10.スーク
同じ頃、青の離宮にて。離宮内の案内を受けた椿は、椅子に腰かけて冷たい果実水で一服していた。
綺麗に整えられた室内を見渡すと、パリサが笑顔でやってくる。
「不自由はございませんか?」
「ええ、ないです――ないわ。ありがとう。あの、パリサはイクバール……様とずいぶん親しいみたいだけど、昔からの知り合いなの?」
敬語はよしてくれ、と言うパリサに合わせて尋ねると、褐色の肝っ玉侍女はふくよかな頬を緩ませる。
「そうですね。あたしは元はイクバール様のご母堂ラハディ様の側仕えで――ですから、若様のことは産まれたときからよおっく知ってるんですよ。若様が帝都の後宮から巣立つまでお世話させていただきました」
「そうなんだ……。それじゃあ、いつからこの州都に? イクバール様のお母様は今も帝都に?」
「ラハディ様は10年程前に病で身罷られて……。職を失ったあたしを心配して、若様がこちらに呼び寄せて下さったんです。昨日までは外宮で飯炊きをしておりましたので、どなたかの側仕えになるのは久しぶりで嬉しゅうございますよ」
パリサのゆったりとした笑みに椿もつられてうなずいた。親身になってくれる彼女に、遠慮がちに問いかける。
「あの……手が空いているときでいいんだけど、この世界の――いえ、この国や街のことを、教えてもらえないかしら。私は土地勘もないし、ここの常識に疎くて……パリサが良ければでいいのだけれど」
「何をおっしゃいますか。もちろんでございますよ。そのあたりは若様からもお願いされておりますから」
「え……イクバールが?」
予想外の答えに椿が顔を上げると、隣の部屋から音もなくルムアが現れた。椿の側に寄ると、性別不明の美少年はまだ声変わりもしていない美しいアルトで話しかける。
「あの……ツバキ様の体調が許すようなら、街に出てみませんか? もし良ければですが、街を歩きながらの方が、ご理解もしやすいのではないかと。……差し出がましかったらすみません」
恐縮して告げる従者を椿はきょとんと見上げた。
彼がこんなにしゃべるのを初めて聞いた。物静かそうだし、護衛というから必要以外の会話もないのかと思っていたら、こんな提案をしてくれるとは。
「外に出て……いいの?」
「……? はい。イクバール様からは、特に禁止されておりませんが。あなたが望むのであれば、できるだけ寄り添ってほしい、と」
「…………」
またしてもの気遣いに椿はますます困惑した。好待遇すぎて、逆に不安になってくる。
(でも……ここのことを知らないと、この先どうにも動けないし)
椿が立ち上がってうなずくと、ルムアはほっとしたようにその美しい顔に小さな笑みを浮かべた。
離宮には昨日椿が泊まった内宮に通じる通路だけではなく、直接外に通じる扉もあった。周囲からは目立たないそれをくぐると、昼間の熱気と雑踏のざわめきが椿を包む。
日除けにとパリサが大きなベールを巻いてくれて、日差しは意外と気にならない。ルムアとパリサに導かれて日陰を歩くと、昨日通りすぎた市街地までやって来た。
「すごい賑わいね……」
「このあたりが街の中心部です。我々がいたあのあたりが、太守府を中心とした行政や軍の施設が集まる一帯で、こちらが市場や店が集まる一帯――スークです」
「スーク?」
「はい。通りによって、扱う品物が異なります。ここは香辛料の店が多いですね。向こうの通りに宝飾品、その先は布製品と衣類を扱う店が集まっています」
きょろきょろと辺りを見回す椿に、ルムアが周囲に気を配りながらも丁寧に説明してくれる。ちなみにパリサは日用品の買い出しに行ったので別行動だ。
スパイスの通りだというそこは、軒先に色とりどりの香辛料が山のように盛られ、店員と客が早口でやり取りをしていた。漂ってくる強烈な香りに椿は思わず顔をしかめる。
「無理なさらないで下さい。妊娠中は匂いに敏感になると聞きます。先に行きますか?」
「大丈夫、ちょっと驚いただけ。スパイスの利いた食べ物はむしろ好きなのよ。すごいわね……こんなに何種類も、大量に売ってるのは見たことがない」
「そうですか。各家庭や店ごとに独自の調合をするため、大量に買い付けていく人が多いですね」
会話をしながら、スパイスやその他の商品の上に立つ看板に書かれた文字らしきものを見て、椿はひそかに落胆する。
(読めない……。なぜか通じる話し言葉と違って、自動翻訳機能はなかったか……)
「ツバキ様? あ……もしかして、乾果の方がお好きですか?」
「カンカ?」
「これです。乾燥した果実。よろしければ、どうぞ」
スパイス店の隣に、ドライフルーツを扱う店があった。髭の店主から渡された試食品をルムアが手のひらに乗せる。茶色くて、大きなレーズンみたいだ。
「これは何?」
「ツシャの実です。血のもとになり、美肌とお通じにも効果があると言われています。男女問わず人気があって、妊娠中の方には特に推奨されています」
毒見するようにモグモグと口を動かしながらルムアが言う。その美貌と美肌に惹かれ、椿もおそるおそるその実を口に放り込んだ。噛むと、柔らかな感触と共に濃厚な甘さが口に広がる。
「あ……美味しい。好きかも」
日本のエアコンの利いた部屋で食べたら、くどく感じる甘さかもしれないがこの灼熱の国においてはその濃厚さがむしろ舌に馴染んだ。椿の反応にルムアが少し嬉しげに笑う。
「良かった。では何種類か買って帰りましょうか」
「ありがとう。……ルムアも好きなのね?」
「あ……。す、すみません……」
指摘すると、ルムアはほんのりと頬を赤らめた。美少年の意外な照れ顔に椿は内心で沸き立つ。
(やだ、可愛い。……いけないいけない、邪な目で見たら駄目よ)
それから二人は布市場の通りをめぐり、不足していた身の回りのものを買うとスークを後にした。
「お疲れではないですか?」
「ちょこちょこ休憩したから大丈夫よ。ありがとう」
「そうですか。それではそろそろ帰りましょうか」
「あ……、待って」
体調を気遣ってルムアが提案してくれたが、椿はやんわりと断ると周囲を見回した。
この半日の案内で、街の構造はなんとなくだが把握できた。街を囲む城壁の内側に一つだけ高くそびえ立つ建造物――塔があり、その他の建物は高くても3階程度だった。
あの塔に上れたら、街全体や城壁の向こうまで見渡せるのではないか。
(もしかしたら、近くにも街があるかもしれないし。秘密がバレて危なくなったら逃げられるような――)
「あの塔に上ることはできない?」
「え? ……ああ、あそこは無理です。太守か、皇族の許可を受けた者しか入れない決まりになっています。そもそもツバキ様の今のお体では階段を上ることも難しいのではないかと」
「そう……」
さすがに観光スポットではなかった。街の防衛も担っているだろう施設に一般人が入るのは難しそうだ。椿は気持ちを切り替えるとふと思い出す。
「あ……。じゃあ、星読みの館って知ってる? どこにあるの?」
「星読みの館でしたら、あの塔にほど近い高い建物がそうです。でも、神官様にはよほどのことがないと会えませんよ。何かご用でも?」
「……ううん。ちょっと名前を聞いただけだから。ありがとう、帰りましょうか」
イクバールが言っていた。椿を「禍つ者」かもしれないと報告したのは星読みの館だと。
その人たちに聞けば、自分がなぜこの世界に来てしまったのか、元の世界に帰る方法はないのか分かるかもしれないと思ったが、なかなか難しそうだ。
太守府に向けて歩くと椿の長い髪と上質な衣が揺らめき、周囲の人がちらりと振り返った。
美しい従者を従えた異国の貴婦人の姿は、スークの店主たちの間で数日間ちょっとした噂の種になった。




