File No.19 ソルトの世界線に合ってないよ! イチさんの過去
「ボクの過去なんてどうでもいいんだけどさ」
新橋のアーケードを抜けた先に沙絵の店『愛』がある。
イチはまだ沙絵の記憶にあった。
そのため、イチが店の板前として働けないか尋ねることができた。
「うちはそこまで料理中心ではなかったけど」
沙絵はいつもの立ち姿で片肘に手をやりながら答えた。
「見せてもらった腕前じゃそこそこできそうだね……そんなお給金でいいのかな」
イチは武蔵野の不便なところにある古い木造アパートに一人である。
侘助の仮想能力が及ばなくなったいまは自立しなければいけないが、必要な金額は知れたものだった。
「板前なんて恐れ多いんで、下働きでいいんです」
「おやまあ、殊勝なこと」
沙絵はイチの採用を決めたようだ。
「お得意の毒舌はひかえめにお願いしますよ?」
イチは、山に登ったときに死んでもいいつもりだった。
積極的に命を断つ決意ではなかったが、現世に未練もなかった。
(自分のお店でサンジたちとやり合った毎日はちょっと楽しかったけど)
それより前に女衒、いまならスカウト、手配師か、そんな生業をつづけていた。
そこでは男も女も犯し、犯されていた。
そんなことも生易しいほど、日銭のために人を売る悪場所。
そこに落ちるまでにあったいろいろなことは、口に出せない。
むかし世話になった踊りの師匠が声をかけてくれた。
師匠は踊りを教えたりするだけでは足りないと、人に勧められて居酒屋を出店しようとしていた。
その店で焼き方を任され、イチは日の当たる場所に出ることができた。
慣れたころに店主をやってくれと言われた。オーナーでなく雇われの責任者だ。
(師匠が亡くなったとたんに昔のやばいほうの知り合いがくるとはね)
店を続けることはできなかった。
(お店に命をかけてたってわけでもないけど、なんだかもういいやって)
山の中腹まで登ったところに何か人の形をしたものがいて、それはまばたきする間にイチの因果を読んでいた。
「わたしが言うのもなんだが、よくこんなところへ来たな」
まだ爺の口調になっていない。
「疲れたからね、隠居するんだよ! 熊さんとでも暮らすよ」
「食われたいのだね、ではわたしがいただこう」
侘助が霊的存在から実体化していたのとは逆さで、イチは生きたまま半分霊化されてハツカネズミに姿を変えた。
だから侘助はイチを現世に還したのだ。
(いまさら死ぬ気もないし、じいさんが気にかけてたあの甘ちゃんたちを見てなきゃあ)
夜が腰を落ち着けて初夏の熱気が冷めかけたころ、『愛』を訪れる男女。
サンジと真紀だ。
「お邪魔します……あっ、ほんとにイチさんだ」
真紀が笑顔で入ってくる。
後ろに続いたサンジは怪訝な顔だ。
「ほんとにいたのかよ」
「お客様、当店では礼節をお守りいただきます」
真紀が吹き出した。
二人は小上がりの一つに並んで座った。
「イチさん、ほかのお客がくるまでお相手してあげて、ほどほどにね」
沙絵は煮物の鍋をみている。
イチが瓶のビール2本とお通しの載った盆を持ってきた。
丁寧に二人のビアタンを満たす。
「イチさんも」
「おそれいります」
乾杯が済んでイチが切り出した。
「お内裏さまみたいに並んでくれちゃって、結婚のご報告?」
サンジが頭を抱えた。
「いきなりそれかよ」
「こんな人イヤなんですけど」
真紀の裏切りにこめかみを押さえるサンジ。
「あとから香純くんがくるんだよ」
「そのために並んで席をあけてたわけ、サンジのくせに」
「これでカネとるのかよ」
真紀は罵り合うサンジとイチの頬がゆるんでいるのを見ていた。
8年ぶりのやり取りなのだった。
香純「ひさびさに あたし出番ない 作者のバカ」
明梨「季語も何もないです! 0点」




