【第27話】
「疲労」という生理現象は、生物がその限界を超えて活動した際に支払わなければならない、逃れようのない「税金」である。
特に、魔力的な枯渇ではなく、純粋な肉体的酷使からくる「筋肉痛」というやつは、遅れてやってくる借金の取り立てのように、容赦なく、そして執拗に僕の肉体を蝕んでいた。
前世の黒歴史に縋り、空中回転回し蹴りなどという、物理学的な無理を強いた右脚の股関節が、歩を進めるたびに「自業自得だ」と鈍い悲鳴を上げている。
「……はぁ。重力というやつは、どうしてこれほどまでに僕という存在をアスファルトに引き摺り下ろそうとするんだろうね」
放課後の校舎。夕焼けが廊下を赤黒く染める中、僕は生まれたての子鹿のような危うい足取りで、駅へと続く坂道を下っていた。
確かに、八代ルイという絶対零度の暴君に付き合わされ続けた「地獄の日常」のおかげで、並の生徒なら立ち上がることすら不可能なダメージでも、僕は動くことができる。だが、「動ける」ことと「痛くない」ことは、論理的に全く別の事象だ。僕の神経系は、今この瞬間も脳に対して「今すぐ水平移動(帰宅)し、重力から解放されろ」と最大級の警告を発し続けていた。
「……うるさいわね。さっきから一歩歩くたびにため息を吐くのはやめてくれないかしら。周囲のエーテルが、あなたの吐き出した負の感情で汚染されている気がするわ」
僕のすぐ隣。
相変わらず、涼しい顔で凛とした歩調を崩さない八代ルイが、僕の無様な姿を横目で一瞥して吐き捨てた。
彼女は中間試験の全日程を「A」という最高評価で、汗一つかかずに完遂した怪物である。そんな彼女から見れば、物理的な蹴りの反動でガタがきている僕の姿は、滑稽極まりない喜劇に映っていることだろう。
「……手厳しいな。僕が今日、どれだけの勇気と恥を振り絞って、あの『空中回転回し蹴り(540キック)』を放ったか分かっているのかい? 術式構築のタイムラグを埋めるための、極めてロジカルで、かつ命がけのショートカットだったんだぞ」
「ロジカル、ね。魔術師としてのプライドをドブに捨てて、ただの質量と遠隔力の物理計算に逃げただけでしょう。……あの場面、あなたの魔力出力(オールC)でも、【第一種・衝撃波動】を右足のつま先に収束させていれば、あんなに不格好に脚を攣らせることもなかったはずよ」
「不格好。……やっぱり、そう見えていたのか」
「ええ。跳躍の頂点での軸足のブレ、回転時の重心のズレ、そして着地後の情けない膝の震え。……控えめに言って、素人のダンスの失敗作ね。あんなの、私のオリジナル術式の演習に比べれば、ただのお遊びですらあるわ」
「…………」
僕は沈黙した。
彼女はボソボソと、まるで自分の演算を修正するかのような冷徹なトーンで、僕の戦いに対する「反省点」を並べ立てていく。
間合いの取り方が甘い。詠唱の省略が情緒的すぎる。最後の一撃に頼りすぎて防御が疎かだ。……出るわ出るわ、僕の「生存戦略」に対する無慈悲なバグ報告の嵐である。
だが。
彼女のその「苦言」は、不思議と、僕の耳に不快なノイズとしては届かなかった。
なぜなら、彼女は僕の「戦い方」を、あんなにも「ハッタリだ」「暗殺術だ」と騒いでいた外野の連中とは違い、一つの「魔術的プロセス」として、真っ向から、そして真面目に分析してくれていたからだ。
「……まあ」
坂道の途中で、彼女はふと足を止め、夕日に目を細めながら呟いた。
「筆記はあのマフユ先輩の教育のおかげで、おそらく欠点は免れているでしょうし。実技でも、あんな泥臭い手法とはいえ、自分より格上の相手を物理的に沈めてみせた。……その結果だけを見れば、私のパシリとしては、……及第点と言ってあげてもいいわよ」
「…………」
及第点。
その、彼女の口から出た「最低限の合格」を意味する四文字。
それは、僕のような「存在そのものがエラーコード」なモブにとって、この理不尽な世界で生きることを許可された「免罪符」のように、心地よく響いた。
「……及第点か。最高の褒め言葉だね。僕の股関節の痛みが、ほんの数パーセントだけ和らいだ気がするよ」
「……馬鹿じゃないの。痛みが消えないのは、あなたのストレッチ不足よ。さっさと歩きなさい、駅前のカフェで新作の『ミルフィーユ』が発売される時間なんだから。今日の奢りは、及第点のお祝いとして特別に『免除』してあげるわ」
「……そいつは驚いた。女王陛下が僕に慈悲を下さるなんて、明日の天気は雪でも降るんじゃないかな」
「うるさい。気が変わらないうちに走りなさい」
「走れるわけがないだろう、及第点の足で」
僕は皮肉っぽく笑いながら、それでも少しだけ力を込めて、一歩を踏み出した。
股関節は痛い。全身は悲鳴を上げている。
だが、僕の隣を歩くこの「猛毒」を纏った少女が、僕の存在を「最低限の正解」として定義してくれた以上。
僕の非日常的な日常は、これからもまだ、この理不尽な世界で続いていくことだけは確からしい。
夕闇が街を飲み込み始める中、僕たちは不器用な距離感を保ったまま、駅へと続く坂道をゆっくりと下っていった。




