20.見えなかった手
椿が薬師見習いを始めて、半月ほどが経った。
今日も午前中で仕事を終わらせて午後はクファール文字の講義を受けていた椿は、夜も更けた頃に自室で本日の復習をしていた。
ランプに照らされた机の上にあるのは、手書きの薬草の絵だ。職場の先輩であるマジュディにもらった絵に日本語でこちらの薬草名や効能を書き込み、自分で薬草辞典を作っている。
貴重なボールペンを長持ちさせるために葦でできたペンで書いているため時間はかかるが、こちらにしかない薬草のバリエーションも少しずつ増えてきて椿は満足だった。絵に添えられたクファール文字も勉強の助けになる。
(エ、フェ、ル……あ、これ麻黄か。こっちはカッサリ……? 知らないな)
知っていることと知らないこと。それを照らし合わせ、新たな知識を吸収していくのは面白い。もう学生時代ほどの吸収力はないが、それでも生きるために必死になれば色々どうにかなるものだ。というか、するしかない。
目を細めて集中する椿の背後で、そのとき帳がばさりとめくられた。
「……っ!?」
「なんだ、机に向かっていたのか。パリサがまだ灯りがついていると心配していたぞ」
「イクバール――。え、どうしたの?」
「どうしたとは。寵姫の部屋に主が夜に訪れて何か不思議なことがあるか?」
事前の予告もなく二日ぶりに姿を現したのは、政務が終わったらしいイクバールだった。呆れたように言った彼は、机の上の書物や書き散らされた紙に目をやるとどかりと部屋の中央に腰を下ろす。
散らばっていた紙をかき集めると、椿も手を止めてイクバールと向き合った。
「調子はどうだ? 俺のところにも多少は報告が来るが」
「毎日いっぱいいっぱいよ。でも、少しずつ慣れてはきたかな。文字は……まだ時間がかかりそう」
「クファール語は大陸の言語の中でも習得が難しい方らしいぞ。……勤勉なのは結構だが、夜にあまり目を使うな。昼間の太陽でやられるぞ」
手振りで「もうやめておけ」と諭され、椿は素直に従った。凝った肩で伸びをすると、イクバールは興味深そうに椿が文字を書き足した薬草の絵を手に取る。
「お前が描いたのか?」
「絵は違うわ。職場のマジュディさんって先輩が」
「マジュディ? 知らん名だな」
「ウマル先生の一番弟子よ。絵がすごく上手くて――寡黙だけど、博識なの。今はその人に付いて薬草や調合のことを教えてもらってる。ほら、この絵なんてそのまま壁に飾っておきたいぐらいじゃない?」
「……ほう」
イクバールの声色がわずかに下がったことに椿は気付かなかった。精緻な筆跡で描かれた薬草の絵を穏やかな瞳で見つめていると、横からからかうような声がする。
「いい男か?」
「え? ……うーん、そうね。誠実でいい人だと思うわ。結婚するなら理想て――、ッ!」
最後まで言い切れなかったのは、イクバールがふわりと絨毯に椿を押し倒したからだ。クッションの上に頭を着地させられ、ランプの灯りを背負ったイクバールが唇をつり上げて椿を見下ろす。
「仮初めとはいえ、俺の寵姫が他の男のことを褒めるのは聞いていて面白いものではないな」
「は――。いや、聞いてきたのそっち……。――ッ、ちょっ!」
顔を寄せられて思わず首をひねると、首筋に息が触れて椿は焦った。
あ、と思ったときにはもう遅い。軽く吸い上げられて、痕を付けられた。
「――ッ!」
バッとそこを手で覆うと、その手の甲にも口付けてイクバールが体を起こす。
赤くなった椿の反応に満足げに鼻で笑うと、イクバールは再び座り直した。
「マジュディさんは既婚者よ!」
「たわけ。妻帯者でも他の女に手を出す奴は出す。……まったく、虫除けの意味でも痕を残さねばならなくなっただろうが」
「付けなくていい!」
キスマークを覆って椿も身を起こすと、イクバールを正面から睨みつけた。視線が結ばれ、金の目が愉快そうにしなる。
「相変わらず俺に懐かん猫だ」
「今の行動のどこに好かれる要素があったと思うの?」
「おかしな女だ。俺に迫られてなびかなかった奴はいないのだがな。お前、さては見る目がないな?」
「お生憎様。私の国では強引な男は敬遠されるのよ。あなたが皇子じゃなかったら、その上司に訴えて社会的に痛い目見させてやったのに」
「はん。生意気な女だ」
冷たい目で言い返すと、イクバールは言葉とは裏腹にどこか面白げに目を細めて片膝を立てた。頬杖をつくお決まりのポーズで椿をゆったりと見上げる。
「まあ間男は置いておいて、だ。仕事だけでなく生活はどうだ? 最近は不満もめっきり聞かなくなったが」
「間男じゃないから。不満、は……ゼロではないけど、うん、だいぶ減った……わね。気持ちが落ち着いた」
「そうか。まあ他に集中するものができれば、些末なことに悩む時間もないだろうしな」
イクバールの言葉に椿は小さくうなずいた。そして、このひと月近くの生活を思い返す。
イクバールと出会い、サーリフに小言を放たれ、パリサの美味しいご飯を食べて、ルムアが時折浮かべる小さな笑みにつられて笑った。
ウマルを師として薬草学を再び学びはじめ、今こうして少し落ち着いた気分で休める場所がある。
……それはすべて、自分ではない誰かに支えられて得たものだった。
椿は少しうつむくと、色とりどりのガラスからなるモザイクランプを見つめる。
「私……傲慢だったわね。元の世界にいたときは、自分だけの力で生きていける、子供だって一人で産んで育てられるって思ってた」
「うん……?」
独り言のような声にイクバールが小さく顔を上げる。万華鏡のようなランプの灯りを見つめたまま、椿はとつとつと続ける。
「でも実際は、上辺を剝ぎ取られたら何もできなくて。この世界に一人で放り出されたら、今まで認識もしていなかった他人が――赤の他人が、手を差し伸べてくれたわ。それに支えられて、今生きてる。……本当はきっと、元の世界でもそうだったんだわ。私が見えてなかっただけで」
「…………」
「私は、利己的だった。夫も――元夫も、そういうところに愛想が尽きて私から逃げたんだと思う。……あなたが最初に言ったように、捨てられたのは私の方だったわ」




