【第12話】
『隣の芝生は青い』。
この古き良きことわざは、人間の持つ「嫉妬」という感情の非合理性を実に見事に言語化している。だが、現代魔術の観点から言わせてもらえば、その芝生が青く見えるのは、単に「高濃度の毒素が揮発して青白く発光しているだけ」かもしれないのだ。
外見の美しさに騙されてその芝生に足を踏み入れれば、待っているのは致死量の毒による精神的・物理的な死である。
そして今、僕の目の前には、その有毒な芝生を「美しいお花畑」だと勘違いしている、極めて幸福で愚かな羊たちが二匹(二人)立っていた。
「おい、夜行。ちょっとツラ貸せよ」
「最近、お前調子乗ってないか?」
放課後の教室。
学級委員長が「本日のホームルームを終わります」と宣言した直後、僕の席の前に立ち塞がったのは、クラスメイトの男子二人組だった。
名前は確か、マクラザキくんと、カツオブラくんだか、そんな感じの(僕の脳内メモリに保存する価値すらない)モブAとモブBである。
「調子に乗っている、とは心外だな。僕の毎日は、低空飛行を通り越して地中を這いずるミミズのような、謙虚で慎ましい生活の連続なのだが」
「とぼけるなよ。お前、最近いつも八代さんと一緒にいるだろ!」
「そうそう! 昼休みの中庭でも、放課後の図書室でも! あんな高嶺の花と、どういうコネで絡んでるんだよ!」
男子生徒AとBの目には、明らかな「嫉妬」と「下世話な好奇心」がギラギラと渦巻いていた。
なるほど。理解した。
彼らの目に映る八代ルイは、「成績優秀・容姿端麗・孤高の美少女」という、絵に描いたような高嶺の花なのだ。そして、魔力ステータスオールCの僕が、そのトロフィーの隣にちゃっかり居座っていることが、彼らのモブとしての矮小なプライドをひどく刺激しているらしい。
僕は、ゆっくりと立ち上がり、彼らの目を真っ直ぐに見つめた。
僕のその瞳に宿っていたのは、言い訳でも、優越感でも、恐怖でもない。
シベリアの永久凍土よりも冷たく、そして深海よりも暗い――圧倒的な『悲壮感』であった。
「……お前ら。本気で、アレが『高嶺の花』に見えているのか?」
「は、はぁ? 何言って……」
僕のあまりにも死んだ魚のような目に、男子生徒たちは一瞬気圧されたように言葉を詰まらせた。
「いいかい、よく聞いてくれ。君たちの目に映っているものが『美しい一輪のバラ』だとしたら、僕の目に映っているのは『バラに擬態した、近づく者の尊厳と魔力と財布の中身を根こそぎ溶かして貪り食う、ラフレシアの突然変異体』だ」
「なっ……八代さんをラフレシア扱い!?」
「静かに。事実を述べているだけだ。君たちは知っているか? 彼女の編み出す『精神感応型術式』のデバッグに付き合わされ、自分の脳内にある中二病時代の黒歴史ノートをフルボイスで強制再生される、あの魂の凌辱を。……君たちは知っているか? 貴重な休日の昼下がりに呼び出され、殺意の閾値を振り切った彼女の指先から、数ミリの距離で【火炎球】の熱線を浴びせられる、あの死の恐怖を!」
僕は彼らの肩をガシッと掴み、魂の底からの叫びを吐き出した。
「あれは恋愛感情などという甘っちょろいものではない! 捕食者と被食者、いや、傲慢な主君と、奴隷以下のモルモットの関係だ! もし僕と彼女の間に微塵でもラブコメ的な要素があると言うのなら、今すぐジュネーブ条約を改定して人権委員会に介入を要請すべきだ! 頼むから、僕の代わりに君たちが彼女の隣に立ってくれ!!」
「「ヒッ……!!」」
僕のあまりにも切実で、血を吐くような悲痛な叫びに、男子二人は完全にドン引きしていた。
しかし、彼らの脳内はお花畑である。「いやいや、そうは言ってもお前……」と、なおも都合よく解釈しようとした、その時。
「――夜行くん」
背後から、教室の温度を物理的に五度ほど下げる、絶対零度の声が響いた。
振り返らなくともわかる。僕の背後に、亜麻色の髪の死神が立っている。
「学食の『特製・フルーツサンド(限定5個)』の確保任務が、あと三分で始まろうとしているのだけれど。こんなところで無駄口を叩いている暇があるの?」
「あ、いや、これは彼らが僕に――」
「言い訳は聞かないわ。――五秒。五秒以内に走り出さなければ、あなたの魔術回路をショートさせて、物理的に炭火焼きのカツにするわよ」
指先でパチッ、と静電気のような赤い火花が散る音がした。
「い、行きます! 直ちに出撃しますお姉さま!」
僕は悲鳴を上げ、窓ガラスを突き破らんばかりの勢いで教室を飛び出した。
全力疾走で廊下を駆け抜けながら、僕の背中に、男子生徒たちのヒソヒソ声が追いかけてくるのが聞こえた。
『うわぁ、すげぇ冷たい態度……でも、わざわざ夜行のこと迎えに来たってことだよな?』
『ああ。あんなキツい言い方してるけど、実は夜行のこと信頼してるっていうか……王道のツンデレってやつじゃね?』
『羨ましいぜ、夜行のやつ……!』
僕は走りながら、血の涙を流した。
ツンデレ。ツンデレだと? 誰だ、あんな致死量の暴力と理不尽の塊を「デレ」という都合のいいオブラートで包み込むような、ふざけた単語を発明したのは。今すぐその言語学者を呪い殺してやりたい。
隣の芝生は青い。
しかし、その芝生の上に立っている人間が、足元の有毒ガスでどれだけ白目を剥いて血を吐いているかなど、安全圏にいる外野には永遠に理解できないのだ。
僕は胃痛と魔力不足で軋む体を鞭打ちながら、ただひたすらに、生存のためのフルーツサンドを求めて第一魔術科高校の廊下を疾走し続けたのである。




