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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 11:泥と血の土下座、そして捜査本部の終戦~

 如月さんの冷酷な号令が広大な廃倉庫に響き渡った直後、凄惨な、しかし一方的すぎる暴力のショーが幕を開けた。


 黒田さんをはじめとする五人のボディガードたちは、一切の無駄口を叩かず、音もなく犯人グループへと殺到した。彼らは如月コンツェルンが莫大な資金を投じて集めた、『元特殊部隊員』や『武術の達人』たちらしい。その動きは、素人の半グレが振り回す鉄パイプや金属バットなど、止まって見えるほどの速度と精密さを持っていた。


「なめるなァッ!」


 リーダー格の男が黒田さんの頭部を狙って鉄パイプをフルスイングする。


 だが、黒田さんは表情一つ変えずに半歩踏み込み、その腕を素手で絡め取った。骨が軋む嫌な音が響き、男の絶叫が倉庫のトタン屋根を震わせる。鉄パイプが床に落ちる前に、黒田さんの重い前蹴りが男の腹部にめり込み、巨体が『くの字』に折れ曲がって数メートル先まで吹き飛んだ。


 他の二人の犯人も同様だった。一人は背後から関節を極められて床に縫い付けられ、もう一人は顔面に掌底を食らって白目を剥き、崩れ落ちた。


 時間にして、わずか十秒足らず。


 警察の特殊部隊顔負けの制圧劇を前に、僕はリュックを盾にしたまま、開いた口が塞がらなかった。


「お嬢様、制圧完了いたしました。急所は外しておりますが、当分は動けないでしょう」


 黒田さんが乱れ一つないスーツの襟を正しながら、如月さんに向かって深く一礼する。


 床には、先ほどまでの威勢はどこへやら、呻き声を上げて芋虫のように転がる犯人たちの姿があった。彼らの手首と足首は、ボディガードたちが素早く取り出した結束バンドで、すでにキリキリと縛り上げられている。文字通りの簀巻き状態だ。


「ご苦労。相変わらず味気ない手際じゃが、わしのドレスに血が飛ばなかった点は評価してやろう」


 如月さんは満足げに頷き、床に転がるリーダー格の男を見下ろした。


「さて、コソ泥ども。お主らがこの小賢しいIT社長を誘拐した理由を一応聞いておこうか」


「がはっ、げほっ!ふ、ふざけんな!俺たちは雇われただけだ!」


 男は口の端から血を垂れ流しながら、憎々しげに如月さんを睨み上げた。


「この西園寺って野郎、うちの組織がフロント企業を使ってやってる暗号資産のマネーロンダリングの証拠を、自分の会社のサーバーに隠し持ってやがったんだよ!今日、あのパーティーのスピーチでそれをマスコミに公表する気だった。だから、その前に攫って口を割らせ、スマホのバックアップごとデータを完全に破壊するようにお偉いさんから指示されたんだ!」


 男の告白に、僕は思わず息を呑んだ。


 ただの営利誘拐ではなく、巨大な裏組織の存亡をかけた『口封じ』だったのだ。あの45階の非常階段でスマホが完全に破壊されていたのも、そういう理由だったのか。西園寺社長が握っていたデータは、それほどまでに危険な代物だったに違いない。


 僕は事の重大さに震え上がり、すぐにでも警察を呼んで引き渡すべきだと考えた。


「なるほど、暗号資産のロンダリングと組織犯罪か」


 如月さんは男の顔を真っ直ぐに見つめ返し、そして、心底つまらなそうに大きなため息をついた。


「欠伸が出るほど退屈な話じゃな。お主らの頭の悪さには反吐が出る」


「な、なんだと!」


「デジタルデータなどという、実態を持たない仮想空間の数字の移動を隠すために、わざわざ白昼堂々、現実世界で生身の人間を誘拐し、防犯カメラを切り、血を流した。しかもその過程で、この世に二つとない極上の鑑定品である『三十年目のグラス』を汚すという、万死に値する無教養を晒したのじゃ」


 如月さんはドレスのポケットから、あの泥だらけのグラスを取り出した。


 男たちは、目の前の少女が一体何を怒っているのか、本気で理解できないという絶望的な顔をしていた。裏社会の秘密より、たかが薄汚れたグラスの方が重罪だと言い切る人間など、彼らの人生で出会ったことがなかったのだろう。


「お主らがこの後、警察に引き渡されてどれだけ重い刑を科されようが、わしの知ったことではない。だがその前に、このグラスと、これを作った清掃員の誇りに対して、這いつくばって謝罪せよ。それが、わしの美学に対する落とし前じゃ」


 如月さんの絶対的な命令に、黒田さんたちが犯人の首根っこを掴み、無理やり床に額を擦り付けさせた。


 泥と血にまみれた土下座。


 巨大な犯罪組織の陰謀は、一人の令嬢の『モノへの執着』の前に、ただの迷惑行為として無惨に粉砕されたのだった。


**


 同じ頃。


 月見坂市の中枢にそびえる、警視庁本庁舎・刑事部捜査一課のフロア。


 西園寺文孝拉致事件の特別捜査本部は、事件発生から一時間が経過し、怒号と報告が飛び交う熱狂のピークに達していた。


「サイバー対策課から報告!西園寺社長の車両に取り付けたGPSの最終発信地は、臨海地区の第四ブロックと判明!」


「よし、所轄の機動隊をそちらへ急行させろ!犯人グループは武装している可能性が高い、絶対に油断するな!」


 ホワイトボードの前に立つ若き熱血刑事、神宮寺海斗は、次々と入る情報に目を輝かせていた。


 彼の頭の中では、警察の組織力と最新のテクノロジーが巨悪を追い詰め、人質を無事に救出する、完璧な正義のシナリオが完成しつつあった。


「瀬田先輩!今すぐ我々も現場へ急行しましょう!犯人たちは追いつめられ、自暴自棄になっている可能性があります。私が最前線で交渉、あるいは制圧の指揮を執ります!」


 神宮寺刑事は拳を握り締め、くたびれたトレンチコートの瀬田警部補に熱く訴えかけた。


その時、デスクの電話がけたたましい音を響かせた。


「はい、捜査1課。…………月見坂港の旧・如月海運倉庫?そこに犯人が。は?制圧済み?人質保護?いったいどういうことだ、所轄の機動隊が突入したのか??」


 瀬田警部補は受話器を耳に当てたまま、魂が抜けたような顔で宙を見つめていた。彼の表情が、数秒の間に『真剣』から『困惑』、そして『驚愕』へと目まぐるしく変わっていた。


 電話が切れ、ツーツーという電子音だけが虚しく響く。彼の手から受話器が滑り落ち、ガチャンと音を立てて本体に収まった。


「瀬田先輩、どうしたんですか!犯人のアジトが判明したんですか!?すぐに我々も突入班の編成をして、現場へ急行しなければ!」


 神宮寺刑事が身を乗り出して詰め寄る。


 しかし、瀬田警部補は力なく首を振り、信じられない言葉を口にした。


「事件、終わったらしいぞ」


「えっ?」


「現場に先着した所轄のパトカーからの報告だ。彼らが廃倉庫に到着した時には、すでに拉致犯三名が揃って結束バンドで簀巻きにされ、気絶して転がっていたそうだ。人質の西園寺社長も保護された。頭を割られて気を失っていたようだが、今は意識を取り戻して所轄の警官に事情を話しているらしい」


「す、簀巻き!?いったい誰がそんなことを!我々警視庁の精鋭部隊が現場に到着するよりも早く、凶悪な組織犯罪の実行犯を完全に制圧したというのですか!?」


 神宮寺刑事の驚きに満ちた問いに、瀬田警部補は重いため息をつき、手元のメモ帳を指で弾いた。


「西園寺社長の証言によれば、突入してきたのは黒スーツの巨漢たち……如月コンツェルンの私兵、専属ボディガード部隊だそうだ。そして、警察よりも早く犯人の逃走先を特定し、彼らに制圧の指示を出したのは、ドレス姿の少女……如月グループの令嬢、如月瑠璃だという話だ」


「如月令嬢!あの月見坂市を牛耳る大財閥の!」


 神宮寺刑事の目が、先ほどとは違う種類の強烈な光を帯びて輝き始めた。


「信じられません。我々がまだ防犯カメラの映像を手配し、GPSの解析を行っている段階で、どうやって逃走ルートを特定したのですか? まさか、如月グループの強大な資金力を背景に、独自の天才ハッカーチームを駆使して軍事衛星から追跡を!?」


「いや、それも西園寺社長が令嬢から直接聞いた話らしいんだが。なんでも、ホテルから消えた車のボンネットの熱や、倉庫の前に残された台車の車輪の跡、そして白紙の配送伝票に残された筆圧の凹みを鉛筆で擦り出した痕跡だけで、居場所をピンポイントで特定したらしい。拉致の動機も、そのお嬢様が犯人たちを締め上げて洗いざらい自白させたそうだ」


「なっ!」


 神宮寺刑事は、まるで雷に打たれたようにその場に硬直した。


 デジタルやハイテク機器に一切頼らず、純粋な人間の五感と圧倒的な観察眼だけで、巨大都市の警察機構による初動捜査を遥かに凌駕するスピードで事件を解決に導く。それは彼が幼い頃から思い描いていた『理想の名探偵』の姿そのものではないか。


「素晴らしい!なんて素晴らしい推理力と行動力なんだ! さすがはこの月見坂市の経済を支える如月グループの御令嬢。自らの身の危険を顧みず、正義のために真っ先に動き、巨大な裏組織の陰謀を打ち砕いて人命を救済するとは!」


「いや海斗、あそこのお嬢様がそんな殊勝な正義感で動くようなタマじゃねえ。西園寺の証言でも、しきりに『グラスがどうの』と怒っていたらしい。何か別の、個人的な目的があったとしか思えねえが」


「瀬田先輩!私は感動しました!このような類まれなる才能と、燃えるような正義感を持つ方が一般市民におられるとは。すぐに彼女に直接お会いして、警視庁としての深い感謝を伝えねばなりません。そして、今後の困難な捜査への協力も、ぜひ要請するべきです!」


「おい、話を聞けっての。勝手にスカウトに行く気か」


 瀬田警部補の制止も虚しく、神宮寺刑事はホワイトボードのマーカーを両手で力強く握りしめたまま、熱に浮かされたように『如月瑠璃』という名前をうわ言のように復唱していた。


 サイバー犯罪とマネーロンダリングという現代的な巨悪。それを、たった一つの泥だらけのグラスを守るために粉砕してしまった令嬢。


 神宮寺海斗という一途な天然ボケの熱血刑事が、この途方もない勘違いを抱えたまま、如月瑠璃という絶対君主に一方的なラブコールを送り続ける厄介な日々が、今まさに始まろうとしていた。



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