【第3話】
「自己紹介」というイベントは、義務教育が産み落とした最悪の悪習であると僕は常々思っている。
三十人近い見知らぬ人間の顔と名前、それに付随する「趣味は音楽鑑賞です」だの「特技はバスケです」だのという、明日には便器の底に流れていくような無価値な情報を強制的に脳内へインプットさせられる苦行。逆に言えば、己の個人情報を三十人の他人の脳という極めてセキュリティの甘いクラウドに無断でアップロードされる恐怖。
どちらに転んでも地獄だ。自己紹介なんてものは、本来なら弁護士を通して書面で行うべき類のものである。
「えー、じゃあ次。窓側の席の……夜行くん」
しかし、非情にも教壇に立つ白衣姿の担任(目元の隈が尋常ではなく、過労死寸前の社畜のようなオーラを放っている)は、僕のターンを宣告した。
「はい」
僕は立ち上がり、教室中の視線を一身に浴びた。
さあ、どうする。前世の記憶を持ったまま、魔術の知識ゼロで異世界に放り込まれた一般人による、一世一代のプレゼンテーションだ。下手に気の利いたことを言って目立つのは最悪手。かといって、挙動不審になれば怪しまれる。徹底的に無難に、記憶に残らないモブとしてこの場をやり過ごすための最適解は——。
「夜行トオミです。趣味は……散歩と、読書です。特技は特にありません。魔術の成績も平凡なので、皆さんの足を引っ張らないように、静かに三年間を過ごしたいと思っています。よろしくお願いします」
完璧だ。
「無害でつまらない奴」というパッケージングを、これ以上ないほど美しく提供できた。教室の空気も「あ、こいつモブだわ」という安堵と無関心に包まれたのを感じる。僕は心の中でガッツポーズを決めながら着席した。
ところが。
「……随分と、予防線を張った自己紹介ね。そんなに自分の手の内を隠したいわけ?」
隣の席から、ボソリと棘のある声が飛んできた。
入学式から引き続き、五十音順という理不尽なシステムによって僕の隣に配置された、あの亜麻色髪の少女——八代ルイである。
「手の内も何も、事実を陳述したまでだ。僕は平凡を愛し、平凡に愛された男だからね」
「ふぅん。入学式の最中、ずっと冷や汗を流しながらマナフォンの『学生ポータル』を穴が開くほど睨みつけていた男が言うと、説得力が違うわね」
「——ッ!」
見られていた。
僕が自分の「オールC」のステータス画面を見て絶望のドン底に突き落とされていたあの瞬間を、この女は横目でバッチリ観察していたらしい。
「あれは……その、昨夜の夕食で食べた激辛麻婆豆腐が、胃の中で魔力暴走を起こしていただけだ」
「嘘をつくなら、もう少しマシな嘘をつきなさいよ。それとも何? あなたの胃袋はカプサイシンをエーテルに変換する特殊機関でも積んでるわけ?」
八代ルイは鼻で笑うと、自分の机の上に置かれたマナフォンを指先でトントンと叩いた。
「えー、自己紹介も終わったことだし。早速だけど、君たちのマナフォンをこの教室の黒板に同期させてちょうだい。今日の午後の『基礎実技』のシラバスをダウンロードするから」
教壇の社畜教師が、無慈悲な指示を出した。
周囲の生徒たちは、慣れた手つきで自分のマナフォンを見つめ、何も触れていないのに画面を空中にホログラム展開させていく。おそらく、脳波か何かで「念じる」だけで操作しているのだ。
……どうしよう。
同期? ダウンロード? 前世のスマホなら、設定画面を開いてWi-Fiをオンにしてパスワードを打ち込むところだが、このマナフォンにはそんな物理的なボタンも、親切なGUIも存在しない。
僕はとりあえず、マナフォンの画面を指でスワイプしてみた。
スワイプ。タップ。ピンチアウト。
何も起きない。ただの分厚い黒い板だ。
「……ちょっと」
八代ルイが、汚物を見るような目で僕の手元を見つめていた。
「あなた、さっきから画面を物理的に指で擦って、何をしてるの?」
「……これは、だね。マナフォンの表面に付着した微細なエーテルの塵を、摩擦熱で活性化させることによって、よりスムーズな同期環境を構築するための、古典的な準備運動だ」
「バカなの? マナフォンは『生体魔力波長』でリンクするのよ。指の摩擦熱なんて、原始人の火起こし以下の意味もないわ。まさかあなた、本気で同期のやり方すらわからないの?」
図星である。致死量の図星である。
僕は沈黙した。ここで「はい、わかりません。異世界から来たので」と言えば楽になれるのだろうか。いや、そのまま精神病院の隔離病棟へ直行だ。
「……貸しなさい」
見かねた八代ルイが、僕の手から乱暴にマナフォンを奪い取った。
「本当に、信じられない。こんな基礎中の基礎もできないなんて、第一魔術科の試験をどうやってくぐり抜けたのよ。……ほら、設定を『手動操作モード』に切り替えてあげたわ。これなら、魔力リンクが下手くそな落ちこぼれでも、物理的なタップと音声入力で最低限の操作はできるはずよ。……全く、世話が焼けるんだから」
彼女はため息をつきながら、画面にいくつかのアイコンが表示されたマナフォンを突き返してきた。
それはまさに、僕が前世で見慣れた「スマートフォン」の画面そのものだった。
「……ありがとう」
「別に。隣の席の人間が、シラバスのダウンロードすらできずに一人で物理的に発火しようとしてたら、目障りなだけよ」
八代ルイはそっぽを向いた。
口は悪い。態度は最悪だ。プライドもエベレストより高い。
だが、結果として僕は彼女のその「面倒見の良い傲慢さ」によって、この魔術社会での社会的な死を、またしても首の皮一枚で回避することに成功したのだ。
マナフォンの画面には、午後の『基礎実技』のシラバスが表示されている。
そこには『第一回:魔力放出による標的破壊』という、物騒極まりない文字が躍っていた。
……前言撤回。
僕の社会的な死は、単に数時間ほど後ろ倒しになっただけらしい。
僕は今日三度目の、そしてこれまでで最も深く、絶望的なため息をついたのである。




