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【第18話】

人間は、極めて優秀な「パターン認識」の機能を持った生物である。

 毎朝通る道の自動販売機のラインナップが一つ変わったことや、クラスメイトの髪の毛の分け目が数ミリずれたことなど、意識せずとも脳が勝手に「昨日との差分エラー」として検出してしまう。いわゆるアハ体験というやつだ。

 そして、僕の脳内に構築された『八代ルイという絶対的脅威に対する生存のための予測モデル』もまた、今朝から極めて微小な、しかし無視できないレベルの「エラー」を検出し続けていた。

「……ちょっと。さっきから何をモタモタしているの。その包帯グルグルの不器用な右手を切り落として、義手でもくっつけてあげましょうか?」

 朝のホームルーム前。

 自分の席で、購買で買った「マナ・ゼリー(魔力回復用の安っぽい栄養食)」のパッケージを剥がそうと悪戦苦闘していた僕の頭上から、いつもの冷ややかな声が降ってきた。

 昨日、彼女の魔力暴走を素手で受け止めた代償として、僕の右手は現在、物々しい『第三種・医療用魔力包帯』に覆われており、指先の細かい動作が絶望的に封じられているのだ。

「おはよう、八代さん。切り落とすのは勘弁してほしい。僕のこの右手には『深淵より出でし漆黒の竜』が封印されているからね。義手なんかにしたら、世界が滅んでしまう」

「そのくだらない中二病設定、昨日の今日でよく堂々と言えるわね。あなたの羞恥心という概念は、魔力と一緒に大気中へ霧散したのかしら」

 八代ルイは心底呆れたようにため息をつき、僕の隣の席――自分の席へとドカッと腰を下ろした。

 相変わらずの毒舌。相変わらずの氷点下の視線。

 昨日の演習場で、あんなにもボロボロと涙を流して感情を露わにしていた姿など、一切なかったかのような「いつもの氷の女王」の振る舞いである。

 しかし。

「貸しなさい。見ていてイライラするわ」

 彼女はそう言うなり、僕の手からマナ・ゼリーをひったくった。

 そして、流れるような手つきでパッケージの封を切り、あろうことか、ご丁寧に中身のゼリーを少しだけ押し出して食べやすい状態にしてから、僕の机の上に「ガンッ」と乱暴に叩きつけたのだ。

「……」

「何よ。文句があるなら自分で開けることね」

「いや。文句どころか、感謝の念に堪えないよ。ただ……」

 僕はゼリーと、そっぽを向いている彼女の横顔を交互に見比べた。

「昨日の今日で、僕のゼリーを開けてくれるという君のその行為に、少なからず『優しさ』のような成分が混入しているのではないかと、僕の脳内スーパーコンピューターが推論を弾き出しているのだけれど」

「馬鹿じゃないの。ただの『合理的配慮』よ。私の専属パシリの右手が使い物にならなくて、学食の争奪戦に出遅れられたら私の利益が損なわれるから、少しでも早く栄養補給(回復)させようとしているだけ。そこに感情の入り込む余地なんて一ミリもないわ」

 早口で、極めて論理武装された詭弁。

 だが、僕のパターン認識機能は誤魔化せない。

 普段の彼女なら「ゼリーも開けられない無能は餓死しなさい」と切り捨てるか、せいぜい「念動力テレキネシス」でパッケージごと僕の顔面に叩きつけて終わりのはずなのだ。それを、わざわざ「物理的に自分の手で開けて渡す」という、魔力効率の悪いアナログな手法をとった。

 これは、アレだ。

 いわゆる『ツンデレ』における、「ツン」の割合が99%から97%くらいに微減した状態。

 統計学的に言えば「観測誤差」の範囲内に収まる程度の微小な変化だが、日常的に彼女からの致死量の殺意を浴び続けている僕からすれば、その「2%の殺意の低下」は、猛毒が少しだけ薄まって「重度の腹痛」レベルになったに等しい、劇的な生存環境の改善だった。

「……そうか。なら、その合理的な配慮に甘えさせてもらうよ」

 僕は左手でゼリーを掴み、一口啜った。

 安っぽい人工甘味料の味がするはずのそれは、不思議といつもより少しだけ甘く感じられた。いや、これも脳のエラーだろう。

「……あのさ」

 不意に、窓の外を見つめたまま、八代ルイがぽつりと呟いた。

「別に、問題が解決したわけじゃないわよ」

「わかっているさ。君の抱えている壁が、僕の安い詭弁一つで崩れるほど脆いものだとは思っていない」

「……そう。なら、いいわ。あなたのその無駄に空っぽな演算領域、せいぜい拡張しておきなさい。またエラーを吐き出させてもらうかもしれないから」

「御意。そのためにも、しっかり食べて魔力ただのカロリーをつけておくよ」

 彼女はそれ以上何も言わず、カバンから分厚い魔道書を取り出して開き始めた。

 相変わらずの、無愛想で、可愛げのない、学年首席様の横顔。

 露骨に顔を赤らめることも、甘い言葉を吐くこともない。しかし、彼女の周囲に漂う「拒絶のオーラ」のトゲが、ほんの少しだけ……本当に、顕微鏡で覗かなければわからないレベルで、丸みを帯びていることだけは確かだった。

 隣の芝生は、やはり有毒だ。

 しかし、その毒の成分を正確に理解し、正しい距離感を保ち、時には自分の手を焦がす覚悟さえあれば。

 この氷のように冷たい場所も、案外、僕にとっての「居場所」になり得るのかもしれない。

 僕は包帯の巻かれた右手の痛みを心地よく感じながら、残りのマナ・ゼリーをゆっくりと胃袋に流し込んだ。

 僕の非日常的な日常は、観測誤差レベルの小さな変化を含みながら、今日もまた理不尽に幕を開けるのである。

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