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【第14話】

うわさ」というものは、物理学における熱力学第二法則――すなわちエントロピー増大の法則に極めて忠実な情報形態である。

 発信源から放たれた一つの小さな事象(事実)は、他者の口という名のフィルターを通過するたびに尾鰭がつき、背鰭が生え、最終的には元の形を微塵も留めない異形の怪物モンスターへと変貌し、無秩序に拡散していく。

 現代魔術社会においては「思念伝達テレパシー」や「情報共有シェアマクロ」といった便利な術式が存在するが、こと「他人のゴシップ」に限って言えば、人間の口から口へと伝わるアナログな伝播速度の方が、一部環境においては光ファイバーやネットワーク通信を遥かに凌駕するのだ。

「……あ、あの、夜行くん? 頬、本当に痛くないですか? 赤く腫れてしまっていますけど……保冷用の『第一種・氷結術式フリーズ』を少しだけかけましょうか?」

「いや、いい。これ以上君の優しさに触れると、僕の貧弱な自己肯定感が致死量の罪悪感によって圧死してしまうからね。それより……」

 旧校舎の階段の踊り場。

 床に散乱した大量の魔道書を拾い集めながら、僕はふと、自身の脳内に生じた「極めて初歩的だが致命的な矛盾バグ」に気がついた。

「一つ、事象の確認をさせてもらってもいいかな、天音先輩」

「は、はい。何でしょう? 私に答えられることでしたら、何でも……」

「君は先ほどから、極めてナチュラルに、かつ親しげに『夜行くん』と僕の名前を呼んでいるね」

「あ……」

「僕は一年生。君は二年生だ。そして僕は、入学以来この第一魔術科高校において、背景のモブAとして壁のシミに擬態することに全精力を注いできた男だ。生徒会役員でもなければ、部活動で華々しい成績を残したわけでもない。なぜ、上級生である君の口から、僕のような底辺無名生徒の個人情報ネームデータが流暢に出力されたんだい?」

 僕が極めて論理的に(そして少しだけ探るように)問いかけると、天音マフユ先輩は拾いかけた本を持ったまま、ビクッと肩を震わせた。

 そして、彼女の柔和な顔が、先ほどのパンチラ事件とはまた違うベクトルで、みるみるうちに赤く染まっていく。

「そ、それは……その……」

「まさか、君のその丸眼鏡は『視認した対象の個人情報をデータベースから強制的に引き出す、軍事用ハッキング・デバイス』だったりするのかな?」

「ち、違いますっ! ただの乱視用のレンズです!」

 天音先輩はぶんぶんと首を横に振った後、ひどく気まずそうに、もじもじと指先を絡ませた。

「あの……夜行くんご自身は、あまり自覚がないのかもしれませんが……。その、夜行くん、今、この学校の上級生の間で……ものすごく『有名』なんですよ?」

「……有名? 僕が? 全校集会で全裸で魔術詠唱でもした記憶はないが」

「違いますっ。ええと……『あの氷の女王・八代ルイの専属パートナー』として、です」

 ピシャーン、と。

 僕の脳内で、見えない雷が落ちた音がした。

「……専属パートナー」

「はい。入学以来、誰とも群れず、他者を寄せ付けなかった学年首席の八代さん。そんな彼女が、昼休みも放課後も、なぜか一人の男子生徒――つまり夜行くんとだけは常に行動を共にしている。しかも、夜行くんは魔力判定がオールCという、一見すると平凡なステータス……。そこから、色々な憶測が飛び交っていまして」

「憶測。例えばどんな?」

 僕が引きつった笑顔で先を促すと、天音先輩は申し訳なさそうに視線を落としながら、恐るべきゴシップの数々を口にし始めた。

「ええと……『夜行トオミは、魔力を完全に隠蔽する特殊能力を持った特待生スリーパーセルである』とか」

「……」

「『実は夜行くんの実家が裏社会の魔術結社で、八代さんのパトロンになっている』とか」

「……」

「『八代さんを呪縛の術式で洗脳し、自分の言いなりにしている恐るべき精神支配者マインド・コントローラー』だとか……」

「待て待て待て待て!!」

 僕はたまらず声を荒げ、両手で頭を抱えた。

「なんだその、深夜のオカルト掲示板を煮詰めたような狂気の陰謀論は!! 僕はただ、学食のパンを買いに走らされ、彼女のクソみたいな術式のデバッグで脳を焼かれているだけの、哀れな労働基準法違反の被害者だぞ!!」

「わ、私はそんな噂、信じてませんよ!? 夜行くんがそんな恐ろしい人だなんて、絶対にあり得ません!」

 天音先輩は慌てて僕を慰めようと、優しく肩をポンポンと叩いてくれた。

「だって、階段で転びそうになった私を、身を挺して(物理的に)助けてくれたじゃないですか。そんな自己犠牲の精神を持った優しい人が、精神支配だの裏社会だの、そんな悪い人のはずがありません。……ただの、不器用で、巻き込まれやすくて、少し理屈っぽいだけの、普通の男の子ですよね?」

 ――グサッ。

 彼女の純度100%の善意に満ちた言葉が、僕の歪んだプライドの核を的確に、そして無自覚に貫いた。

「……天音先輩。君のその『他者の本質を無意識に見抜く眼力』は、魔術以上の凶器になり得るよ。少し泣いてもいいかな」

「えっ!? ご、ごめんなさい! 私、また何か無神経なことを……!」

 オロオロと慌てふためく天音先輩を見上げながら、僕は深く、今日一番の重いため息をついた。

 なるほど。モブとして平穏に生きようとしていた僕の生存戦略は、八代ルイという「目立ちすぎる猛毒」に近づきすぎた時点で、すでに完全に破綻していたのだ。僕は「氷の女王の隣にいる謎の男」として、完全に全校生徒の監視対象アイドルになってしまっていたらしい。

「……手伝うよ、天音先輩」

「あ……ありがとうございます、夜行くん。でも、痛いところはないですか?」

「心以外はね」

 僕たちは、薄暗い階段の踊り場で、再び魔道書を拾い集め始めた。

 八代ルイが不在の「平和な一日」は、こうして『悪名高い噂の流布』という残酷な事実の突きつけと、『母性溢れる先輩とのフラグ建設』という、ラブコメとサスペンスが交通事故を起こしたような混沌と共に、過ぎ去っていくのだった。

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