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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 8:深紅の絨毯と、冒涜されたグラス~

 創業30周年を祝う華やかなパーティー会場のすぐ外で、拉致事件という凶悪犯罪が起きていた。


 先ほどまで静寂に包まれていた45階の廊下は、今や完全にパニック映画のワンシーンと化している。黒服のセキュリティスタッフたちがトランシーバーで怒号を飛ばし合い、少し離れたエレベーターホールでは、事態を察知して騒ぎ出したVIP客たちをホテルマンが必死に宥めていた。


「如月さん、警察が来る前にここを出た方がいいですよ!僕たちみたいな高校生がいたら絶対邪魔になりますし、事情聴取とかされたら面倒なことに……!」


 僕はリュックの肩紐を両手でギュッと握りしめ、小声で訴えかけた。


 僕の住む団地の近くでもたまにパトカーが止まることはあるが、『拉致現場』や『血痕』なんて、サスペンスドラマの中でしか見たことがない。関われば絶対に残りの休日が消滅するし、何より純粋に怖い。早く家に帰って、推しの彩華ちゃんの歌声でこの心臓のバクバクを上書きしたかった。


 だが、僕の切実な願いは、横に立つ令嬢の冷たい一瞥によって一秒で粉砕された。


「こんな極上の不条理を前にして尻尾を巻いて逃げるなど、鑑定士の恥じゃ。警察などという無粋な連中が土足で踏み荒らす前に、わしが直接『現場』を味わってやる」


「味わうって……如月さん、本気ですか!?相手はIT企業の社長を攫うようなプロの犯罪者ですよ!」


「だからどうした。わしは如月弦十郎の孫じゃぞ。このホテルの全権は、今この瞬間、わしにあると思え」


 如月さんはミッドナイトブルーのイブニングドレスの裾を優雅に翻し、規制線を張って立ち塞がっていたセキュリティチーフの前に進み出た。


「そこをどけ、チーフ。わしが直接現場を見る」


「お、お嬢様!それはいくらなんでも危険すぎます!すでに所轄の警察には通報済みで、間もなく到着するはずですから、どうか安全な別室へ……!」


「黙れ。お主ら無能な警備のせいで、我がグループの記念パーティーに泥を塗られたのじゃ。これ以上の失態を晒したくなければ、今すぐ道を空けよ」


 氷点下の声色と、有無を言わさぬ絶対的な威圧感。


 チーフは一瞬言葉に詰まり、そして諦めたように道を開けた。大の大人、しかも警備のプロが、ただの女子高生(見た目はお姫様だが)の気迫に完全に押し負けたのだ。


 如月さんは堂々と規制線を越え、廊下の突き当たりにある非常階段への重厚な鉄扉を開けた。僕はため息をつきながら、チーフの痛いほどの視線を背中に浴びつつ、小走りで彼女の後を追うしかなかった。


 非常階段の踊り場は、ホテルの華やかな空調管理から切り離され、少しひんやりとした空気が漂っていた。


 コンクリートむき出しの床に、それはあった。


「うわ……」


 僕は思わず口元を覆い、後ずさった。


 床には、赤黒い液体のシミがべったりと広がっていた。まだ完全に乾ききっておらず、薄暗い非常灯の光を鈍く反射している。血だ。テレビで見るような赤い絵の具じゃない、本物の人間の血の生々しい匂いが、鉄錆のように鼻腔を突く。


 そしてその血だまりのすぐ横には、無残に叩き割られた黒いスマートフォンが転がっていた。


「ほう。なるほどな」


 如月さんは血を見ても顔色一つ変えず、ドレスの隠しポケットから純白の薄手の手袋を取り出し、両手にはめた。そして、床に膝をつくのも厭わず、割れたスマホのすぐ近くまで顔を近づけた。


「如月さん!触っちゃダメですよ、指紋とか消えちゃいますって!デジタル機器の解析なら、後で警察の科捜研がやってくれますから!」


「黙れサクタロウ。お主はデジタルに頼りすぎじゃ。データなどという脆弱なものは、物理的な破壊には勝てん」


 如月さんは手袋越しの指先で、スマホの破片をそっと持ち上げた。


「よく見よ。画面が割れているだけではない。基盤の中心部、フラッシュメモリが搭載されているチップのど真ん中を、先のとがった硬い工具……おそらくはチタン製のポンチのようなもので、正確に一撃で貫通させておる。ただの腹いせで踏みつけたような壊し方ではない。明確に『データの復元を不可能にする』ためのプロの破壊工作じゃ」


 僕は恐る恐るスマホの残骸を覗き込んだ。


 確かに、背面から画面に向かって、まるで銃弾で撃ち抜かれたような小さな穴が開き、中の精密な基盤が見事に粉砕されていた。僕の自作PCの知識から見ても、これではストレージからのデータ抽出は絶望的だ。


「じゃあ、この西園寺って社長のスマホの中に、犯人にとって都合の悪いデータが入っていたってことですか?」


「十中八九そうじゃろうな。拉致の目的は身代金ではなく、情報隠蔽か、口封じじゃ」


 如月さんはスマホの破片を元の位置に戻すと、今度は立ち上がって踊り場の空気を深く吸い込んだ。


「鉄錆の匂い。かすかな高級オーデコロン。……そして、クロロホルムのような麻酔薬の甘い揮発臭は一切しない。つまり、犯人はスタンガンなどの電気ショックか、物理的な打撃で西園寺の意識を奪い、出血させたまま引きずって逃げたということになる」


 如月さんは非常階段のさらに下へと続く薄暗い階段を見下ろした。


「チーフは西園寺が非常階段で襲われたと言っておったが、それは間違いじゃ」


「え? どうしてですか?」


「血の量が少なすぎる。大の大人が頭部からこれだけ出血したなら、この場に倒れ込んだ痕跡や、血飛沫の飛んだ跡が壁になければおかしい。この血だまりは、引きずられている途中に『一時的にここに降ろされた』時に垂れたものじゃ」


 如月さんはクルリと踵を返し、非常階段の鉄扉を開けて、再び45階の廊下へと戻った。


 彼女は、先ほどまであの『泥だらけのグラスとハニワ』が置かれていた、廊下の中央付近の深紅の絨毯を見つめた。


「サクタロウ。お主の目は節穴じゃから気づかなかったじゃろうが、この廊下の絨毯の色をよく見てみよ」


「絨毯の色?ええと、高級そうな真っ赤な絨毯ですけど……」


「左様。極めて深い、ワインレッドじゃ。この色ならば、赤い血が数滴落ちて染み込んだところで、肉眼ではほとんど判別できん。ホテルの設計者が汚れを目立たせないために選んだ実用的な色じゃが、皮肉なことに、拉致犯の血痕まで見事にカモフラージュしてしまったというわけじゃ」


 如月さんは絨毯の上に四つん這いになり、犬のように鼻を近づけた。ドレス姿の令嬢が四つん這いで床の匂いを嗅ぐ姿は異様だったが、今は彼女の真剣な横顔に圧倒されて、止めることすらできなかった。


「……ある。微かじゃが、鉄の匂いが点々と続いている。犯人はパーティー会場の入り口付近で西園寺を襲撃し、この廊下のど真ん中を引きずって、非常階段へと向かったのじゃ」


「じゃ、じゃあ、まさにあのハニワが置かれていた場所を、犯人は通ったってことですか!」


 僕が叫ぶと、如月さんは立ち上がり、僕のリュックのサイドポケットを指差した。


「サクタロウ。ハンカチに包んだグラスを出せ」


「はいっ」


 僕は慌ててリュックを下ろし、包みを取り出して如月さんに手渡した。


 彼女はアンティークのルーペを取り出し、泥だらけのグラスの表面を、舐め回すように観察し始めた。


 息が詰まるような数十秒の沈黙。


 やがて、如月さんの口角が、ゆっくりと、そして残酷に吊り上がった。


「やはりな」


「何か見つかったんですか?」


「サクタロウ、ここを見よ」


 彼女に促され、僕はルーペのレンズ越しにグラスの(リム)を覗き込んだ。


 三十年前の乾燥した赤土がこびりついている中に、ほんの一ミリにも満たない、小さな赤い液体の飛沫が付着していた。土の茶色とは明らかに違う、生々しい鮮血の赤。


「血だ……!ということは、犯人がここを通った時、すでに島田さんのハニワは置かれていたってことですか!?」


「その通りじゃ。島田の婆さんがハニワを置き、その直後に拉致犯が西園寺を引きずってここを通った。その際、西園寺の傷口から飛び散った血の数滴が、このグラスに付着したのじゃ。防犯カメラが切られていた数十分の間に、奇跡的な交差が起きたというわけじゃな」


 それは、まさにミステリー小説のような偶然の一致だった。


 僕は興奮して声を震わせた。


「すごい!これ、警察に渡せば立派な証拠になりますよ! 犯人の特定に繋がるかもしれないし、西園寺さんを助ける手がかりに……」


 しかし、如月さんは僕の言葉を遮り、冷ややかな瞳で僕を見下ろした。


「サクタロウ。勘違いするな。わしは西園寺というIT成金がどうなろうと知ったことではないし、正義の味方ごっこをして人助けをする趣味もない。事件の解決など、警察に任せておけばよい」


「えっ……?じゃあ、なんでこんなに一生懸命調べてるんですか?」


 僕が戸惑って尋ねると、如月さんはグラスについた小さな血痕を、まるで親の仇でも見るかのような鋭い眼光で睨みつけた。


「決まっておろう」


 彼女の声は、地を這うように低く、怒りに満ちていた。


「このグラスとハニワは、島田清子の三十年分の誇りと祈りが込められた、極上の『鑑定品』じゃ。それを、薄汚い犯罪の血で汚し、あまつさえわしの美学に泥を塗った。……この拉致犯の行為は、わしの鑑定に対する重大な冒涜じゃ」


 如月さんはグラスをハンカチで丁寧に包み直すと、自分のドレスの隠しポケットに深くしまい込んだ。


「西園寺はどうでもいい。だが、モノの尊厳を傷つける輩は、この如月瑠璃が絶対に許さん。サクタロウ、仕事の時間じゃ。わしの鑑定品を汚した不届き者を、地の果てまで追い詰めて血祭りに上げてやるぞ」


 彼女の凄絶な笑みを見た瞬間、僕の背筋に今までで一番冷たい汗が流れ落ちた。


 犯人にとって最大の誤算は、監視カメラを切ったことでも、血痕を残したことでもない。


 この『モノへの執着』において一切の妥協を許さない、最悪の令嬢の怒りを買ってしまったことなのだと、僕はリュックを抱きしめながら確信した。僕の平和な休日は、今度こそ完全に終わりを告げたのだ。



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