25.その髪に触れるのは
イクバールに引かれて行った店でお目当ての作業着を複数枚買ってもらい、椿はホクホクと家路についた。
試着中に他の店に行っていたイクバールと共に夕暮れに染まる離宮に帰り着くと、門の前でイクバールが懐から何かを取り出す。
「……ほら」
ぽん、と手に乗せられたのは、繊細な花とツタが彫金された金の髪飾りだった。隣のルムアがあっと言う顔で頬を染める。
「……っ。これ――」
「野良着しか買ってやれないようなケチな男とは思われたくないのでな。……受け取れ。拒否は許さん」
突き返すこともできず椿が呆然と手元を見つめていると、イクバールがそれを手に取り、椿の耳元にスッと挿した。落ちてきた横髪を撫でると、満足げにうなずく。
「美しいな。……外すなよ。また夜に来る」
そう言って去っていくと、ルムアが耐えかねたように口を両手で覆った。その様は完全に盛り上がる乙女のそれだったが、耳まで赤くした椿にはルムアをなだめることはできなかった。
髪飾りを贈るのは、求愛。その髪に触れたい、その髪に触れるのは自分だけ――。ルムアの言葉が、ぐるぐると頭を回っていた。
そして夜。椿は自室でイクバールの訪れを待っていた。
いいと言ったのだがルムアに念入りに髪を梳かれ、なんだかいい匂いの香油まで渡された。それは付けなかったが、夕方に贈られた髪飾りを着けて彼の訪れを待つ。今までになく心臓がドキドキと脈打っていた。
(いや、私がこっちの常識に疎いって知ってるはずだし――。たまたま選んだのが髪飾りだっただけ。他意があるはずもない)
変に浮足立つ心をもっともらしい理由で鎮め、冷静になろうと努力する。
……何を期待している。他の男の子供を身ごもっている自分が。恥知らずもいいところだ。
(たまたま利害が一致したから、ここに置いてもらってるだけ。それ以外の感情なんてあるわけが――)
「――ツバキ」
「……っ!」
帳の向こうから声を掛けられ、ドクンと心臓が跳ねた。振り返ると、夕方よりも少し疲れたような顔でイクバールが部屋に入ってくる。
「……ふー。執務は終わりだと思ったら、帰ったらやり残しを押し付けられた」
「大変ね、お疲れ様。……それで、今日は何の用?」
「相変わらずつれないな、俺の寵姫どのは」
内心の動揺を悟られまいと平静に返すと、イクバールは笑って椿の前に座り込んだ。髪に飾られた金細工を満足げに眺めると、切り出す。
「さっきはルムアがいたんで言わなかったがな。……今日、俺はお前の願いを聞いたぞ。だから対価として、またどこか新たに触れることを許してもらおうか」
「え――」
しれっと言われ、椿はきょとんと瞬いた後に、はっと目を見開いた。
――そうだ、前に言っていた。椿の願いを聞くごとに、交換条件として体を一か所許せと。椿に触れたいからと……!
イクバールが椿の手を取り、その甲に口付ける。すでに許した部位へのその行為にたまらず頬を染めると、椿は視線を逸らしてつぶやく。
「待って。今考えるから。今度はどこを――」
「いや、今日は俺が決める。……腹だ。腹に触れたい」
「お腹……?」
思いがけないリクエストに椿は眉を寄せた。
……腹。正直、それほど性的な部位とは思えない。首を傾げると、イクバールはごく真剣な表情で口を開く。
「ルムアに聞いた。今日は胎動が強いんだろう? ならば俺も……それを感じてみたい」
「…………。いいけど……」
安心したような、肩透かしのような。
椿がうなずくと、イクバールが近寄る。握られたままだった手を持ち直してだいぶ膨らんできた腹に導くと、大きな手がそこに置かれた。
「なんだ、直に触らせてはくれんのか」
「図々しいわよ。動くかどうかは保証できないからね。気まぐれだから」
「ああ。……意外に固いんだな」
「そうね。パンパンに膨らんでるから……」
向かい合って座り、夫でもない男に赤ん坊のいる腹を触らせている。この状況に困惑する。
しばらく無言で待っていたイクバールは、難しい顔をするとおもむろに椿の横に座り直した。腰を抱き、椿を抱え込むようにすると再び腹に手を当てる。
「……っ」
――近い。近すぎる。服に焚き染められたムスクの香りが一気に近付き、椿は視線を宙にさまよわせた。
イクバールは集中するようにうつむくと、無言で手のひらを当て続ける。彼の手の熱が服越しに伝わってくる。……熱い。
「こっちの方が、分かりやすいか?」
「知ら、ないわよ……。――あっ」
「……っ。今――」
椿の焦りに応えてくれたのか、ポコ、と腹から小さな衝撃が伝わった。もう一度うにょん、と体をひねるような動きが伝わると、それきり腹は静かになる。
……やっと放してもらえる。そう安堵して息をつくと、顔を上げたイクバールと至近距離で視線が交わった。
「……!」
ギリギリで、唇が触れてしまいそうな距離――思わず目をつぶると、イクバールが動きを止めた。
その吐息をうっすら感じたまま固まっていると、ふいに気配が遠ざかる。
腹からも手が離れ、椿はほっと力を抜いた。体を離したイクバールがどこか余裕のない顔で笑う。
「男の前で目を閉じるな。約束を破って口付けそうになっただろうが」
「……っ!」
頬をカッと染めると、それを目に焼き付けるように見つめてからイクバールが椿の長い髪を取る。そこに口付けを落とすと、彼は立ち上がった。
「腹もどんどん大きくなってくるだろう。入り用の物があったら言え。……ではな」
「あっ。……あ、ありがとう! 作業着と、これ――。まだ言ってなかった」
「ははっ。野良着と同列にしてくれるな。……好きに使え。それはもうお前のものだ」
笑って帳をくぐるとイクバールの気配が消えていく。椿は触れられなかった、触れてしまいそうだった口を覆うとまだ赤い顔で項垂れた。
帳の向こうで、イクバールが同じ表情をしていることなど知る由もなかった。




