【第17話】
「救済」という概念は、ひどく傲慢な響きを含んでいると僕は常々思っている。
溺れている人間を助けることができるのは、陸地に立っている人間か、あるいは溺者よりも遥かに水泳の技術に長けた人間だけだ。カナヅチがカナヅチを助けようと水に飛び込めば、待っているのは極めて凄惨な共倒れという名の喜劇でしかない。
だからこそ、魔力ステータス・オールCという底辺を這いずる僕が、学年首席である八代ルイの陥っているこの深刻なエラーに対して干渉しようなどと考えるのは、物理学的に見ても倫理学的に見ても、単なる身の程知らずの愚行であるはずだった。
タタタッ。
【構築】。
パツンッ。
第二演習場の冷たい空気の中、幾度目かの虚無の反復がドーム内に木霊する。
青白いホログラムの光に照らされた彼女の横顔は、もはや生気を失った硝子細工のように蒼白で、その双眸には明らかな狂熱と焦燥だけが焼き付いていた。周囲の空間には、彼女の魔力回路から漏れ出した高濃度のエーテルが、目に見えるほどの陽炎となって立ち昇っている。オゾンと焦げたケーブルの入り交じったような、危険な匂いが充満していた。
「……もう、限界だろう」
僕はベンチから立ち上がり、靴音を響かせて彼女の背中へと近づいた。
「来ないでと言ったはずよ」
振り返りもしないまま、ひどく掠れた、しかし鋭利な刃物のような拒絶が飛んでくる。
「あなたのその低俗な魔力波長が数メートル以内に近づくだけで、私の繊細な演算領域にノイズが走るの。邪魔。消えて」
「その繊細な演算領域とやらが、とうの昔に限界を迎えている事実に気づけないほど、君の自己診断ツールはポンコツだったのかい?」
「……ッ、あなたに何がわかるっていうの!」
彼女が弾かれたように振り返る。
その顔を見て、僕は思わず息を呑みそうになった。
彼女の左目から、一筋の赤い線が流れ落ちていたからだ。魔力回路の過剰負荷による、毛細血管の破裂。これ以上の術式行使は、彼女の脳そのものを物理的に焼き切る。
「私には時間がないの! あのシンポジウムで……あの場所で突きつけられた理論を、今日中に、今この瞬間になんとかして私の術式で上書き(オーバーライド)しなければ……!」
叫びながら、彼女は再びホログラムのキーボードに血の滲むような指を叩きつけようとした。
――ガシッ。
僕はその腕を、無遠慮に、そして極めて物理的な力で掴み取った。
直後、僕の手のひらに「ジュッ」という恐ろしい音が響き、焼けるような痛みが走る。彼女の体表を覆う暴走寸前の魔力が、僕の皮膚を文字通り焦がしていた。
「なっ……離しなさい! 何をする気!?」
「何をするって、君こそ何をしているんだ、八代さん」
僕は激痛に顔を歪めながらも、絶対にその細い腕を離さなかった。
そして、空いている方の手で、彼女の目前に展開されていたマナフォンのホログラムディスプレイを強引に自分の方へと引き寄せた。
画面には、素人の僕から見ても「グチャグチャ」としか形容できない、複雑怪奇な数式とパラメータが吐瀉物のように散乱していた。
「魔術に情緒を求めるなんて、洗濯機に哲学を求めるくらい無意味だ。正確に洗い上がればいい、正確に標的が砕ければいい。それが現代魔術の正解だ。……そう言ったのは君だぞ」
「……え?」
僕の放った言葉に、八代ルイは呆然と目を見開いた。
「今の君のこの数式はなんだ。焦り、恐怖、ルサンチマン、そして強迫観念。そんな不確定で非論理的な『感情』というバグが、術式の根幹をなすパラメータにべっとりとへばりついているじゃないか。こんなもの、いくら魔力を注ぎ込もうがコンパイルを通るはずがない。君は今、全自動洗濯機に向かって『私の苦しみを理解して汚れを落とせ』と泣き叫んでいるに等しい」
「ち、違う……私はただ、もっと効率的な最適解を……!」
「最適解は、常に最もシンプルな形をしているはずだ。僕の低俗な魔力波長がノイズになる? 違うね。君のその暴走した魔力という名の『高圧電流』を受け止めるには、僕のような『完全に空っぽのアース(接地線)』が最も適している」
僕は、彼女の腕を掴んだまま、彼女のマナフォンを操作し始めた。
設定を、あの時と同じ『手動操作モード』へと切り替える。
そして、彼女の構築していた巨大なエラーコードを全て一時凍結し、全く別の、極めて初歩的な、見覚えのある入力欄を開いた。
「……よ、夜行……あなた、何を……」
「僕の演算領域を開放する。君の回路に溜まった余剰な熱を、僕の方へ強制排出しろ。僕の魔力容量はCだが、空き容量だけは無駄にあるからね」
僕は彼女のホログラムキーボードを、指先で物理的にタップした。
【θ=0.5, P-Ref:22.4】
それは、かつて彼女が僕のために設定してくれた、「最も効率よく標的に着弾させるための最短コード」だった。
しかし今回は攻撃のためではない。彼女の暴走した魔力波長を、僕の無色の波長と同期させ、安全な領域へと相殺させるための、極めて理にかなった『調律』のパラメータとして使用したのだ。
「――エンター(実行)」
僕が平坦な声で宣言した瞬間。
ドーム内を満たしていた致死量の魔力圧が、まるで栓を抜かれた水槽のように、一気に僕の身体という名の『排水溝』を通って大気中へと霧散していった。
強烈な虚脱感と、脳髄を直接かき回されるような不快感が僕を襲う。僕の脳裏には、またしても右腕の邪竜がフルボイスで咆哮を上げそうになったが、僕はそれを精神力で捻り潰した。
「あっ……あぁっ……」
魔力の暴走から解放された八代ルイは、糸が切れた操り人形のように、その場にへたり込んだ。
僕もまた、限界を迎えた両膝をつき、冷たい床に手をついて荒い息を吐いた。火傷を負った右手が、ズキズキと熱を持っている。
「……ばか、じゃないの……?」
床に座り込んだまま、八代ルイが震える声で呟いた。
「他人の……暴走した魔力波長を、自分の回路に直結して逃がすなんて。少しでもタイミングがずれていたら、あなたの魔術回路、一生使い物にならなくなっていたかもしれないのよ……?」
「かもしれないな。だが、僕は自分の運の悪さには自信がある。僕がここで君を見殺しにして『平和な日常』を手に入れるなんていうハッピーエンドを、宇宙の法則が許容するはずがないからね」
「……」
「それに、君が壊れてしまったら、明日から誰が僕に『量子エーテル力学』の宿題の答えを教えてくれるんだ。学食の新作スイーツを餌に、無償の家庭教師をこき使うという僕のライフハックが崩壊するのは困るんだよ」
僕は息も絶え絶えになりながら、あくまで利己的な理由を並べ立てた。
八代ルイは、俯いたまま、しばらくの間じっと動かなかった。
やがて、ポツリと、床に小さな水滴が落ちる音がした。
「……どうして、わかったの」
彼女の声は、これまでに聞いたどんな声よりも弱々しく、そして幼かった。
「私が、感情的になって、術式の基礎を見失っていること。……マニュアル操作による、同期のショートカット。あんな無茶苦茶な手法で、私の暴走を止める最適解を……どうして、魔力判定Cのあなたが、導き出せたのよ……」
その問いに対する答えは、僕の中で最初から一つしか用意されていなかった。
僕は痛む右手を見下ろし、そして、泣き出しそうな顔でこちらを見上げる学年首席の少女に向かって、静かに告げた。
「他ならぬ、君が僕に教えた事だ」
――魔術に情緒は不要である。
――正確に標的が砕ければいい。
――そして、あの【θ=0.5, P-Ref:22.4】というコード。
「僕はただ、君という優秀なチューターが叩き込んでくれた『現代魔術の基礎中の基礎』を、最も効率の悪い方法で君自身にフィードバックしただけさ。……だから、安心しろ八代さん。君の教え方は、間違っちゃいない」
僕の言葉を聞いた八代ルイは、大きく見開いた瞳から、ポロポロと、堰を切ったように涙をこぼし始めた。
声にならない嗚咽。
それは、完璧な氷の女王が、初めて他者の前で――それも、自身が最も見下していたはずのモブの前で――見せた、どうしようもなく人間らしい脆弱性の露呈だった。
問題が解決したわけではない。
彼女がシンポジウムで何を突きつけられたのか、その巨大な壁は依然としてそこにあるままだ。
しかし、少なくとも今日、この演習場を支配していた致死性の沈黙だけは、彼女の不器用な泣き声によって完全に破壊されたのである。
僕は火傷の痛みに耐えながら、泣き続ける彼女の隣で、ただひたすらに、天井の無機質な照明を眺め続けていた。
ラブコメディの主人公には到底なれないが、それでも、泥臭いヒモとしての役割くらいは、少しは果たせたのかもしれない。




