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【第9話】

「掃除」という行為は、エントロピーの増大という宇宙の絶対法則に対する、人類の最も無謀で、かつ涙ぐましい抵抗運動である。

 放っておけば部屋は散らかり、埃は積もり、世界は混沌へと向かっていく。それを己の肉体労働によって一時的に秩序ある状態へ引き戻す。まさに神への反逆行為と言っても過言ではない。

 だからこそ、僕は主張したい。「僕のような凡人は、宇宙の法則に従って大人しく寝ているべきだ」と。

「……さっきから何をブツブツ言ってるのよ。手を動かしなさい、手を」

 第一魔術科高校・第三特別倉庫。

 窓一つないコンクリート打ちっぱなしのその空間で、八代ルイが埃よけのマスク越しに冷ややかな声を響かせた。

 彼女の周囲では、三冊の分厚い魔道書と、五つのモップが、彼女の指揮する『念動力テレキネシス』によって空を飛び交い、自動的に床を磨き上げている。まるで魔法使いの弟子のワンシーンだが、やっている本人の目はひどく現実的で、そして不機嫌だった。

「手を動かせと言われてもね」

 僕は倉庫の入り口付近に座り込み、マナフォンの画面から目を離さずに答えた。

「この倉庫、入り口から見た時の容積と、中に入った時の容積が明らかに矛盾しているじゃないか。外見はただのプレハブ小屋なのに、中は体育館より広い。いわゆる『空間拡張術式』が施されているんだろう? そんな非ユークリッド幾何学的な異常空間を、物理的なモップ掛けで掃除しようだなんて、スコップで砂漠の砂をすくうようなものだ」

「だから私が魔術で一括処理してるんでしょうが。あなたはただ、そこの『魔力判定落ちした不良品ガラクタ』を段ボールに詰めるだけの簡単なお仕事よ。なぜそれすらやらないの?」

「やっているさ。僕のこの優れた観察眼によって、ガラクタがガラクタであるという状態を『観測』し、量子力学的に確定させている。僕が見ていなければ、このガラクタは名剣エクスカリバーに変わっていたかもしれない。感謝してほしいね」

「……次、その減らず口を叩いたら、あなたのその脳髄を物理的に洗濯機に放り込んで、思考回路を漂白してあげるわ」

 八代ルイの背後に展開されたモップの一つが、鋭く僕の顔面を指差した。先端から水滴がポタポタと落ちているのが、妙にリアルな殺気を醸し出している。

 僕は「御意」とだけ答え、渋々マナフォンをポケットにしまい、目の前に山積みになったガラクタ——壊れた魔力計だの、暴発して黒焦げになった杖だの——に手を伸ばした。

 今日の放課後のこの苦行は、僕が「補習をサボって図書室のソファで昼寝をしていた」ことへのペナルティとして、社畜担任から言い渡された奉仕活動である。そして、なぜか「連帯責任」という理不尽なシステムにより、僕の専属チューターである八代ルイまで巻き込まれてしまったのだ。

 彼女の不機嫌も当然と言えば当然である。

「そもそも」と、僕は段ボールに謎の金属球を放り込みながら口を開いた。

「こんな非効率的な作業、自動清掃用のゴーレムでも配備しておけば一発じゃないか。現代魔術の粋を集めた学校が聞いて呆れる」

「配備されてるわよ。数年前にね」

「へえ。ならそいつを起動すれば……」

「暴走して、この倉庫の奥底に引きこもってるのよ。だから私たちが手作業で片付けてるんじゃない」

 ……嫌な情報を聞いた。

 暴走したゴーレムが引きこもっている空間で、掃除をしている? それはもう掃除ではなく、廃棄区画でのモンスター討伐クエストではないのか。

 その時だった。

 倉庫の奥、暗がりとなっている空間の歪みから、ズズン……ズズン……という重低音が響いてきた。

「……おい、八代さん。今、何か嫌な音がしなかったか?」

「気のせいじゃない? それともあなたの脳内の生存本能が、労働から逃避するために幻聴を作り出してるのかしら」

「いや、君のその冷酷な分析を差し引いても、明らかに何かがこちらに向かってきている物理的な振動だ」

 暗がりから姿を現したのは、一言で言えば「巨大なルンバ」だった。

 ただし、直径は二メートル近くあり、表面には無数のブレードと、ゴミを吸引するためのブラックホールのような吸引口がついている。そして、その中央にある赤いセンサーが、ギョロリと僕たちを捉えた。

『ピーーー。非魔力的ヒマリョクテキナ、粗大ソダイゴミヲ発見。排除ハイジョシマス』

 無機質な機械音声が、倉庫内に木霊する。

「……おい。あいつ、今僕のことを見て『粗大ゴミ』って言わなかったか?」

「魔力探知センサーが壊れてるのよ。魔力保有量が著しく低い存在を、人間じゃなくて『片付けるべきゴミ』として認識してるみたいね」

「冗談じゃない! いくら僕の魔力が学年平均(C)だからって、ルンバにゴミ扱いされる筋合いはない! というか、あの吸引口のサイズ、明らかに人間をミンチにする気満々じゃないか!」

『排除。排除。排除』

 巨大ルンバ・ゴーレムが、轟音を立てて突進してくる。

 僕は悲鳴を上げ、全力で倉庫の入り口へと向かってダッシュした。

「八代さん! 助けて! お姉さま! 僕の命と引き換えに、明日から学食のパシリに加えて肩揉み券も進呈するから!!」

「……本当に情けない男ね」

 背後で、八代ルイの呆れ果てたような、しかしどこか楽しげな声が聞こえた。

「【第四種・局所重力崩壊グラビティ・プレス】」

 指先一つ。ただそれだけの動作。

 次の瞬間、僕を追いかけていた巨大ルンバの真上に、目に見えない巨大な鉄槌が振り下ろされたような衝撃が走った。

 グシャァァァァンッ!! という凄まじい金属音と共に、二メートルあったルンバは、厚さ五センチの鉄板のような状態に圧縮され、完全に沈黙した。

「……よし。これで粗大ゴミの片付けも完了ね」

 八代ルイは、空中で展開していたモップを優雅に手元に引き寄せながら、ドヤ顔で言い放った。

 僕はぺしゃんこになったゴーレムと、彼女の笑顔を交互に見比べた。

「……八代さん。君、この倉庫の備品であるゴーレムを完全にスクラップにしたね」

「向かってきたんだから正当防衛よ」

「社畜の担任が、それを経費の損失として許してくれると思うかい?」

「…………あ」

 僕たちは、静寂に包まれた倉庫の中で、顔を見合わせた。

 数分後。僕たちは「ゴーレムの修理代および倉庫の一部損壊」という名目で、さらに一週間の便所掃除という追加ペナルティを課されることになるのだが、それはまた別の話である。

 非日常の空間においても、僕の立ち位置はどこまで行っても「トラブルに巻き込まれるモブ」であり続けるらしい。

 僕はペチャンコのゴーレムを前に、深い、深い絶望のため息をついたのだった。

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