【第10話】
「ガチャ」という単語の響きには、人間の愚かさと資本主義の業が凝縮されている。
元々はカプセルトイのダイヤルを回す擬音語に過ぎなかったその言葉は、いつしか「射幸心を煽り、人間の理性と財布の中身を限界まで搾取する電子の悪魔」の代名詞へと変貌を遂げた。
僕が前世において、凍結した路面で無様にスリップし、トラックのバンパーと熱い口づけを交わすハメになった直接の原因も、歩きスマホで回していたこの「ガチャ」である。
だからこそ、僕は二度目の人生において固く誓っていたのだ。「もう二度と、不確定な確率に己のリソースを委ねるような真似はしない」と。
「……で。その固い誓いとやらを秒で破り捨てて、あなたは何をしているの?」
放課後の帰り道。
一週間の便所掃除という追加ペナルティを終え、文字通り泥と洗剤にまみれた僕たちは、霊脈駅の近くにある魔力コンビニ『エーテル・マート』の裏路地に寄り道をしていた。
夕闇が迫る薄暗い路地裏。
そこに、周囲の洗練された魔術都市の景観から完全に浮いている、古びた一台の自動販売機がポツンと鎮座していた。
『一回500円:あなたの深層心理が【本当に求めているもの】を具現化します』
そう書かれた胡散臭い手書きのポップが貼られた、明らかに非公式な魔力駆動のガチャ筐体である。
僕はその前に立ち、財布からなけなしの500円硬貨を取り出そうとしていた。
「破り捨ててなどいないさ、八代さん。これはガチャではない。自己分析だ」
「自己分析? 500円玉を胡散臭い機械に吸い込ませることが?」
「そうだ。この筐体は『深層心理が本当に求めているものを具現化する』と謳っている。つまり、僕は500円を支払うことで、自分が無意識下で何を渇望しているのかという、極めて高次元な哲学的命題の答えを得ることができる。これは浪費ではなく、自己投資だよ」
「……その詭弁を考えるのに脳のカロリーを使うくらいなら、便所掃除でもう少し真面目にブラシを動かしてほしかったわね」
八代ルイは、心底ゴミを見るような目で僕を蔑んだ。
しかし、彼女のその冷たい視線すら、今の僕の指を止めることはできない。
噂に聞いたのだ。この路地裏の自販機は、正規の魔術ライセンスを持たない闇の魔術師が設置したアーティファクトであり、時にとんでもないレアアイテム(あるいはチート能力の触媒)を吐き出すことがある、と。
平均的ステータス(オールC)でこの先生きのこるためには、こういう路地裏の胡散臭いイベントにこそ賭けるべきなのだ。
「さあ、見せてみろ。僕の深層心理が求める、真の力を!」
チャリン、という小気味良い音と共に硬貨を投入し、古びたダイヤルを回す。
ガチャン。ゴトッ。
排出口に転がり出てきたのは、手のひらサイズの、黒くて丸いカプセルだった。
僕はゴクリと唾を飲み込み、震える手でそのカプセルを開く。
中から出てきたのは——。
「……何、これ」
覗き込んだ八代ルイが、間の抜けた声を出した。
僕の手のひらに鎮座していたのは、見事なまでに透き通った、一切の魔力を感じさせない『ただのガラス玉』だった。
「……ガラス玉、だな」
「あなたの深層心理が【本当に求めているもの】が、ただのガラス玉なの?」
「……いや、待て。早計は禁物だ。これはきっと、ただのガラス玉に見せかけた『超高圧縮型エーテル結晶』か何かに違いない。見ろ、この透明度。世界を丸ごと映し出すような——」
「【魔力鑑定】。……うん。成分の99%がケイ砂ね。その辺の道端に落ちてる空き瓶の破片と変わらないわ。資産価値、0円」
「…………」
即座に、無慈悲に、そして科学的(魔術的)に論破された。
僕の500円。学食の定食が余裕で食べられる金額が、ただのケイ砂の塊に変換されてしまった。
「……ぷっ」
不意に、隣から吹き出すような音が聞こえた。
見ると、八代ルイが口元を両手で覆い、必死に笑いを堪えて肩を震わせている。
「……笑うな。他人の絶望をエンターテインメントとして消費するのは、現代魔術師としていささか倫理観に欠ける行為だぞ」
「だって……あははっ! あんだけ偉そうに『自己投資』だの『哲学的命題』だの語っておいて、出てきたのがただのガラス玉って! あなたの深層心理、どんだけ空っぽなのよ!」
普段の氷のような冷たさはどこへやら、彼女はお腹を抱えて路地裏で爆笑し始めた。
その無防備な笑顔は、腹立たしいほどに年相応で、そして——少しだけ、見とれてしまうほどに綺麗だった。
「……笑いすぎだ。酸素欠乏で脳細胞が死滅するぞ」
「ひぃ、お腹痛い……っ。あーあ、可哀想な夜行くん。500円の自己投資の結果が『僕は空っぽのモブでした』っていう再確認だなんて」
八代ルイは目尻に浮かんだ涙を拭いながら、僕の手からガラス玉をひょいとつまみ上げた。
そして、夕闇の差し込む空に向かって、それをかざす。
「でも、まあ」
ガラス玉を通して夕日を見つめる彼女の横顔は、不意に、ひどく大人びて見えた。
「あなたの深層心理が『何の色にも染まっていない、透明なもの』を求めてるって言うなら、それはそれで、悪くないんじゃない? 魔術だの、才能だの、そういう濁ったものにまみれたこの世界で……ただの透明でいられることは、一種の才能かもしれないわ」
それは、彼女なりの不器用すぎる慰めだったのだろうか。
僕は毒気を抜かれたように立ち尽くし、彼女がかざすガラス玉の中で逆さまに映る、夕焼けの異世界の景色を見つめた。
「……そうだな。そういうことにしておこう。僕の500円の尊厳を守るために」
「そうしなさい。……ほら、帰るわよ。もう便所の洗剤の匂いを嗅ぐのは限界」
彼女はガラス玉を僕のポケットにポイッと放り込むと、足早に駅の方へと歩き出した。
僕はため息をつきながら、その後を追う。
ガチャは悪い文明だ。
だが、その結果として、無愛想なツンデレ少女の「腹を抱えた爆笑」と「ほんの少しのデレ」を引き出せたのだとすれば。
500円の対価としては、まあ、ギリギリ許容範囲内……なのかもしれない。
僕の異世界サバイバルは、相変わらず金欠と自己嫌悪にまみれながら、少しずつこの世界に根を下ろし始めていた。




