色が浮かんでいた。それは椿を追い出そうという顔ではない。
妻が妊娠し、同じ妊婦である椿の状況を他人事ではなく案じる気持ちが出てきたのだろう。それに対し、自分は彼の主として、そして椿を庇護した者として最良の答えを出さねばならない。
イクバールは笑みを消すと迷いなく告げる。
「再びの大きな環境の変化は母体の負担になる。パリサやルムアとも信頼し合ってるしな。あのまま離宮で産ませる予定だ。居を移すにしても、産後落ち着いてからで良い」
「そうですか……」
どこかホッとしたようにサーリフが言うのを見て、イクバールは感心した。
……大した女だ。いつの間にか、周囲の人間を取り込んで味方につけている。この国で生きる基盤を築きつつある。それは自分も例外ではなく。
「……あいつ、実は人たらしだったのか。そういえば薬を売る成績は良かったと言っていたな。……危ないな」
「はい?」
つぶやくと、耳聡くサーリフが聞きつける。彼は主の顔色を窺うと、もう一言尋ねる。
「イクバール様は……あの者のことを、どのようにお思いですか。『禍つ者』の可能性があるとはいえ、女を囲われたのは初めてではないですか。しかもこれだけ長期間。ツバキが出産し自活できるようになったら――手放されるのですか?」
珍しく直球で投げられた質問にイクバールは沈黙した。自分で提案したあとになって、つい触れたくなってしまったその顔や唇を思い出し苦い笑みを浮かべる。
「……髪飾りをやった」
「……っ。では――」
「当人が気付いたかは知らんがな。そういう意味で渡しても良いと思ったんだが――あいつめ。全然この俺になびこうとせん。あまつさえ他の男やルムアたちとばかり仲良くなりおって」
不満が声色に出て、サーリフが目を丸くする。彼はまじまじと主君を見つめると困惑したように尋ねる。
「嫉妬……しているのですか?」
「嫉妬? 誰が。思い通りにならず調子が狂うだけだ。なんだこの気持ちは」
「いやそれがそう――。あなた、本気で分からないんですか?」
呆れたように見つめられ、イクバールは首を傾げた。
嫉妬とはなんだ。これまでそんなものを感じたことなどない。
成長してこの方、女に苦労したことも不自由したこともない。呼ばずとも向こうからやって来て、ひととき共に過ごしてもじきに鬱陶しくなり別れを切り出すか、何もせずとも相手が勝手に自滅して離れていった。
だからこんなに意のままにならないのは初めてだ。そう説明すると、サーリフは薄い色の瞳に憐れみを浮かべる。
「遅れてきた初恋ということですか。……顔が良くて権力があるというのも大変ですね。私は少しばかり頭が回るだけの平凡な男ですが、非凡なあなたよりも一つだけは進んでいるところがあったと知って安堵しております」
「なんだと」
急に先輩風を吹かされて顔を上げると、サーリフは冷静な補佐官の顔に戻って告げた。
「ツバキに文を出します。難攻不落の寵姫どのをお借りしますよ、我が君」




