第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 10:捜査本部の熱狂と、廃倉庫の令嬢~
この国の首都機能を有する巨大メガロポリス、月見坂市。
その中枢エリアに威風堂々とそびえ立つ警視庁本庁舎の刑事部捜査一課フロアは、突如として舞い込んだ大事件の凶報によって、蜂の巣をつついたような怒号と喧騒に包まれていた。
「管内の港区にあるホテル・セレーネで拉致事件発生!被害者はIT企業『サイバーエッジ』の西園寺文孝社長!」
「非常階段に大量の血痕あり!犯行グループは複数名、ホテルの備品である大型ランドリーカートに被害者を隠し、地下搬入口から用意していた車両を使って逃走した模様!月見坂市内の全署に緊急配備を要請!」
次々と飛び交う報告の中、フロアの一角に急遽設置された特別捜査本部のホワイトボード前で、一人の若い刑事が熱弁を振るっていた。
警視庁捜査一課、巡査部長の神宮寺海斗(じんぐうじ かいと)、二十六歳。
仕立ての良いネイビースーツを隙なく着こなし、まるでファッション雑誌のモデルのように整った顔立ちをした彼は、そのスマートな外見に似合わず、誰よりも熱く、そして暑苦しいほどの正義感に燃える男だった。
「皆さん、聞いてください!被害者の西園寺社長は頭部から出血しており、一刻を争う事態です!犯人は白昼堂々、月見坂市の顔とも言えるホテルのパーティー会場からターゲットを連れ去るという、我々警察機構を根底から愚弄する極めて悪質な手口を使っています。このような巨悪の暴挙、善良な市民を脅かす卑劣な犯罪を、私は絶対に許しません!」
神宮寺刑事の力強い声が、フロアの喧騒を切り裂いて響き渡る。彼の瞳は、悪を討ち滅ぼさんとする純粋な使命感で、文字通りギラギラと発光しているかのようだった。
「まずは所轄の月見坂中央署と連携し、ホテル周辺の防犯カメラ映像とNシステムの通過記録を徹底的に洗い出します。同時に、西園寺社長の私用車に密かに取り付けておいたGPSの発信履歴を確認し、逃走車両のルートをサイバー犯罪対策課と共同で追跡します!」
「おい海斗、少し落ち着け。ホワイトボードのマーカーを力一杯握り潰す気か」
熱弁を遮ったのは、くたびれたトレンチコートを着た中年の刑事、瀬田明彦警部補だった。
無精髭を生やし、いかにも叩き上げのベテランといった風貌の瀬田は、後輩の暴走気味な正義感に呆れたように頭を掻いた。
「お前が正義感に燃えるのは勝手だが、まだ初動捜査の段階だ。まずは落ち着いて、現場の鑑識結果と不審車両の絞り込みから確実に進めるぞ。相手はプロの半グレ集団の可能性が高い。焦って証拠を取りこぼせば、被害者の命に関わる」
「分かっています、瀬田先輩!だからこそ、我々が持てる全ての最新技術と人員を投入し、一秒でも早く彼らのアジトを特定しなければならないのです!私の直感が告げています、この事件は我々捜査一課の誇りにかけて、必ずや今日中に解決してみせると!」
神宮寺刑事は胸を張り、フロアにいる全捜査員を鼓舞するように力強く宣言した。
巨大都市の治安を守る精鋭部隊が、最新鋭のデジタル機器と組織力を駆使して、凶悪な拉致犯を追い詰めるための巨大な歯車を回し始めた瞬間だった。彼らはまだ知る由もなかった。この大掛かりな捜査本部が、数十分後には完全に空振りに終わる運命にあるということを。
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警察が防犯カメラの映像解析を始めた頃。
月見坂市の臨海地区にある旧・海運倉庫の前に、漆黒の巨大なリムジンが音もなく滑り込んだ。
車内は完全な防音仕様になっており、外の風切り音さえ聞こえない。ふかふかの革張りシートに沈み込む僕の隣では、如月さんがシャンパングラスを傾けるような優雅な姿勢で、窓の外の暗闇を見つめている。
前後を走る護衛の黒塗り車両との無線通信だけが、チリチリと無機質な音を立てていた。
「もうすぐ第四ブロック、旧・如月海運倉庫に到着します」
助手席に座るボディガードの黒田さんが、インカムを押さえながら後部座席に報告した。彼の声には、実戦を前にした猛獣のような低い緊張感が漂っている。
「包囲網を敷け。ネズミ一匹逃がすなよ」
如月さんが短く命じると、黒田さんは「はっ」と短く応えた。
僕は生きた心地がしなかった。誘拐犯のアジトに突入するなんて、いくらプロのボディガードが一緒でも正気の沙汰ではない。僕はリュックを胸に抱きかかえ、推しの彩華ちゃんのアクリルキーホルダーを御守りのように強く握りしめた。休日の午後に推しのライブDVDを見ていたはずなのに、なぜ凶悪犯罪の現場にカチコミをかける羽目になっているのだろうか。
車列が急ブレーキをかけ、荒れたアスファルトの上でタイヤが悲鳴を上げた。
どうやら目的地に到着したらしい。窓の外には、潮風に晒されて赤茶色に錆びついた巨大なトタン屋根の倉庫群が、不気味なシルエットを作って立ち並んでいる。
「お嬢様、周囲のクリアリングが完了するまで車内でお待ちを」
「不要じゃ。わしの獲物を誰にも触らせるな」
黒田さんの制止を無視し、如月さんは自らドアを開けて外へと降り立った。
海の匂いと、古い鉄の匂いが鼻を突く。僕も震える足に鞭を打ち、彼女の後を追ってリムジンの外へと出た。
巨大な倉庫のシャッターは固く閉ざされていたが、その横にある小さな通用口のドアは、鍵がこじ開けられた跡があった。犯人たちがそこから侵入したのは間違いない。
黒田さんたち数人の屈強なボディガードが、無言のまま陣形を組み、通用口のドアの前に立つ。彼らは拳銃こそ持っていないものの、特殊警棒を構えたその姿は、本職の特殊部隊にしか見えなかった。
「開けろ」
如月さんの冷酷な命令と共に、黒田さんが強烈な前蹴りで通用口のドアを蹴り破った。
轟音と共にドアが内側へ吹き飛び、僕たちは倉庫の内部へと足を踏み入れた。
広大な廃倉庫の中は、埃とカビの匂いが充満していた。
天井から吊るされた裸電球が、空間の中央だけを薄暗く照らしている。そこには、予想通り拉致犯たちの姿があった。
作業着姿の粗暴そうな男が三人。彼らは金属バットや鉄パイプを手に持ち、床に転がされた人物を囲んで何かを喚き散らしていた。
床で縛られているのは、仕立ての良いスーツを泥と血で汚した若い男だ。頭部から血を流しており、意識が朦朧としているようだが、彼がIT企業『サイバーエッジ』の西園寺文孝社長に違いなかった。
「なんだテメェら!どこから入り込みやがった!」
突然の侵入者に、鉄パイプを持ったリーダー格の男が怒声を上げた。
薄暗い倉庫の中で、黒スーツの巨漢たちを引き連れ、ミッドナイトブルーのイブニングドレスを着た少女が現れたのだ。犯人たちからすれば、警察の突入よりも遥かに意味不明で不気味な光景だったに違いない。
「お、お前ら、警察か!?それとも西園寺の会社の連中か!」
別の男が金属バットを構えながら後ずさる。
彼らの動揺をよそに、如月さんはカツン、カツンとヒールの音を響かせながら、ゆっくりと前へ進み出た。彼女の背後には黒田さんたちが壁のように立ち塞がり、僕はそのさらに後ろでリュックを盾にするように縮こまっている。
「警察でも会社の人間でもない。わしはただの鑑定士じゃよ」
如月さんは、怯える男たちを見下すように冷ややかに言い放った。
「お主らがこの小賢しいIT社長を誘拐した理由など、わしはどうでもいい。会社の乗っ取りか、裏金の要求か、そんな三流の犯罪ドラマには一ミリも興味はないのじゃ」
「あぁ!?だったら何しにこんな所まで来やがったんだ、お嬢ちゃんよぉ!」
リーダー格の男が虚勢を張って怒鳴るが、如月さんの纏う絶対的な威圧感の前に、その声は微かに震えていた。
「わしがわざわざこんな埃っぽい場所まで足を運んだ理由は、ただ一つ」
如月さんは、ドレスの隠しポケットから、ハンカチに包まれた『泥だらけのグラス』をゆっくりと取り出した。
裸電球の光に照らされたそのグラスの縁には、拉致の際に西園寺社長から飛び散った、生々しい血痕がほんの僅かにこびりついている。
「このグラスと、この中に入っていたハニワはな。一人の清掃員が三十年という歳月をかけて磨き上げた、誇りと祈りの結晶じゃ。わしが見出した極上のルーツを持つ、至高の鑑定品なんじゃよ」
彼女の瞳に、今日一番の、そして最も危険な怒りの炎が燃え上がった。
「それを、お主らのような薄汚い底辺の犯罪者が、自分たちの逃走ルートを作るためだけに防犯カメラを切り、あまつさえこの美しいグラスを血で汚した。これは、わしの美学に対する重大な冒涜じゃ。絶対に許すわけにはいかん」
犯人たちは、如月さんの言っている意味が全く理解できないという顔で顔を見合わせた。無理もない。人質の命を助けに来たわけではなく、ただの汚れたグラスに血がついたから怒り狂ってアジトに乗り込んできたなど、常人の理解を超えている。
「な、何言ってんだこいつ……。頭おかしいんじゃねえのか!」
「頭がおかしいのはお主らの方じゃ。モノの価値も分からぬ豚どもめ」
如月さんはグラスを再びポケットに丁寧にしまい込むと、背後に控える黒田さんたちに向かって、右手をスッと下ろした。
それは、容赦のない処刑の合図だった。
「黒田。やれ。こいつらに、モノの尊厳を傷つけた罪の重さを、その肉体に直接刻み込んでやるのじゃ」
「はっ!」
如月さんの号令と共に、黒田さんをはじめとするボディガード部隊が、一糸乱れぬ動きで拉致犯たちへと襲いかかった。
警察の捜査本部がまだ逃走ルートの会議をしている最中に、廃倉庫の中では、令嬢の逆鱗に触れた犯罪者たちの絶望的な悲鳴が響き渡ろうとしていた。




