第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 9:地下搬入口の轍と、鉛筆の魔術~
創業三十周年を祝う華やかなパーティー会場のすぐ外で、情報隠蔽、あるいは口封じを目的とした拉致という凶悪犯罪が起きていた。
先ほどまで完全な静寂に包まれていた四十五階の回廊は、今やパニック映画のワンシーンと化している。インカムを装着した黒服のセキュリティスタッフたちがトランシーバーで怒号を飛ばし合い、事態の異常性を察知して騒ぎ出したVIP客たちを、ホテルマンが必死に宥めていた。
遠くから、不吉なサイレンの音が近づいてくるのが聞こえる。
一つや二つではない。月見坂市の中心街を切り裂くように、何台ものパトカーがこのホテル・セレーネに向かって急行している音だ。
「如月さん、まずいです! 警察が来ちゃいますよ。僕たち、こんな非常階段でウロウロしてたら、絶対に第一発見者か容疑者として連行されますって!」
僕は非常階段の踊り場で、リュックの肩紐を握りしめながら半泣きで訴えた。
足元には、拉致された西園寺社長の生々しい血だまりと、無残に物理破壊されたスマートフォンの残骸がある。こんな場所にパーカー姿の高校生と、イブニングドレスの令嬢がいるなんて、どう言い訳しても警察というシステムに論理的に説明できるわけがない。僕の平穏な日常が、エラー音を立てて崩れ去っていくのが分かった。
「騒ぐな、サクタロウ。警察が到着してこの階の物理的封鎖を完了するまで、まだ五分は猶予がある。プロの捜査員が現場を荒らす前に、わしが犯人の『足跡』を鑑定するのじゃ」
如月さんはサイレンの音など全く意に介さず、血だまりの周囲をぐるぐると歩き回っていた。
彼女の視線は、西園寺社長の血痕から、非常階段のさらに下へと続くコンクリートの段差に向けられている。
「よく見よ。血の滴りは、この踊り場を起点にして、下の階へと点々と続いておる。犯人は西園寺の意識を奪い、ストレージを物理破壊した後、彼を担ぐか引きずるかして階段を降りたのじゃ」
「じゃあ、このまま一階まで非常階段で降りたってことですか? 大人の男の人を一人抱えて、四十五階分も階段を降りるなんて、カロリー消費と時間の観点からいって非効率すぎませんか」
僕が指摘すると、如月さんは満足げに頷いた。
「左様。犯人も馬鹿ではない。監視カメラの死角を利用してここまで運んだが、ここから先は『別の運搬手段』を使ったはずじゃ。ついてこい」
彼女は迷うことなく、非常階段を下へと降り始めた。
ミッドナイトブルーのドレスの裾を持ち上げ、ヒールで器用に階段を降りていく背中を、僕は慌てて追いかける。一段降りるごとに、血の生臭い匂いが微かに鼻を掠め、僕は胃酸がせり上がってくるのを必死に堪えた。
一つ下の階。四十四階の踊り場。
如月さんの足がピタリと止まった。
「やはりな。血痕の物理的連続性はここで途切れておる」
彼女の指差す先を見ると、確かにコンクリートの床に落ちていた赤いシミは、四十四階の非常扉の前でプツリと消滅していた。
如月さんは重厚な鉄扉のハンドルに手をかけ、体重をかけて押し開けた。
そこは、先ほどの煌びやかな四十五階とは全く異なる、無機質な空間だった。僕が先ほどダクトから這い出てきた、あの裏方のフロアだ。
蛍光灯の冷たい光に照らされた、グレーの壁とリノリウムの床。壁沿いにはリネン類を運ぶための巨大なワゴンや、清掃用の機材が整然と並べられている。
「ここは、従業員専用のバックヤードじゃな。客室フロアの真下にある、ホテル機能の心臓部の一つじゃ。今は上の階のパーティーに全スタッフが駆り出されておるから、人員のリソースは空というわけじゃ」
如月さんはリノリウムの床にしゃがみ込み、再び犬のように顔を近づけた。
僕も恐る恐る彼女の隣にしゃがみ込む。
「如月さん、血の跡なんてどこにもありませんよ。犯人はどうやって西園寺さんを運んだんですか?」
「サクタロウ、デジタル機器の高解像度ディスプレイばかり見ているから、現実の物理的な痕跡のコントラストを見落とすのじゃ。床の光の反射角を変えて、よく見てみよ」
僕は言われた通りに頭の位置を下げ、蛍光灯の光が床に反射する角度を探った。
すると、グレーの無機質な床に、うっすらと二本の『線』が走っているのが見えた。
「これは、タイヤの跡? 車輪の摩擦痕ですか?」
「うむ。清掃用のワゴンか、あるいはリネン類を回収する大型のランドリーカートの車輪の跡じゃ。硬度からいって、ウレタン製キャスターの痕跡じゃな。犯人はこの四十四階の非常口にあらかじめ空のカートを配置しておき、階段から降ろしてきた西園寺をその中に押し込んだのじゃ。そうすれば、血が床に落ちることもないし、ただの業務用の荷物として視覚的にカモフラージュできる」
如月さんは立ち上がり、車輪の跡が向かっている先を見据えた。その視線の先には、従業員専用の大型サービスエレベーターの扉があった。
「犯人はあのエレベーターを使って、一気に下まで降りたようじゃな」
「待ってください、如月さん。サービスエレベーターの中には絶対に防犯カメラのシステムが常時稼働してますよ! 犯人もそれは分かっているはずだから、映像データに確実に残っちゃいますよね?」
僕は自分の得意分野であるネットワークの知識を総動員して反論した。
「ホテル全体のシステムをハッキングして全部のカメラを落とすなんて、スーパーハッカーでもなきゃ不可能です。四十五階のスタンドアロンに近いカメラ一つを切るのとはワケが違うんですから」
「お主の言う通りじゃ。エレベーターのカメラは生きておるじゃろうな」
如月さんは涼しい顔でエレベーターの下降ボタンを押した。
「だが、犯人はホテルの従業員に物理的に変装してカートを押していたはずじゃ。帽子を目深に被り、マスクでもしていれば、低解像度の監視カメラ映像から顔認証アルゴリズムでの個人の特定は極めて困難になる。そして、積んであるのがホテルの備品カートであれば、すれ違った他の従業員も『ただの業務中のスタッフ』としか認識しない」
到着したサービスエレベーターの巨大な扉が開き、僕たちは中に乗り込んだ。
壁には傷防止のフェルトマットが張られ、天井の隅には、僕の指摘した通りドーム型のIPカメラが赤いランプを点滅させ、正常なパケット通信を行っていることを示していた。
「一階のロビーには行かんぞ。警察というノイズがウジャウジャおるからな」
如月さんは行き先ボタンの最下段、『B2』を押した。
「地下二階。ホテルの納品業者や清掃業者のトラックが出入りする、地下の搬入口じゃ。犯人が逃走用の車両を手配しているとすれば、物理的導線から考えてそこしかない」
エレベーターが重々しい音を立てて下降していく。
僕はリュックを下ろし、中から自分のタブレットを取り出そうとした。
「如月さん、一応僕のタブレットで、ホテルのWi-Fi経由で駐車場のゲートの出入庫記録にアクセスできないか試してみましょうか? 車のナンバープレートの文字列さえ分かれば」
「不要じゃ。そんなハッキング紛いのことをしなくても、物理的な現物が必ず答えを教えてくれる。わしのアナログな鑑定眼を信じよ」
彼女は僕の提案をピシャリと撥ね付けた。
この人は基本的にはデジタルの仮想データを信用していない。あくまで自分の五感と、現場に残された物理的な痕跡だけで犯人を追い詰めるつもりのようだ。
地下二階に到着し、扉が開いた。
そこは薄暗く、広大な地下駐車場と搬入口が一体となった空間だった。僕が先ほどまでライブ映像を見て待機していた場所だ。
ディーゼルエンジンの排気ガスの匂い、業務用の塩素系洗剤の匂い、そしてひんやりとしたコンクリートの匂いが混ざり合っている。
数台の保冷トラックやリネン業者のバンが停まっており、数人の作業員が忙しそうに荷物の積み下ろしをしていた。警察の騒ぎはまだこの地下までは届いていないようだ。
「さて、犯人の残した『抜け殻』を探すぞ」
如月さんはミッドナイトブルーのドレス姿のまま、薄暗い駐車場の隅々へと歩き出した。
僕は作業員たちに怪しまれないように、なるべく柱の陰に隠れながら彼女の後を追う。
「如月さん、抜け殻って、あの西園寺さんを運んだカートのことですか? でも、あんなのそのまま車に積んで持っていったんじゃ」
「違うな。ホテルの大型カートはスチール製で数十キロの質量はある。バンや乗用車に積み込むには重すぎるし、何より容積的に目立ちすぎる。必ずこの搬入口のどこかで、西園寺を車に移し替えて、カートのハードウェアだけを乗り捨てているはずじゃ」
彼女の予測は、五分も経たないうちに的中した。
搬入口の最も奥、使われていない段ボールの山の陰に、一台の巨大なランドリーカートがひっそりと放置されていたのだ。
ホテルのシーツやタオルを大量に回収するための、青い厚手のキャンバス地で作られた深い袋が金属フレームに取り付けられているタイプだ。
「これじゃな」
如月さんは白手袋をした手で、カートの金属フレームに触れた。
「サクタロウ、ライトで照らせ」
僕はスマホのライトを点灯させ、青い布袋の内側を照らし出した。
袋の底に、べったりとした赤黒いシミが広がっているのが見えた。間違いなく、西園寺社長の血だ。
「ビンゴですね。でも、ここから先はどうするんですか? 犯人はもう車で逃走経路に入った後ですよ。車のタイヤの跡なんて、この地下駐車場じゃ無数にあって見分けがつかないし」
僕が弱音を吐くと、如月さんはカートの周囲を舐めるように観察し始めた。
彼女の視線が、ウレタン製キャスターのすぐ横、コンクリートの床に落ちていた『一枚の紙切れ』で止まった。
「ほう。これは面白い物理データを落としていったな」
如月さんはその紙切れを拾い上げた。
僕も横から覗き込む。
それは、ごく一般的な宅配業者や配送業者が使う『複写式の配送伝票』の、一番上の控えの紙だった。しかし、宛名や住所の欄には何もインクで書かれていない。完全に白紙の伝票だ。
「ただの白紙のゴミじゃないですか。業者の人が落としたんでしょ」
「ただのゴミではない。よく見よ。紙の端が少し血で汚れておる。犯人が西園寺をカートから車に移す際、ポケットから落としたものじゃ。犯人は配送業者の制服を着て、この地下搬入口に堂々と車を停めていたのじゃろう」
如月さんは白紙の伝票を、光の当たる場所へと持っていった。
「犯人は直前まで、この伝票の上に別の紙を重ねて、何かを強い筆圧で書き込んでいたようじゃな。インクは下の紙には写っていないが、ペン先の物理的な『凹み』だけが、この白紙の伝票に残留しておる」
「凹み? あ、本当だ。光に透かすと、微かに文字の形に紙の繊維が塑性変形してますね」
僕は感心して声を上げた。しかし、肉眼でそれを完全に解読するのは不可能に近い。
「でも如月さん、これじゃ読めませんよ。警察の科捜研なら、特殊な光学スキャナーで読み取れるかもしれないけど」
「だから警察には渡さんと言っておろう。そんな高価な機械などなくても、昔から伝わるアナログな魔法がある」
如月さんは僕に向かって、スッと右手を差し出した。
「サクタロウ。お主のリュックの中に、パソコンの配線図を描くための製図用シャーペンがあったな。それを貸せ」
「え? ステッドラーのシャーペンですか? はい、持ってますけど」
僕はリュックのサイドポケットを探り、芯の太い製図用のシャープペンシルを取り出して彼女に手渡した。
「よく見ておれ。これが真の鑑定士の物理的復元技術じゃ」
如月さんは近くにあったコンクリートの柱の平らな部分に白紙の伝票を押し当て、シャープペンシルの芯を長く出した。
そして、芯の『腹』の部分を使って、紙の表面を優しく、しかし均等な力で薄く擦り始めたのだ。
サッサッサッ、と黒鉛が紙を滑る音が地下駐車場に響く。
僕は息を呑んでその光景を見つめた。
シャープペンシルの黒鉛が、紙の表面の平らな部分にだけ付着していく。そして、ペンの筆圧で『凹んでいる』部分には黒鉛が届かず、白い文字として見事に浮かび上がってきたのだ。
「復元完了じゃ」
数秒の作業で、白紙だった伝票には、黒い背景の中に白い文字がくっきりと浮かび上がっていた。
『月見坂市 港区 臨海倉庫街 第四ブロック 旧・如月海運倉庫』
浮かび上がったその住所を見て、僕は絶句した。
「臨海倉庫街。如月海運倉庫って、如月さんのグループ会社の持ち物の休眠資産じゃないですか!」
「左様。今は使われていない廃倉庫じゃ。犯人は事前にこの廃倉庫をアジトとして設定し、カーナビか何かに住所を物理的にメモしていたのじゃろう」
如月さんはシャープペンシルを僕に返し、浮かび上がった住所が書かれた伝票を、懐中時計の隣に丁寧にしまった。
「完璧じゃ。犯人の逃走先となる物理座標は割れた。拉致の目的は知らんが、わしの極上の鑑定品である『祝杯のハニワ』と『泥だらけのグラス』を血で汚した罪、きっちりと払わせてやる」
彼女はドレスの裾を翻し、地下駐車場のさらに奥、VIP専用の駐車スペースへと向かって歩き出した。
その足取りには一切の迷いがない。警察というシステムを待つつもりなど微塵もないのだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! まさか僕たちだけでその廃倉庫に乗り込む気ですか!? 相手はIT社長を拉致するような凶悪犯ですよ! 殺されますって!」
僕は泣きそうになりながら、彼女の背中に向かって叫んだ。
いくらなんでも、高校生二人が拉致犯のアジトに乗り込むなんて、生存確率を無視した正気の沙汰ではない。
「殺されはせん。わしには最強の『物理ファイアウォール』がおるからな」
「盾って、誰のことですか!?」
「決まっておろう。わしの我儘に二十四時間付き合わされている、哀れで優秀な番犬たちじゃ」
如月さんがVIPスペースの前に立つと、そこに停まっていた漆黒のリムジンの後部ドアが開き、ダークスーツに身を包んだ大柄な男たちが数人、弾かれたように飛び出してきた。
彼らは如月コンツェルンの専属ボディガードだ。先頭に立つのは、筋骨隆々のリーダー格の男。
「瑠璃お嬢様! ずっとお待ちしておりました! 上の階で警察騒ぎが起きていると聞き、お迎えに上がろうとしていたところで……」
「黒田。長ったらしい口上はよい。すぐに出るぞ」
如月さんは黒田さんの言葉を無慈悲に遮り、リムジンのふかふかなシートに乗り込んだ。
「行き先は港区の旧・如月海運倉庫じゃ。犯人はすでにそこへ向かっている。追いつき次第、お主らが物理的に制圧せよ。わしのコレクションを汚した不届き者に、如月家の警備システムの恐ろしさを叩き込んでやるのじゃ」
「はっ……!? 犯人制圧、ですか? しかしお嬢様、それは警察の管轄では……」
「わしの命令が聞けんのか」
如月さんの氷のように冷たい一瞥を受け、黒田さんは「ヒッ」と短く息を呑み、直立不動で頭を下げた。
「も、申し訳ございません! 直ちに急行いたします!」
黒田さんはインカムで他の車両にも戦術的な指示を飛ばし始めた。
僕はその光景を見ながら、不憫な黒田さんたちに心の中で深く同情した。如月さんに理不尽に振り回され、論理的常識の通用しない命令を下されるのは、決して僕一人ではないのだ。彼女に関わった大人たちは皆、こうして胃薬を手放せない人生を送ることになる。
「サクタロウ。お主は何を突っ立っておる。早く乗れ」
リムジンの窓が開き、如月さんが不機嫌そうに僕を急かした。
「えっ、僕も行くんですか!? ボディーガードの人たちがいるなら、僕はもう帰っても……」
「愚か者。お主はわしの助手じゃろうが。それに、現場でデジタル機器の解析が必要になった時、この脳筋どもでは役に立たん。お主の愛車であるその錆びた自転車は、後続の警備車両に積んで運ばせる」
有無を言わさぬ命令に、僕は重いため息をついた。
反抗する気力すら残っていない。僕は諦めて、高級なリムジンの後部座席へと体を滑り込ませた。
ドアが重厚な音を立てて閉まり、黒塗りの車列が、サイレンの鳴り響くホテルから密かに滑り出していく。僕の平和な休日は完全に終わりを告げ、代わりに、最悪の鑑定令嬢と最強の番犬たちと共に凶悪犯のアジトへと突撃するという、命懸けのドライブが幕を開けた。




