【第20話】
「分業制」という概念は、産業革命以降の人類社会における最も偉大な発明の一つであると同時に、個人の逃げ道を完全に塞ぐ悪魔のシステムである。
アダム・スミスはピンの製造工程を分割することで生産性が飛躍的に向上すると説いたが、それが「試験勉強」という属人的極まりないプロセスに適用された場合、一体何が起こるか。答えは簡単だ。逃げ場のない、圧倒的かつ高密度な「知識の暴力」による、モブ生徒の精神的圧殺である。
「はい、そこ。魔力変換のタイミングがコンマ二秒遅いわ。基礎的な『第一種・燃焼』の術式構築でそれだけラグが生じるなら、実戦ならあなたが火を起こす前に、敵の氷結術式であなたの全身の血液がフリーズドライされてるわよ。もう一回。倒れるまでやりなさい」
「……御意、学年首席様」
放課後の第二演習場から始まり、現在は第三図書室へと場所を移した僕の試験勉強は、まさにその「分業制の地獄」の真っ只中にあった。
実技試験対策の担当は、言わずと知れた絶対零度の暴君、八代ルイ。彼女の指導方針は「理屈は教えた、あとは身体に(物理的な痛みと共に)叩き込め」という、現代魔術の最先端を行く頭脳に反して極めてスパルタかつ原始的なものだった。彼女の放つ威嚇用の微弱な雷撃を避けながら、僕はただひたすらに、規定の出力で魔力を編み上げる反復練習を強制されていたのである。
「よし、実技の時間はここまで。あなたのその空っぽの魔力回路でも、まあ、赤点ギリギリのラインは超えられるようにしてあげたわ。感謝しなさい」
「感謝するよ。僕の寿命が三日ほど縮んだことと引き換えにね」
僕が机に突っ伏してぜぇぜぇと荒い息を吐いていると、図書室の奥から、温かい紅茶の香りと共に、ふわりとした母性のオーラを纏った人物が歩み寄ってきた。
「お疲れ様、夜行くん、八代さん。少し休憩にしましょうか。……それから、夜行くん。実技の後は、筆記試験(座学)の対策ですね。私がしっかりサポートしますから、安心してくださいね」
「……天音先輩。君の後光が眩しすぎて、僕の濁りきった網膜が浄化されそうだ」
天音マフユ先輩。
過日、階段での落下事故とパンチラ、そして強烈なビンタという、ラブコメディの黄金律を最悪の形で踏襲して出会ったこの上級生は、あれ以来なぜか「図書委員の特権」をフル活用して、僕たちの放課後の勉強会にナチュラルに合流するようになっていた。
実技では使い物にならない(彼女自身が運動音痴である)という理由から、彼女は座学の面倒を見てくれるというのだ。
僕は彼女から紅茶のカップを受け取り、一口すすってから、机の上に広げられた彼女の手書きノートに目を落とした。
そして、その直後、僕は紅茶を盛大に吹き出しそうになった。
「……天音先輩。一つ、極めて根本的な質問をしてもいいかな」
「はい、何でしょう? どこか読みにくい字がありましたか?」
「いや、字は羽ペンの手本のように美しいよ。問題は内容だ。この『量子エーテル力学における、非可逆的魔力変換の位相空間について』という項目なんだけれど。……僕の記憶が確かならば、一年生の中間試験の範囲は『エーテルの基本性質と歴史』という、中学生でも理解できるレベルの基礎理論だったはずだ。このノートに書かれている内容は、どう好意的に解釈しても、大学院の博士課程で発表される論文の抄録にしか見えないのだけれど」
僕が震える指でノートを指差すと、天音先輩はきょとんとした顔で小首を傾げた。
「え? でも、エーテルの歴史を正しく理解するためには、その根底にある位相空間の歪みから説明しないと、本質的な魔術の成り立ちが掴めないじゃないですか。歴史の暗記なんて無意味です。事象の因果関係を数式で証明できて初めて、魔術の歴史を学んだと言えるんですよ?」
「…………」
僕は絶句した。
柔和な笑顔、優しい声。しかし、彼女の口から紡ぎ出されたロジックは、暗記という妥協を一切許さない、狂気的なまでの「真理への探求」だった。歴史のテストで数式を要求されるとは、どんな悪夢だ。
僕が呆然としていると、向かいの席で自分の魔道書を読んでいた八代ルイが、紅茶のカップを傾けながら、鼻でふっと笑う音を立てた。
「あら、知らなかったの? 夜行」
「……何をだ」
「天音マフユ。彼女、筆記及び座学については常に学年トップよ。しかも、二位以下にトリプルスコアの差をつけて、教師ですら採点に悩むレベルの異常な解答を叩き出す、本物の学力だってこと」
――ガチャン。
僕の手から、紅茶のカップが滑り落ちそうになった。
「学年……トップ。筆記の」
「ええ。実技試験では緊張で自分の杖を落として赤点スレスレを這いずり回っているポンコツのくせに、机の上に紙とペンを用意された瞬間、魔術の深淵に直結したスーパーコンピューターに化けるのよ。……まあ、私に言わせれば、頭でっかちの机上の空論だけどね」
八代ルイがチクリと毒を刺すが、天音先輩は怒るどころか、顔を真っ赤にして両手で顔を覆ってしまった。
「や、八代さん! そんな、モンスターだなんて……私、ただ本を読むのが好きなだけで、実技はからっきしですし……っ」
「事実を言ったまでよ。……夜行。あなたが今、どれだけ恵まれた環境にいるか、そろそろ理解できたかしら」
理解した。痛いほどに理解した。
実技担当は、一年生トップの八代ルイ。
座学担当は、二年生トップの天音マフユ。
魔力ステータス・オールCの凡人であるこの僕を、この第一魔術科高校が誇る二大巨頭が、それぞれの専門分野で分業制のマンツーマン指導をしているのだ。
これは「手厚いサポート」などという生ぬるい言葉で表現していい状態ではない。
例えるなら、近所の公園でキャッチボールを楽しもうとしていた草野球の少年の両脇を、メジャーリーグのサイ・ヤング賞投手と、三冠王のバッターが固め、「さあ、俺たちの技術を全てお前に叩き込んでやる」とバットとボールを突きつけてきているようなものだ。
ありがた迷惑を通り越して、もはや純粋な暴力である。
「夜行くん、大丈夫ですよ! いきなり位相空間が難しければ、まずは『エーテル熱力学の第二法則』の証明から、ゆっくり、本当に一歩ずつ進めていきましょうね!」
「……天音先輩。君の『ゆっくり』の基準は、僕にとっては光速を超えたタキオン粒子の速度に等しい。どうか、もう少し知能指数を、ミジンコか、せいぜいチンパンジーのレベルまで落として会話してくれないか」
「もうっ、夜行くんはまたそうやって自分を卑下するんですから! ほら、ペンを持って! この数式を微分するところからですよ!」
慈愛に満ちた笑顔で、一切の妥協を許さないペンの暴力が僕に迫る。
その光景を、八代ルイはどこか楽しげに、意地の悪い笑みを浮かべながら特等席で眺めていた。
隣の芝生は青いどころか、学力という名の致死性の毒花が咲き乱れる魔境であった。
僕は逃げ出すことも許されず、実技の疲労で震える手でペンを握りしめながら、中間試験という名の審判の日まで、この二人の天才に知性と体力を徹底的に蹂躙される運命を受け入れるしかなかったのである。




