16.帰る場所
イクバールに手を引かれて青の離宮へと戻ると、すっかり夜になった中庭でパリサとルムアが待っていた。椿を見るなり、パリサが目を潤ませて駆け寄ってくる。
「ツバキ様……! ああ、ご無事で本当に良かった……!」
「あ……。おかえりなさいませ。……良かった……」
たどり着いたパリサにふわりと抱擁され、椿は目を見開いた。そばでは心配そうな顔をしたルムアがほうっと胸を撫で下ろしている。
元の世界において、椿は物心ついてから母親に抱擁された記憶などなかった。仕事に追われていつもイライラしていた母に、それを求めることすら諦めていた。
だが、いま椿を包む柔らかな腕はなんの見返りもなしに、ただ無償の温かさだけを与えてくれていた。自分のことを心から心配してくれたと分かる二人の姿に、椿の胸は大きく痛んだ。
「……ごめんなさい。私――」
「いいんです。何も言わないで。こうして無事に帰って来て下さっただけで、あたしたちはもう十分ですから。……ああ、すっかり手が冷えて。すぐにお食事にしましょうね」
パリサのふっくらとした手に大事そうに両手を包み込まれ、胸が詰まった。……温かい。どれだけこの優しい人たちに心配を掛けてしまったのだろう。
あの城壁の上で出しきったはずの涙が再び湧いてくる。肩を震わせた椿は震える声で絞り出した。
「ごめんなさい……」
「いいんですよ。でも、次はこのパリサかルムアをお連れ下さいましね。……若様、お手数をお掛けしました」
「おう。……いや、飼い猫の脱走は主の不始末だからな」
肩をすくめたイクバールが気を利かせるようにその場から離れる。ずっと鼻をすすり上げた椿は深くうなずくと、安堵の表情を浮かべる二人に問いかけた。
「どうして……こんなに良くしてくれるの……? こんな、素性も何も分からない私を――。イクバール…様の客人だから? それとも妊娠してるから……?」
自分は二人に大きな嘘をついているのに、何も返せないのが申し訳ない。
するとパリサとルムアは顔を見合わせ、小さく眉を下げた。ルムアが進み出て首を振る。
「ツバキ様。それは違います。……いえ、最初は確かにイクバール様のご寵姫でいらっしゃるから、お仕えしなければ、お守りしなければと思っていました。……自分たちは、イクバール様に全幅の信頼を置いています。その主がお連れした方なら、きっと素晴らしいお方だろうと――」
「そんな――。私はそんな大層な人間じゃないわ」
「大層かどうかは関係ないのですよ、ツバキ様。……ツバキ様は毎日、あたしたちに挨拶を下さいますよね。それからお手伝いやご飯のお礼も。昨日は――ああ、そうそう。お薬の効果的な飲み方を教えて下さいましたね。あたしがトシでのぼせるからって」
パリサが引き継ぎ、優しく諭す。それに椿は小さく首を振った。
「当たり前じゃない……? お世話になってるなら、お礼ぐらい言うわ。薬の話だって、知ってることを伝えただけで」
「当たり前ではないのですよ。……あたしたちは、もともとは奴隷だったんです。この国にはほんの数年前まで奴隷制度があって、それをなくすよう皇帝陛下や大臣の方々に提言して下さったのが若様――イクバール様でした。あたしは売られた奴隷で、ルムアは西国から来た戦争奴隷です」
「えっ――」
突然の告白に椿は目を見開いた。ルムアが無言でうなずくと、パリサは続ける。
「あたしは以前、帝都の後宮で働いておりましたが……お妃様がたが奴隷を見る目は、そりゃあ冷たいものでしたよ。同じ人間とも思っていないような――。だから離宮に来て、ツバキ様が気安く接して下さって……お礼までおっしゃられて、驚いたんですよ。それからあたしたち、すっかりツバキ様が好きになっちゃって」
「…………」
ぽかんと見つめると、ルムアがほんのりと頬を染めてうなずいた。椿はじわじわと、息苦しいほどの熱い想いが胸に湧いてくるのを感じた。
――泣いている場合じゃない。彼らの、彼女たちが寄せてくれる真心に、応えらえる自分にならなければ。
「……ありがとう。私も、あなたたちを信頼する。仕えて良かったと、少しでも思ってもらえる人間になりたいから……困ったときは、助けてほしい。これからも……よろしくお願いします」
「いやだもう、ツバキ様ったら。寵姫は頭なんて下げないんですよ! ほらほら、お食事にいたしましょうね。今宵は若様も一緒ですから、好物をご用意しましたよ。……若様ー! ご飯ですよー!」
パリサが手を叩いてイクバールを呼びにいく。ルムアと顔を見合わせると、椿はくすぐったい笑みを浮かべた。




