【第15話】
「日常」というものは、極めて繊細なジェンガのようなものである。
構成するパーツの一つ一つは取るに足らない凡庸な木片であっても、それが絶妙なバランスで組み上がっている限り、人はそこに「平穏」という名の美しさを見出す。しかし、そのジェンガは往々にして、外部からの理不尽な衝撃――たとえば、予定より早く帰還した暴君の足音――によって、いとも容易く崩れ去るのだ。
「……あの、夜行くん。上の棚の『第三紀・植物魔術大系』、取ってもらってもいいですか? 私、少し背が届かなくて……」
「了解した。僕のこの、魔力出力には一切貢献しないが無駄に発育だけは平均値を保っている肉体が、ついに他者の役に立つ時が来たようだな」
放課後の第三図書室。
古びた魔道書の整理という、天音マフユ先輩が図書委員として押し付けられていた(であろう)業務を、僕は自ら進んで手伝っていた。
彼女は「そんな、怪我人(僕の左頬のことだ)に手伝わせるわけには!」と激しく遠慮したが、僕の「このまま君の優しさに触れずに帰宅すれば、僕は無力感から魔力欠乏症を起こして死ぬ」という極めて倫理に反する詭弁により、なんとか手伝いの権利をもぎ取ったのである。
「ふふっ。夜行くんって、本当に変わった話し方をしますよね。最初は少し怖かったですけど、なんだか……とても優しい人なんだなって、わかります」
天音先輩が、埃をかぶった本を布で拭きながら、柔らかい笑みを浮かべた。
……優しい、か。違う。僕はただ、八代ルイという絶対零度の猛毒から避難し、この第三図書室という無菌室で、擦り減った精神を回復させているだけの利己的な男だ。
だが、それでも。窓から差し込む夕日の中、穏やかな先輩と他愛のない世間話をしながら本を片付けるこの時間は、僕がこの異世界に転生して以来、初めて味わう「真の平和」だった。
――ガチャリ。
その時。
重厚な木製のドアが、ノックもなしに無遠慮に開け放たれた。
「……夜行」
図書室の空気が、物理的に凍りついた。
入り口に立っていたのは、本日は外部の『特別シンポジウム』に出席しているはずで、学校にはいないと確信していた亜麻色髪の少女――八代ルイだった。
「ひっ……八代、さん……?」
天音先輩が、小動物のように肩を跳ねさせ、僕の背後にサッと隠れた。
無理もない。「氷の女王」が突然現れ、しかもその視線が、僕たち二人を真っ直ぐに射抜いているのだ。
思考が加速する。
もしこれが、前世の僕が読み漁っていた三流のラブコメディであったなら、ここは間違いなく『修羅場』のイベント発生条件を満たしている。
主人公が他の女の子と仲良くしている現場を、メインヒロインが目撃する。ヒロインは「べ、別に嫉妬なんかじゃないんだからね!」と顔を真っ赤にして怒り出し、主人公に理不尽な暴力を振るう。……それが、様式美というやつだ。
僕は身構えた。顔面めがけて飛んでくるであろう【火炎球】を相殺するシミュレーションを脳内で展開する。
「違うんだ八代さん、これは図書委員の仕事を手伝っていただけで、決してやましいことは――」
「…………」
しかし。
僕のその陳腐な言い訳は、彼女の顔を見た瞬間、喉の奥でピタリと止まった。
彼女の様子が、明らかにおかしい。
いつもの、周囲を完璧に見下すような傲慢な姿勢ではない。彼女のトレードマークである亜麻色の髪は少し乱れ、制服のネクタイも僅かに歪んでいる。
何より――その『目』だ。
彼女は僕を見ているようで、僕を見ていなかった。その瞳には、嫉妬も、独占欲も、あるいはいつもの「無能を蔑む冷ややかな光」すら存在しない。
そこにあったのは、焦燥。そして、暗く澱んだ、見えない壁に何度も爪を立てて血を流しているような、ひどく痛々しい『不機嫌』だった。
「……八代さん。シンポジウムは、どうしたんだ」
僕の問いかけに、彼女は数秒の遅れて反応し、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「……帰ってきたのよ。あんな無意味な座談会、一秒でも長くいるだけ魔力の無駄だわ」
声が震えている。いや、声だけではない。彼女の周囲の空間そのものが、制御しきれない魔力の漏洩によって微かに陽炎のように揺らめいていた。
学年首席で、魔力コントロールにおいて右に出る者のいない彼女が、魔力を漏らしている?
「夜行。……今すぐ、第二演習場に来なさい。私の術式の検証に付き合ってもらうわ」
「……今から? もう日は落ちるぞ。それに、今日は随分とお疲れのよう――」
「来なさいって言ってるでしょ!!」
怒鳴り声。
それは僕に対する怒りというよりは、自分自身に対する、行き場のない八つ当たりのようだった。
ビクンと、僕の背後で天音先輩が震える。
八代ルイは、僕の背後にいる天音先輩の存在に――いや、僕が他の女と一緒にいるという事実そのものに、一ミリも興味を示していなかった。
彼女の脳内には今、僕が誰といようが、僕の左頬がビンタで腫れていようが、そんな些細な情報を処理する余裕すらないのだ。
「……八代さん」
僕は、背後に隠れる天音先輩に「大丈夫だ」と目配せをし、手に持っていた魔道書を机に置いた。
僕は彼女の抱えている問題を知らない。
彼女がなぜ友達を作らないのか。なぜあんなにも生き急ぐように「オリジナル術式」の開発に固執しているのか。彼女の深層心理が求めているものは何なのか。
何一つ、分からない。
ただ一つ、僕の研ぎ澄まされたモブとしての生存本能(直感)が、強烈にアラートを鳴らしている事実がある。
彼女は今、何かに押し潰されそうになっている。
完璧に見えた氷の城の奥底で、たった一人で、到底背負いきれないほどの巨大な『何か』を抱え込んで、歯を食いしばっている。
「……わかった。行こう」
「夜行くん……!」
心配そうに僕の袖を引く天音先輩に、僕は努めて平坦な声で言った。
「すまない、天音先輩。僕は学年首席様の専属パシリ(サンドバッグ)としての業務を遂行しなければならない。平和な図書室の空気は、明日また吸いに来させてもらうよ」
「あ……はい。気をつけて……」
僕は天音先輩に背を向け、ドアの前に立つ八代ルイの元へと歩み寄った。
すれ違いざま、彼女から微かに、焦げたエーテルのような……無理な魔力行使の痕跡の匂いがした。
ラブコメの文法は、完全にエラーを吐いて停止した。
ここにあるのは、見えない重圧と戦う一人の少女と、それに巻き込まれるしか能のない無力な凡人の、極めて殺伐とした現実だけだ。
僕たちは無言のまま、夕闇に沈みかけた第一魔術科高校の廊下を、演習場へと向かって歩き出したのである。




