第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 12:黒塗りの帰還と、不純物の輝き~
遠くから、けたたましいパトカーのサイレンが複数、夜の港区に近づいてくる音が聞こえた。
旧・海運倉庫のトタン屋根の下では、全身を結束バンドで縛り上げられ、泥と自分の血にまみれて土下座させられている三人の半グレたちが、完全に戦意を喪失して気絶していた。
彼らのすぐ横には、頭部の出血を押さえながら呆然と座り込む西園寺文孝社長の姿がある。彼は、自分を救出した(正確には、ついでに助かっただけだが)ドレス姿の少女と黒スーツの巨漢たちの集団を、まるで幻覚でも見ているかのように見つめていた。
「お嬢様。所轄の警察車両が第一ブロックを通過しました。あと一分でここに到着します」
倉庫の入り口で警戒に当たっていた黒田さんが、インカムからの報告を受けて如月さんに告げた。
「潮時じゃな。警察どもと顔を合わせても、退屈極まりない事情聴取でわしの貴重な時間を無駄にするだけじゃ。ずらかるぞ」
如月さんは、ドレスのポケットに収めた極上の鑑定品である『泥だらけのグラス』をポンポンと軽く叩き、踵を返した。
僕も慌ててリュックを抱え直し、彼女の背中を追って倉庫の外へと飛び出す。
漆黒の巨大なリムジンのドアが開き、僕たちは滑り込むように後部座席へと乗り込んだ。重厚なドアが閉まり、外の騒音と潮風の匂いが完全に遮断される。
「車を出せ。まずはサクタロウを団地まで送り届けるのじゃ」
如月さんの容赦ない指示により、リムジンはパトカーの群れが到着する直前に、ヘッドライトを落としたまま音もなく現場を立ち去った。
月見坂市の煌びやかな夜景の中を、黒塗りの車列が静かに進んでいく。後続の警備車両には、僕の愛車であるギア変速すらない中古のシルバーチャリオット号が、屈強な男たちによって虚しく積み込まれているはずだ。まさか自分のボロ自転車が、如月コンツェルンの私兵に厳重に護衛されて家路につく日が来るとは夢にも思わなかった。
「はぁ。なんだか、とんでもなく長い一日でしたよ」
僕はふかふかの革張りシートに深く沈み込み、激しい疲労感と共に大きなため息をついた。
「結局、今日は楽しみにしていた『GyoGyoっとラブ』の周年記念ライブDVD、アンコールの途中で止めたまま、最後まで見られませんでした。平穏な休日の午後を返してほしい気分です」
僕が恨みがましく言うと、隣に座る如月さんはシャンパングラスでも傾けるような優雅な姿勢で、鼻で笑った。
「平面のアイドル偶像に現を抜かすより、遥かに刺激的で実りある休日じゃったろう。島田清子の三十年分の誇りという、極上のルーツを持つ本物のモノに出会えたのじゃからな」
彼女はハンカチに包んだハニワをそっと取り出し、車内の薄暗いフットライトの光に透かして見つめた。
三十年間、清掃員の婆さんが自分の仕事の誇りとして毎日磨き続けた土人形。そして、ホテルの底に眠っていた三十年前の赤土のグラス。
「確かに、あの清掃員の島田さんの話は、僕もちょっと感動しました。ただの不気味なゴミだと思っていたのに、あんな思いが込められていたなんて」
「モノの価値は、見た目の美しさや市場価格で決まるのではない。それがどこから来て、誰の手に渡り、どういう経緯でそこにあるのか。その『ルーツ』こそが、モノの真の輝きなんじゃよ」
如月さんのその言葉には、一切の迷いも偽りもなかった。
巨大な裏組織のマネーロンダリングや拉致事件という最悪のノイズが入ってしまったが、ホテルの裏側で密かに起きたあの三十年目の祝杯の美しさは、間違いなく本物だった。僕も少しだけ、彼女の言う『鑑定』の面白さが分かったような気がした。
やがてリムジンは、月見坂市の外れにある、僕の住む古びた市営団地の前に到着した。
深夜の団地に、大統領でも乗っていそうな超高級車と護衛車両が停まる光景は、完全に場違いでシュールだった。
黒スーツのボディガードたちが素早く降りてきて、トランクから僕のサビだらけの自転車を恭しく降ろしてくれる。僕は何度もペコペコと頭を下げながら、自転車を受け取った。
「それじゃあ如月さん。明日は日曜日だから、ゆっくり休んでくださいね。僕はDVDの続きを見ますから」
「わしに指図するな。気が向いたらまた呼び出してやるから、首を洗って待っておれ」
窓越しに冷たく言い捨てると、リムジンは静かに走り去っていった。
僕は残された自分の自転車を押し、誰もいない団地の階段を上りながら、ようやく取り戻した一人の時間に深く安堵したのだった。
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だが、その平穏はわずか数日しか持たなかった。
週明けの放課後。旧校舎の奥にある図書室で、僕は自分のリュックの三倍はある巨大な段ボール箱を前にして、頭を抱えていた。
「如月さん。これ、本当にどうするんですか」
窓際の一等地に陣取り、分厚い古書を読んでいる如月さんに抗議の声を上げる。
段ボール箱の中には、月見坂市警の公式マスコットキャラクター『ツキマロくん』の特大ぬいぐるみ、警察のロゴが入ったボールペンやクリアファイルの束、そして仰々しい金色の額縁に入った『感謝状』がぎっしりと詰まっていた。
「どうするも何も、お主にやると言っておろう。わしには不要なゴミじゃ」
如月さんは、ページから目を離さずに冷たく言い放った。
「ゴミって。これ、警視庁捜査一課からの正式な贈り物ですよ!?しかも、宛名は完全に『如月瑠璃殿』って書いてあるじゃないですか! ほら、この手紙だって!」
僕は箱の一番上に入っていた、便箋三枚にも及ぶ長文の手紙を広げた。
差出人は『警視庁捜査一課 巡査部長 神宮寺海斗』。
そこには、几帳面で力強い筆致で、驚くべき熱量の文章が綴られていた。
『如月瑠璃様。先日の西園寺社長拉致事件における貴女の類まれなる推理力と、人命を救わんとする勇敢な行動に、警視庁を代表して心よりの敬意と感謝を表します。デジタルに頼らず人間の五感を極限まで研ぎ澄ました貴女の捜査手法は、我々警察官が忘れてはならない真の正義の姿そのものでした。ぜひ今後とも、我々の捜査にご指導とご協力を賜りたく存じます。貴女のような名探偵と共に悪と戦える日を、心待ちにしております』
読み上げるだけで火傷しそうなほど暑苦しいラブコールだった。
「この神宮寺って刑事さん、如月さんのこと完全に『正義の味方の名探偵』だと思い込んでますよ。めっちゃ熱い人じゃないですか」
「反吐が出るわ。正義だの人命だの、悪と戦うだの、わしの最も嫌いな単語をこれでもかと並べ立ておって。警察という組織は、対象の『性質』を正しく鑑定する能力すらないらしいな。二度と関わりたくない輩じゃ」
如月さんは心底嫌そうに眉をひそめ、しっしっと手を振った。
「そんな無価値なものは、お主の部屋のオタクグッズの横にでも並べておけ。わしの視界に入れるな」
「無茶苦茶言わないでくださいよ!こんな特大のツキマロくんのぬいぐるみ、僕の狭い団地の部屋のどこに置くんですか!推しの彩華ちゃんのアクリルスタンドを並べるスペースがなくなっちゃいますよ!」
「ならば焼却炉にでも放り込め。全く、警察の連中はモノの価値というものを根本から履き違えておる。あんな量産品のぬいぐるみに、何一つ語るべきルーツなどないというのに」
如月さんはパタンと古書を閉じ、机の上に置いた。
そして、彼女は自分のスクールバッグから、あの『ピカピカのハニワ』を取り出し、図書室の窓から差し込む西日に透かして、親指の腹でゆっくりと撫で始めた。
その横顔は、誘拐犯を前にした時の冷酷な令嬢のものでも、僕を顎でこき使う高慢な主人のものでもなかった。
純粋に美しいもの、人の手によって途方もない時間をかけて磨き上げられた歴史の結晶を愛おしむ、ただの一人の鑑定士の顔だった。
「サクタロウ」
如月さんが、ハニワを見つめたまま静かに口を開いた。
「世の中には、あるべきではない場所に置かれた『不純物』が無数に存在しておる。多くの人間は、それをただのゴミだと見過ごすか、あるいは警察のように、正義という都合の良いフィルターを通してしか世界を見ようとせん」
「如月さん」
「だが、不純物には不純物なりの、そこにたどり着くまでの果てしない旅路があるのじゃ。泥にまみれ、血に汚れ、それでも失われなかった確かなルーツがな。……わしはこれからも、それを探し、鑑定し続ける。この目が黒い内は、どんな些細な矛盾も見逃すつもりはない」
彼女の宣言は、まるで自分自身に誓いを立てているかのように、静かで、しかし絶対的な重みを持っていた。
僕は改めて、目の前にいる同級生の恐ろしさと、底知れぬ魅力について考えた。
彼女に関われば、僕の平穏な日常は間違いなく破壊される。凶悪犯のアジトに乗り込む羽目になったり、警察の熱血刑事から押し付けられた特大のぬいぐるみを処理させられたり、ろくなことがない。
それでも。
この巨大な月見坂市の片隅で、誰にも気づかれずに消えていくはずだった『三十年目の祝杯』の物語を、彼女が見つけ出し、掬い上げてくれたことは事実なのだ。
ありえない場所にある、ありえないモノ。
その背後に隠された途方もないドラマを、特等席で見ることができるのなら。この理不尽な下僕生活も、少しだけなら我慢してやってもいいかもしれない。
「わかりましたよ」
僕は大きくため息をつき、自分の背丈ほどもあるツキマロくんのぬいぐるみを、よっこいしょと抱え上げた。
「とりあえず、このぬいぐるみは僕が持って帰ります。彩華ちゃんのアクスタの横に並べるのは嫌ですけど、まあ、部屋の隅っこにでも置いておきますよ。これも一応、僕たちが事件を解決した記念品みたいなものですしね」
「勝手にせよ。だが、間違ってもわしのコレクションの隣に並べるような真似は許さんぞ」
「しませんって。それより、帰ったら今度こそ絶対にDVDの続きを見ますからね。次に何か変なモノを見つけても、せめてアンコールが終わるまでは電話してこないでくださいよ」
僕のささやかな抵抗に、如月さんはフッと口角を上げ、再びハニワを磨き始めた。
夕焼けに染まる図書室の中、土人形はまるで彼女の想いに応えるかのように、鈍く、しかし確かな輝きを放っていた。
巨大な財閥の令嬢と、血の気の多い熱血刑事。どうやら僕の周りには、他人の都合を一切考慮しない自分勝手な人ばかりが集まってくる運命らしい。
僕は重すぎる段ボール箱とぬいぐるみを抱えながら、この巨大な荷物を自転車の前カゴにどうやって押し込むかを考え、絶望的な気分で図書室を後にした。
僕の平和な高校生活はもう戻ってこない。しかし、この街のどこかに新たな『不純物』が落ちている限り、僕と如月さんの奇妙な鑑定の旅は、きっとこれからも続いていくのだろう。




