17.女の敵
それからすぐに夕食の支度が整えられ、椿は初めてイクバールと食事をすることになった。いつもは一人で座る広間の絨毯に、イクバールと二人分の食事が用意される。
(……ん? 二人だと、どう座るの? 差し向かいかな……?)
先に片あぐらで座っていたイクバールの前に料理を挟んでストンと座ると、彼は小さく目を見開いた。パリサが慌てたようにイクバールの隣を指し示す。
「ツバキ様! こちらです、こちら!」
「え?」
イクバールを見ると、何がおかしいのか口に手を当てて吹き出している。
肩を震わせる彼の隣に戸惑いながら座り込むと、イクバールは片膝をついて椿を流し目で見上げた。細めた金の目が三日月のようだ。
「お前な……食事の時に男の正面に座るのは、『食事よりも私を食べて』という意味だぞ? まあ知らんのだろうが」
「へ……。えっ!?」
「俺としては意図的にやってもらっても一向に構わんが、他の男の前ではするなよ。大問題になるからな」
知るはずもないこちらの常識を持ち出され、椿は額に汗をかいた。
イクバールはまだ笑っている。そんな彼から少しだけ身を離すと、イクバールは逆に手首をやんわりと掴んで椿を引き寄せ、耳打ちする。
「それらしく見せろと言っただろうが。――パリサ。すまんな、こいつにこの国の不文律を色々教えてやってくれ。予想もつかないことをやらかしそうで気が休まらん。一人でフラフラ散歩に出たりな」
「かしこまりました。……でも、若様も反省なさって下さいまし。ツバキ様をあたしたちにお預けしてから、ろくなお渡りもなしで! これじゃあツバキ様が不安になっても仕方ありませんよ」
パリサの小言に椿はぎょっと腰を浮かせた。首を振ると、とばっちりを受けたイクバールを擁護する。
「パリサ、それは違う。今日のことは全面的に私が悪いわ。私の責任よ」
「……と、わが寵姫は仰せだが?」
「いいえツバキ様。おそばに置くと決めた方を不安にさせないのも、その主人の務め。若様、もっと甲斐性をお持ち下さいまし」
めっとパリサに睨まれてイクバールが肩をすくめる。この街で最も尊重されるべき身分の皇子は、串焼き肉を頬張ると渋面でつぶやいた。
「なぜ迎えに行った俺が叱られるんだ。……解せぬぞ」
羊肉の串焼きに豆のスープにサラダにパンに付け合わせ色々。次々と出てくる料理をイクバールは大きな口で平らげていった。
見た目の印象以上によく食べるものだと感心したが、その所作は男性的ではあるが粗野な印象はなく、彼の育ちの良さを感じさせた。
(お酒、飲まないんだ……。休肝日?)
イクバールは水をたくさん飲んでいたが、意外なことに食卓にはアルコールのたぐいは出されていなかった。
妊娠中の自分に遠慮してかと思ったが、そんなことに気を遣う性格とも思えない。酒好きな椿としてはこちらのアルコールに興味津々だったので肩透かしをくらった気分だが、イクバールは残念がる様子もなく隣の椿をちらりと見る。
「何を見ている。お前もちゃんと食え。……羊は苦手か? ならば鶏もあるぞ」
「ええ。……あ、いや、もう十分。――ちょっと、そんなに入らないって!」
「遠慮するな。俺はたくさん食べる女の方が好きだ」
椿の皿に、あれもこれもとイクバールが料理を載せてくる。それはありがたいが、本当にもう入らない。
「妊娠中は、あまり体重を増やしたくないのよ」
「なぜだ。二人分の栄養がいるだろうが」
「必要な分はちゃんと食べてるから。太りすぎると病気になったり、出産のとき大変になりやすいの」
「そういうものか」
イクバールがきょとんと瞬く。妊娠中に気を付けるべきことを椿が語ると、イクバールは興味深そうに聞き入った。
「身近に妊婦や赤ちゃんはいなかったの?」
「いるわけないだろう。せいぜい下の奴らの子をたまに見る程度だ。……なかなか大変なんだな、子を身籠るというのも」
「そうね、私も初めてだから勝手が分からない。知らない土地だし、覚えていることでなんとかするしかないわ。あとはこれから学んだり」
椿はお守りのように懐に忍ばせていた、乾かした母子手帳を手に取った。
今となっては、こちらと向こうをつなぐ唯一のよすがになってしまった本。でも、残っていたのが母子手帳で良かったと思う。今とこれからの椿にとっては一番大事な情報が載っているから。
「それはなんだ? お前の国の……まさか、本か?」
「ずいぶん小さいけどね。妊娠出産子育ての教科書――指南書みたいなもの。本当に要点しか書いてないけど」
「ほう。これがお前の国の文字か。……ずいぶん整った筆跡だな。こんなに小さくまったく同じ筆致で――よほど才のある者に書き写させているのか」
「これは印刷って言うの。……ここにはないわよね」
椿が寂しげに言うと、イクバールはなおもその手帳――というよりは印刷に興味を引かれたように身を乗り出してくる。そこを、パリサの弾んだ声が遮った。
「若様、お待たせしました。大好物をお持ちいたしましたよ」
「おっ。来たか!」
急にイクバールがウキウキと姿勢を正した。
空いた皿を片付けて、パリサが中央に銀の皿を置く。果物と、その隣にパイ菓子のような、キッシュのような何か。そこにパリサが透明なスープだか蜜だかをかけると、ふわっと甘い香りがする。
イクバールは手ずから装飾の施された小さなグラスに茶――ストレートのチャイを注ぐと、そのパイを自らの皿に取り分けた。
「それは何?」
「バクラヴァだ。美味いぞ」
「バクラヴァ? ……お菓子なの?」
「ああ」
イクバールがサクッと音を立ててそれをかじると、幾重にも重なるパイの底にナッツやドライフルーツが挟んであるのが見える。そして滴る蜜――シロップ。
見た目からも想像がつく甘さに、椿はバクラヴァを避けて果物だけを少しよそった。イクバールは二つ目の菓子に手をつける。
「なんだ、食わんのか? 食わず嫌いしないで食ってみろ。――ほら」
「……っ」
イクバールが菓子をつまみ、椿の口元に寄せる。その気もないだろうに「あーん」を促され、パリサが嬉しそうに口を覆った。……違う、そうじゃない。
顔を引いてイクバールの指を避けると、椿は少しだけ皿の上のバクラヴァをつまんだ。そしてそれを口にして、ムセそうになった。
(あっま……!)
不味くはない。十分美味なのだが、椿の感覚からすると甘い、甘すぎる。ひとかけらで十分だ。
チャイと共に飲み下すと、口の中でようやく落ち着いた甘さに変換される。ゴクゴクと茶を追加で飲むと、三つ目に手をつけているイクバールを信じられない思いで見つめた。
「あなた、甘い物好きなの?」
「? ああ。皆好きだろう? この皿に載っている分ぐらいは余裕で食えるぞ。お前もそうだろ? ルムア」
「えっ」
壁際に控えていたルムアが突然矛先を向けられ、戸惑ったようにうなずく。そのあとで椿にだけ分かるように「これは無理」と視線で訴えるのを見て、椿は悟った。
……意外すぎる。この顔この性格で、大の甘党だなんて。
あれだけの量の食事と、締めにデザートまで平らげてもイクバールの体にはまったく緩みはなく、鍛え上げられた肉体の持ち主であることが服の上からでも分かる。
妊娠前はアルコール好きが高じて椿もたまに酒が過ぎることがあったが、そのあとしっかり運動しないと確実に反動があったのに。
「女の敵……」
「ん?」
嬉しそうに菓子を口に放り込む皇子に、椿はじとりと恨めしい視線を向けた。




