第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 12:黒塗りの帰還と、不純物の輝き~
遠くから、不吉なサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。七百ヘルツと九百ヘルツの周波数が交互に鳴り響く、警察車両特有のけたたましい警鳴音。それが東京湾の冷たい潮風に乗ってドップラー効果を引き起こしながら、夜の港区へと急速に接近してくる。
旧・海運倉庫の赤茶けたトタン屋根の下では、工業用の強力な結束バンドで全身を縛り上げられ、泥と自分たちの血にまみれて土下座させられている三人の半グレたちが、完全に戦意を喪失して気絶していた。
彼らのすぐ横には、頭部の出血をハンカチで押さえながら呆然と座り込む西園寺文孝社長の姿がある。彼は、自分を救出した──正確には、モノの尊厳を守る過程でついでに助かっただけなのだが──ミッドナイトブルーのドレスを着た少女と、黒スーツの巨漢たちの集団を、まるで重度の脳震盪が見せる幻覚でも処理するように、焦点の定まらない目で見つめていた。
「お嬢様。所轄の警察車両が第一ブロックの交差点を通過しました。あと六十秒未満でこの座標に到着します」
倉庫の入り口でタクティカル・ライトを手に警戒に当たっていた黒田さんが、インカムからの報告を受けて如月さんに告げた。
「潮時じゃな。警察という名の想像力に欠けたシステムと顔を合わせても、退屈極まりない事情聴取でわしの貴重な時間を空費するだけじゃ。帰るぞ」
如月さんは、ドレスの隠しポケットに収めた極上の鑑定品である『泥だらけのグラス』と『ハニワ』の感触を外からポンポンと軽く確かめ、躊躇なく踵を返した。
僕も慌てて三十リットル容量の巨大なリュックを抱え直し、彼女の背中を追って埃っぽい倉庫の外へと飛び出す。
漆黒の巨大なリムジンの分厚い防弾ドアが開き、僕たちは滑り込むように後部座席へと乗り込んだ。重厚なドアが密閉音を立てて閉まり、外のサイレンの騒音と、潮風の酸化した匂いが完全に遮断される。車内はアクティブ・ノイズキャンセリング空間のように、耳鳴りがするほどの静寂に包まれた。
「車を出せ。まずはサクタロウを団地まで送り届けるのじゃ」
如月さんの容赦ない指示により、V型十二気筒エンジンを搭載したリムジンは、パトカーの群れが到着する数十秒前にヘッドライトを落としたまま、アスファルトを滑るように音もなく現場を立ち去った。
月見坂市の煌びやかな夜景、数億のLEDデバイスが放つ無機質な光の波の中を、黒塗りの車列が静かに進んでいく。後続の警備車両であるワンボックスカーの荷台には、僕の愛車であるギア変速すらない中古の自転車『シルバーチャリオット号』が、屈強な男たちによって虚しく積み込まれているはずだ。まさか自分のサビだらけのボロ自転車が、如月コンツェルンの私兵に厳重に護衛されて家路につく日が来るとは、今朝の時点では夢にも思わなかった。
「はぁ……。なんだか、とんでもなく長い、物理的にも精神的にも疲労度の高い一日でしたよ」
僕はふかふかの最高級レザーシートに深く沈み込み、激しい疲労感と共に大きなため息をついた。
「結局、今日は楽しみにしていた『GyoGyoっとラブ』の結成三周年記念ライブ映像、アンコールの途中で強制停止したまま、最後まで見られませんでした。僕の失われた休日の午後と精神的平穏を返してほしい気分です」
僕が恨みがましく言うと、隣に座る如月さんはシャンパングラスでも傾けるような優雅な姿勢で足を組み、鼻で笑った。
「平面のディスプレイの中で踊る、実態を持たない仮想のアイドル偶像に現を抜かすより、遥かに刺激的で実りある休日じゃったろう。島田清子の三十年分の摩擦と誇りという、極上のルーツを持つ本物の『モノ』に出会えたのじゃからな」
彼女はシルクのハンカチに包んだハニワをそっと取り出し、車内の薄暗いアンビエントライトの光に透かして見つめた。
三十年間、清掃員の老女が自分の仕事の誇りとして、毎日毎日親指の腹で磨き続けた素焼きの土人形。そして、巨大ホテルの底に眠っていた、三十年前の強アルカリ性の赤土を纏うバカラの特注グラス。
「確かに、あの清掃員の島田さんの話は、僕も少しだけ胸が熱くなりました。ただの不気味なゴミだと思っていたのに、あんな途方もない時間と質量が込められていたなんて」
「モノの価値は、表面的な美しさや、市場経済が弾き出す無機質な価格設定で決まるのではない。それがどこから来て、誰の手に渡り、どれほどの情動の熱量を帯びてそこにあるのか。その『ルーツ』こそが、モノの真の輝きなんじゃよ」
如月さんのその言葉には、一切の迷いも偽りもなかった。
巨大な裏組織のマネーロンダリングや、IT社長の拉致事件という最悪のノイズが入ってしまったが、ホテルの構造的死角の裏側で密かに起きた、あの三十年目の祝杯の美しさは、間違いなく本物の質量を持っていた。僕も今日一日で、彼女の言う『鑑定』という行為の異常なまでの引力が、少しだけ分かったような気がした。
やがてリムジンは、スマートシティである月見坂市の旧市街に取り残された、僕の住む古びた市営団地の前に到着した。
深夜の団地のひび割れたアスファルトの上に、国家元首でも乗っていそうな超高級車と護衛車両が停まる光景は、完全に場違いでシュールの極みだった。
黒スーツのボディガードたちが素早く降りてきて、トランクから僕のサビだらけの自転車を恭しく降ろしてくれる。僕は何度もペコペコと頭を下げながら、シルバーチャリオット号のハンドルを受け取った。
「それじゃあ如月さん。明日は日曜日だから、ゆっくり休んでくださいね。僕は今日見られなかった映像の続きを絶対に見ますから、通信を切っておきます」
「ふん。気が向いたらまた呼び出してやるから、常にガジェットのバッテリーを満充電にして首を洗って待っておれ」
防弾ガラスの窓越しに冷たく言い捨てると、リムジンは静かに、しかし圧倒的なトルクを感じさせる発進で走り去っていった。
僕は残された自分の自転車を押し、誰もいない団地のコンクリートの階段を上りながら、ようやく取り戻した一人の時間に深く安堵したのだった。
**
だが、その平穏な日常はわずか数日しか持たなかった。
週明けの放課後。如月学園の旧校舎の二階、一番奥にある図書室で、僕は自分のリュックの三倍はある巨大な段ボール箱を前にして、深く頭を抱えていた。
「如月さん。これ、本当にどうするつもりですか」
窓際の一等地に陣取り、分厚い羊皮紙の古書を読んでいる如月さんに抗議の声を上げる。
段ボール箱の中には、月見坂市警の公式マスコットキャラクター『ツキマロくん』の特大ぬいぐるみ、警察のロゴが入ったボールペンやクリアファイルの束、そして仰々しい金色の額縁に入れられた『感謝状』がぎっしりと詰まっていた。
「どうするも何も、お主にやると言っておろう。わしには一ミクロンの価値もない、ただの産業廃棄物じゃ」
如月さんは、古書のページから一切目を離さずに冷たく言い放った。
「産業廃棄物って。これ、警視庁からの正式な贈り物ですよ!? しかも、感謝状の宛名は完全に『如月瑠璃殿』って筆ペンで書いてあるじゃないですか! ほら、この手紙だって!」
僕は箱の一番上に入っていた、警察署のロゴ入り便箋三枚にも及ぶ長文の手紙を広げた。
差出人は『警視庁捜査一課 巡査部長 神宮寺海斗』。
そこには、万年筆の強い筆圧で紙が凹むほど几帳面に書かれた、驚くべき熱量の文章が綴られていた。
『如月瑠璃様。先日の西園寺社長拉致事件における貴女の類まれなる推理力と、人命を救わんとする勇敢な行動に、警視庁を代表して心よりの敬意と感謝を表します。デジタルに頼らず人間の五感を極限まで研ぎ澄ました貴女の捜査手法は、我々警察官が忘れてはならない真の正義の姿そのものでした。ぜひ今後とも、我々の困難な捜査にご指導とご協力を賜りたく存じます。貴女のような名探偵と共に悪と戦える日を、心待ちにしております』
読み上げるだけで脳のタンパク質が変性しそうなほど、暑苦しい勘違いのラブコールだった。
「この神宮寺って刑事さん、如月さんのこと完全に『正義の味方の名探偵』だと思い込んでますよ。警察のくせに、めっちゃ熱くて思い込みの激しい人じゃないですか」
「反吐が出るわ。正義だの人命だの、悪と戦うだの、わしの最も嫌いな抽象的単語をこれでもかと並べ立ておって。警察という巨大なシステムは、対象の『性質』を正しく鑑定する物理的観察眼すらないらしいな。二度と関わりたくない無粋な輩じゃ」
如月さんは心底嫌そうに整った眉をひそめ、シッシッと手袋越しの手を振った。
「そんな無価値なものは、お主の部屋の平面アイドルのオタクグッズの横にでも並べておけ。わしの視界に一秒でも入れるな」
「無茶苦茶言わないでくださいよ! こんな特大のツキマロくんのぬいぐるみ、僕の狭い団地の部屋のどこに置くんですか! 推しの彩華ちゃんのアクリルスタンドを並べる祭壇のスペースが侵食されちゃいますよ!」
「ならば焼却炉にでも放り込んで、二酸化炭素に還元せよ。全く、警察の連中はモノの価値というものを根本から履き違えておる。あんな工場で大量生産されたチープなポリエステル繊維の塊に、何一つ語るべきルーツなどないというのに」
如月さんはパタンと古書を閉じ、アンティークの机の上に置いた。
そして、彼女は自分のブレザーのポケットから、あの『ピカピカのハニワ』を取り出し、図書室の窓から差し込む西日に透かして、純白の手袋を外した素手の親指の腹で、ゆっくりと撫で始めた。
その横顔は、誘拐犯を前にした時の冷酷無比な令嬢のものでも、僕をアゴでこき使う高慢な主人のものでもなかった。
純粋に美しいもの、人の手によって三十年という途方もない時間をかけて磨き上げられた物理的摩擦の結晶を愛おしむ、ただの一人の鑑定士の顔だった。
「サクタロウ」
如月さんが、ハニワを見つめたまま静かに口を開いた。
「世の中には、完璧に計算されたシステムの中に、あるべきではない場所に置かれた『不純物』が無数に存在しておる。多くの人間は、それをただのエラーやゴミだと見過ごすか、あるいはあの警察のように、正義という都合の良い思い込みのフィルターを通してしか世界を観測しようとせん」
「如月さん……」
「だが、不純物には不純物なりの、そこにたどり着くまでの果てしない物理的な旅路があるのじゃ。三十年前の泥にまみれ、犯罪者の血に汚れ、それでも決して失われなかった確かなルーツがな。……わしはこれからも、それを探し、鑑定し続ける。この目が黒い内は、世界に存在するどんな些細な矛盾も見逃すつもりはない」
彼女の宣言は、まるで自分自身に強固なプロトコルを書き込んでいるかのように、静かで、しかし絶対的な重みを持っていた。
僕は改めて、目の前にいる同級生の底知れぬ恐ろしさと、抗いがたい引力について考えた。
彼女に関われば、僕の平穏な日常は間違いなくバグを起こして破壊される。凶悪犯のアジトに乗り込む羽目になったり、警察の熱血刑事から押し付けられた特大のぬいぐるみを不法投棄スレスレで処理させられたり、客観的に見ればろくなことがない。
それでも。
この巨大なスマートシティの片隅で、誰にも気づかれずに永遠に消去されるはずだった『三十年目の祝杯』の物語を、彼女が見つけ出し、論理的に掬い上げてくれたことは事実なのだ。
ありえない場所にある、ありえないモノ。
その背後に隠された途方もない質量のドラマを、特等席で見ることができるのなら。この理不尽な下僕生活も、少しだけなら我慢してやってもいいかもしれない。
「……わかりましたよ」
僕は大きくため息をつき、自分の背丈ほどもあるツキマロくんのぬいぐるみを、よっこいしょと抱え上げた。
「とりあえず、この大量生産のぬいぐるみは僕が持って帰ります。彩華ちゃんのアクスタの横に並べるのは絶対に嫌ですけど、まあ、部屋の隅っこのデッドスペースにでも押し込んでおきますよ。これも一応、僕たちが事件を解決した記念品、あるいは物理的なログみたいなものですしね」
「勝手にせよ。だが、間違ってもわしのコレクションの隣に並べるような空間的配置の真似は許さんぞ」
「しませんって。それより、帰ったら今度こそ絶対に映像の続きを見ますからね。次に何か変なモノを見つけても、せめてアンコールの曲が終わるまでは絶対に電話してこないでくださいよ」
僕のささやかな抵抗に、如月さんはフッと美しく口角を上げ、再びハニワを磨き始めた。
夕焼けに染まる図書室の中、土人形はまるで彼女の想いに応えるかのように、鈍く、しかし確かな有機的な輝きを放っていた。
巨大な財閥の鑑定令嬢と、血の気の多い勘違い熱血刑事。どうやら僕の周りには、他人の都合や論理を一切考慮しない自分勝手な人間ばかりが引き寄せられる運命のアルゴリズムが存在しているらしい。
僕は重すぎる段ボール箱とぬいぐるみを抱えながら、この巨大な荷物を愛車シルバーチャリオット号の前カゴにどうやって物理的に押し込むかを計算し、絶望的な気分で図書室を後にした。
僕の平和な高校生活はもう初期化できない。しかし、この街のどこかに新たな『不純物』が落ちている限り、僕と如月さんの奇妙な鑑定の旅は、きっとこれからも続いていくのだろう。




