【第16話】
「沈黙」というものは、決して「音が無い」というゼロの事象ではない。
それは、出力されるべき言葉が喉の奥で渋滞を起こし、あるいは出力すること自体を脳が拒絶した結果として生み出される、極めて高密度で質量を持った「ノイズ」の一種である。
ジョン・ケージの『4分33秒』という前衛音楽は、演奏者が一切楽器を鳴らさないことで、その場にある環境音を音楽として定義したが、今の僕と八代ルイを包んでいるこの沈黙は、環境音すらも圧殺するほどの重力を持っていた。
夕闇が完全に夜の帳へと変わった、第一魔術科高校・第二演習場。
防音と魔力遮断の結界が張られた半球状のドーム内で、僕たちはただ、ひたすらに無言だった。
大荒れに荒れて、そこら中に火炎球を乱れ撃っているのだとしたら、まだマシだったかもしれない。物理的な破壊行動は、感情の明確な発露だからだ。
しかし、八代ルイは何も壊さなかった。
彼女は演習場の中央に立ち、空中に展開したマナフォンのホログラムを前に、ただひたすらに、無機質な動作で『数式』を打ち込み続けていた。
タタッ、タタタッ。
仮想キーボードを叩く、乾いた音だけがドーム内に反響する。
「……【構築】」
ぽつりと、感情の抜け落ちた声で彼女が呟く。
彼女の指先に、淡い光の術式陣が展開されかける――しかし、それは結像する前に「パツンッ」と、ショートした豆電球のような音を立てて弾け飛んでしまった。
「…………」
彼女は何も言わない。舌打ちすらしない。
ただ、少しだけ俯き、再び仮想キーボードに指を這わせる。
タタタタッ。
【構築】。
パツンッ。
……その、痛々しいほどの反復横跳び。
僕は演習場の隅のベンチに座り、ただその光景を眺めていた。
彼女が何をしようとしているのか、僕の「オールC」の魔力頭脳では到底理解できない。彼女が今日、あのシンポジウムで何を言われ、何を見て、どんな絶望を抱えて帰ってきたのかも、僕は知らない。
理由がわからない。背景がわからない。彼女が直面している壁の高さも、材質もわからない。
ただ一つ、明確に理解できることがある。
今の僕が持ち合わせている「前世の安い屁理屈」や「その場しのぎの詭弁」など、今の彼女にとっては、道端の小石ほどの価値もないということだ。
「……八代さん」
数十分の沈黙の果てに、僕はとうとう耐えきれずに口を開いた。
「魔力回路が焼け焦げる匂いがしているよ。君の肉体が、その演算に耐えきれていないんじゃないのか」
僕の声は、自分で思うよりもひどく掠れていた。
八代ルイのタイピングの手が、ピタリと止まる。
彼女は振り返らなかった。ホログラムの青白い光に照らされたその後ろ姿は、僕が知る「学年首席の傲慢な女王」のものとはかけ離れた、ひどく華奢で、今にも折れてしまいそうな少女の背中だった。
「……見ての通りよ」
ぽつりと、本当に消え入りそうな声が、彼女の口からこぼれた。
「今の私には……ただ、見ていてもらうしかないの。あなたのその、何の防御壁もない空っぽの演算領域ですら、今の私のエラーを吸い出すことはできない。……だから、ただ、そこにいて」
それは、命令ではなかった。
助けを求める悲鳴でもなかった。
ただの、極めて絶望的で、ひどく閉鎖的な『現状の確認』だった。
「……御意」
僕はそれだけを返し、再び口を閉ざした。
これ以上何かを言えば、彼女の張り詰めた糸を、僕の無神経な刃で切断してしまうような気がしたからだ。
解決の糸口など、どこにも見当たらない。
ラブコメディのように、僕が彼女の手を引いて「俺がなんとかしてやる!」と叫べば解決するような、そんな安っぽい世界線ではないのだ、ここは。
現代魔術というガチガチのロジックで構築された社会において、無能(僕)はどこまでいっても無能のままだ。
タタタッ。
パツンッ。
再び、虚しい演算と崩壊のサイクルが始まる。
僕は目を閉じ、冷たいベンチの感触を背中に感じながら、この重苦しい沈黙の音を、ただただ全身で聴き続けた。
彼女の抱える『見えない重圧』の正体を知る術を持たない、自分の圧倒的な無力さを呪いながら。




