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【第13話】

「平和」という言葉の語源について深く考えたことはあるだろうか。

 平らかで、和やか。文字面だけを見ればこれほど心温まる単語もないが、僕の個人的な見解によれば、平和とは「圧倒的な暴力や理不尽が、一時的にその場から欠如しているだけの真空状態」に過ぎない。

 そして今日、僕の周囲には、極めて局所的かつ奇跡的な真空状態が形成されていた。

「いやあ、空気が美味い。第一魔術科高校の空気清浄用結界が、これほどまでに澄んだエーテルを供給していたとは知らなかったよ」

 僕は誰もいない旧校舎へと続く渡り廊下を歩きながら、一人ごちた。

 理由は単純だ。僕の日常を理不尽な暴力と暴言で支配しているあの亜麻色髪の暴君――八代ルイが、本日は「外部の魔術研究機関による特別シンポジウム」とやらに出席するため、終日公欠となっているのである。

 学年首席というのも大変だな、と他人事のように同情しつつ、僕の足取りは羽が生えたように軽かった。今日一日は、パシリも、精神感応のデバッグも、理不尽な殺害予告もない。ただの一介のモブ生徒として、モブらしい平穏な一日を享受できるのだ。

 だが、僕のそのささやかな希望は、どうやら別の形での「ノイズ」によって静かに侵食されていたらしい。

『ねえ、あの子じゃない? 噂の夜行くんって』

『えっ、本当? あの氷の女王・八代ルイを完全に手懐けてるっていう……』

『魔力ステータスはオールCの落ちこぼれを偽装してるけど、実は特待生クラスの実力を隠し持ってる潜伏工作員だって噂、マジだったんだな……』

 ……すれ違う生徒たちのヒソヒソ声が、ダイレクトに鼓膜を叩く。

 僕は頭を抱えそうになった。この第一魔術科高校は、前世の中高と同じく三学年制を採用している。当然、僕は一番下っ端の一年生なのだが、どうやら上級生たちの間にまで、僕に関する尾鰭も背鰭も、なんなら狂気の翼まで生えたデマゴギーが蔓延しているらしかった。

 誰だ。僕を工作員などと呼んだ馬鹿は。

 僕が八代ルイを手懐けている? 冗談ではない。僕は猛獣の檻の中に放り込まれたウサギが、食べられる順番を少しでも後回しにするために、必死で猛獣の肩を揉んでいるだけだ。それを「手懐けている」と表現するのは、あまりにも狂気じみたポジティブシンキングである。

 逃げよう。

 こんな噂の蔓延る魔境(校舎)からは一刻も早く離脱し、最も人口密度の低い場所で昼休みを消費しなければならない。

 僕は足早に、旧校舎の奥にある第三図書室――現在はほとんど使われていない、紙の魔道書だけが眠る埃っぽい空間――へと続く、薄暗い階段へと逃げ込んだ。

 しかし、運命というやつは、僕が「非日常」から逃れようとすればするほど、物理法則をねじ曲げてでも新たな「非日常」をぶつけてくる性質があるらしい。

「あわ、わわっ……!」

 階段の踊り場。

 僕が下から見上げるような形で足を踏み入れたその時、上から降ってきたのは、声と、そして「巨大な紙の塔」だった。

 正確には、自分の身長ほどもある膨大な量の古書を抱え上げ、完全に前が見えなくなっている女生徒が、階段の最上段で派手にバランスを崩したのである。

「危ない!」

 僕は反射的に叫び、手を伸ばした。

 ここで「【第一種・念動力テレキネシス】!」などとスマートに詠唱できれば格好もついたのだろうが、魔力平均値の僕にそんな離れ業ができるはずもなく、ただ物理的な肉体のバネだけで彼女を受け止めようと階段を数段駆け上がった。

 だが、質量保存の法則と重力加速度は、極めて無慈悲だ。

 崩れ落ちる古書の雪崩。それに巻き込まれるようにして落下してくる女生徒。

 僕は彼女の身体をなんとか受け止めようとしたものの、勢いを殺しきれず、結果として僕が下敷きになる形で、階段の途中へと派手に仰向けに倒れ込んだ。

「ぐっ……!?」

 背中を強打する痛みに顔をしかめながら、僕はゆっくりと目を開けた。

 そして、僕の視界は――極めて非ユークリッド幾何学的な、ある種の一点透視図法によって、一つの「真理」へと強制的にピントを合わせられていた。

 白。

 純白。

 何の変哲もない、レースの装飾すらない、極めて実用性を重視した、清潔感あふれるコットンの布地。

 僕の上に覆い被さるようにして倒れ込んだ彼女の、少し長めのプリーツスカートが重力に逆らえずめくれ上がり、僕の顔面からわずか数十センチの距離で、その神聖なる領域を完全な形で開示していたのである。

 思考が加速する。

 これは事故だ。極めて確率論的な、宇宙の采配による避けがたいインシデントである。僕には一切の邪な意図はなかった。僕はただ、落下する人間を助けようとした、善良なるサマリア人としての義務を果たしたに過ぎない。

 そして、人間の網膜というものは、視界に入った光の情報を無意識に電気信号に変換し、脳へと伝達する極めて受動的な器官である。つまり、僕が「それ」を見ているのではなく、宇宙の側が僕に「それ」を見せつけているのだ。

 そんな、哲学的かつ見苦しい自己弁護のロジックを脳内で構築し終えた、その時だった。

 パァンッ!!!

 旧校舎の階段に、乾いた、しかし信じられないほど鮮烈な破裂音が響き渡った。

 僕の左頬に、視界が明滅するほどの強烈な衝撃が走る。魔術ではない。一切の魔力的な強化バブを伴わない、純粋な物理的打撃。いわゆる「ビンタ」である。

「ぶふっ……!?」

「ひゃああっ!?」

 悲鳴を上げたのは、ビンタを喰らった僕ではなく、ビンタを放った当の本人の方だった。

 彼女は弾かれたように跳ね起きると、スカートの裾を必死に押さえ込み、顔を真っ赤にして後ずさった。

「あ、あああああ、あのっ! 申し訳ありませんっ! わ、私、その、突然のことでパニックになってしまって……! 条件反射で、手が勝手に動いて……っ!」

 僕の視界がチカチカと点滅する中、そこに立っていたのは、一言で言えば「優しさと母性を擬人化したような」女生徒だった。

 ふわりとした、癖のあるショートボブの黒髪。少し大きめの銀縁の丸眼鏡。第一魔術科高校の戦闘的なデザインの制服が、彼女が着るとまるで修道服か何かのように清楚に見える。八代ルイのような尖った美しさではなく、見ているだけでこちらの心が丸くなるような、柔和で温かみのある佇まい。

 しかし、その優しげな雰囲気とは裏腹に、彼女の右腕から放たれた平手打ちは、間違いなくプロのボクサーのそれに匹敵する殺傷能力を秘めていた。

「い、痛かったですよね!? ごめんなさい、本当にごめんなさい! 助けていただいた恩人に対して、暴力で報いるなんて……私、魔術師として以前に、人間として最低です……!」

 彼女は涙目になりながら、深々と、直角になるほどの勢いで頭を下げてきた。

 そのあまりにも真摯で、悲痛なまでの謝罪に、僕は腫れ上がった左頬を押さえながら、逆に猛烈な罪悪感に苛まれ始めた。

「いや、待ってほしい。顔を上げてくれ、……ええと」

「あ、二年Aクラスの、天音あまねマフユと申します……っ」

 上級生だった。

 しかも、その「委員長の中の委員長」みたいなオーラからして、ただ者ではない匂いがする。

「天音先輩。悪いのは僕の方だ。あの状況下において、僕の眼球が君のスカートの内側という絶対領域を不本意ながらも『観測』してしまったことは、シュレディンガーの猫が箱を開けられたような確定事項だ。君のビンタは、乙女の尊厳を守るための極めて正当な防衛本能の発露であり、法的にも道義的にも何ら責められるべきものではない」

「そ、そんな……! どんな理屈があろうと、他者の顔面を叩いていい理由にはなりません! しかも、私の不注意で巻き込んでしまったのに……! ああっ、保健室! すぐに保健室で『第三種・細胞治癒ヒール』の処置を……!」

 天音マフユ先輩は、オロオロと僕の顔の周りで手を泳がせている。

 その距離の近さと、彼女から漂うフローラルな香りに、僕は先ほどの「白」の映像がフラッシュバックしそうになり、慌てて視線を外した。

「本当に大丈夫だ。これくらい、日頃から理不尽な火炎球ファイア・ボールで命の危機に晒されている僕にとっては、心地よいマッサージのようなものだから」

「心地よいマッサージ……? よ、夜行くん、あなたは一体、普段どんな過酷な環境で生きているんですか……?」

 天音先輩は、まるで戦場の孤児を見るような、果てしなく慈愛に満ちた、そして心の底から哀れむような瞳で僕を見つめた。

 その視線が、僕の歪んだ自尊心を少しだけチクリと刺す。

 八代ルイという絶対零度の暴君とは対極に位置する、天音マフユという名の、過剰なまでの優しさと良心の塊。

 しかし、僕の生存本能は、彼女のその「優しさ」の奥底に、また別の種類の、抗いがたい「引力」のようなものを感じ取っていた。

 ラブコメのような出会い。

 しかし、ここは理不尽な現代魔術社会だ。ただのラブコメで終わるはずがない。

 僕のひねくれた平和な一日は、ビンタの痛みを左頬に残したまま、新たな波乱の予感と共に唐突に終わりを告げようとしていたのである。

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