第2話『白と黒』 ~Section 1:メロンクリームソーダと、白黒の不純物~
月見坂市にある我が校の旧校舎。その最も奥に位置するカビ臭い図書室は、実質的に如月グループ令嬢の私室と化している。
今日の放課後も、僕はうず高く積まれた古書の山を整理するという名目で呼び出されていた。図書委員でもなければ部活動でもない。ただの同級生であるにもかかわらず、有無を言わさぬ絶対的な権力によって、専属の下僕のように理不尽な放課後に付き合わされているのだ。
「如月さん。この間の日曜日、家の近所を少し散歩してたんですけど、いつもは通らない路地裏ですごく雰囲気のいい古い喫茶店を見つけたんですよ」
僕は脚立の上で埃を払いながら、窓際の一等地に陣取る美しい同級生に向かって口を開いた。
読書の邪魔をして不機嫌にさせないか少しヒヤヒヤしたが、沈黙に耐えきれなくなったのも事実だ。それに、最近少しだけ彼女の『好み』が分かってきたような気がしていた。僕は基本的に女性に対する耐性が皆無で、クラスの女子と話すだけでも緊張してしまうようなただのオタクだが、この絶対君主のマイペースな振る舞いには、どういうわけか少しずつ適応し始めている自分がいる。もちろん、不用意に近づいて物理的な接触を持つような命知らずな真似は絶対にしないが。
「ふん。お主のような小市民が良い雰囲気などと宣う店は、どうせ薄っぺらい流行りのパンケーキ屋か何かじゃろう。わしは喧騒と行列がこの世で三番目に嫌いじゃ」
如月さんは、分厚い革張りの洋書から目を離すことなく冷たく切り捨てた。相変わらずの塩対応だ。だが、ここまでは完全に想定内である。
「違いますよ。すごくレトロでアンティークな純喫茶です。入り口に『店内撮影禁止』ってデカデカと貼ってあったから、SNSで騒ぐような人たちも全くいませんでした。それに、そこの看板メニューが『自家製メロンクリームソーダ』らしくて」
ピタリ、と。
洋書のページをめくろうとしていた如月さんの白魚のような指が、空中で静止した。
「ほう」
如月さんはゆっくりと本を閉じ、僕の方へ向き直った。
その瞳の奥に、猛禽類が獲物を見つけた時のような、あるいは極上の鑑定品を前にした時のような、鋭い光が宿る。
「サクタロウ。その店は、人工的な甘ったるいシロップではなく、本物のメロン果汁を使った正統派のクリームソーダを出しておるのじゃな?」
「えっと、お店の外に漂っていた匂いや、黒板に書かれた手書きのメニューを見た限りだと、かなり本格的なやつだと思います」
「よし。今日の読書はここまでじゃ。ただちにその旧市街の店へ向かうぞ」
如月さんは迷うことなく立ち上がり、スクールバッグを手に取った。
メロンクリームソーダ。それは、この無慈悲な鑑定士が密かに愛してやまない、数少ない大好物なのだ。彼女の好みを見事に引き当てた自分のファインプレーに小さくガッツポーズをしつつ、僕は慌てて脚立を降りて彼女の後を追った。
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旧校舎の裏門には、すでにお馴染みとなった漆黒の超高級リムジンがアイドリング音すら立てずに待機していた。
専属ボディガードの黒田さんが恭しく後部座席のドアを開ける。僕は「失礼します」と小声で挨拶しながら、如月さんの対角線上のシートに体を滑り込ませた。
月見坂市は、巨大な川を境界線にして大きく二つの顔を持っている。全面ガラス張りの高層ビル群が林立する『新市街』と、歴史あるレンガ造りの建物や僕の住む市営団地が密集する『旧市街』だ。
リムジンは学校を出発すると、僕の生活圏内である旧市街の細い通りへと入っていく。歩きや自転車ならなんてことのない見慣れた景色だが、大統領でも乗っていそうな防弾仕様のリムジンで近所のスーパーの横を通り過ぎるのは、とてつもなくシュールで居心地が悪かった。
やがて、車が入り込めない石畳の路地裏の入り口で、僕たちはリムジンを降りた。
「ここです。喫茶『羅針盤』。いい雰囲気でしょう?」
僕が案内した店の前に立ち、如月さんは満足げに頷いた。
くすんだ真鍮のドアノブ、飴色に変色した重厚な木製の扉。店名の通り、入り口の横には古い船の舵が無造作に立てかけられている。そして扉の中央には、僕の言った通り『店内撮影固くお断り』という達筆な貼り紙が鎮座していた。
カラン、と鈍いベルの音を響かせて中に入ると、そこは外の昼下がりの陽光が嘘のように薄暗く、静謐な空間だった。
照明は各テーブルに置かれたアンティークのアルコールランプと、壁掛けの小さなランプのみ。壁際には精巧な大型帆船の模型が飾られ、奥の壁では年代物の大きな柱時計が、その針を完全に止めたまま静かに眠っている。
客席は艶やかな赤いテーブルと、体を深く包み込むベルベット生地の深紅の椅子で統一されていた。数人の客がいたが、誰もスマホのカメラを構えるような無粋な真似はしておらず、純粋に珈琲の香りと静かな時間を楽しんでいる。
「素晴らしい空間じゃ。月見坂市にも、まだこのような文化的な静寂が残っていたとはな」
如月さんが、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
彼女がここまで手放しで空間を褒めるのは珍しい。僕はホッと胸を撫で下ろし、初老のマスターに案内されるまま、店の最も奥のテーブル席に向かい合って座った。
注文はもちろん、メロンクリームソーダだ。
運ばれてきたグラスは、まるで分厚い氷を削り出したかのような美しいカットグラスだった。氷の隙間を満たす液体は、透き通った深いエメラルドグリーン。その上に乗るバニラアイスは完璧な球体を描き、真っ赤なチェリーが王冠のように添えられている。
「いただきます」
如月さんは背筋をピンと伸ばし、長い銀色のスプーンを手に取った。
彼女の所作は、ただの喫茶店のメニューを口に運ぶだけでも、まるでフランス料理のフルコースを味わっているかのように優雅で美しい。アルコールランプの揺らめく炎が彼女の整った横顔を照らし、グラスの緑色が白い肌に反射している。
僕はまたしても目のやり場に困り、彼女の視界を遮らないように身を縮めながら、自分の前に置かれたアイスコーヒーのストローを無意味に噛み続けた。不用意に見つめすぎて機嫌を損ねでもしたら、黒田さんたちにつまみ出されかねない。
静かな時間が流れる。
BGMは微かなクラシック音楽と、マスターがサイフォンで珈琲を淹れるポコポコという音だけだ。
如月さんはすっかり機嫌を良くし、グラスの底の最後の一口まで堪能しようとしていた。時折、古びたテーブルの脚が微かにガタつき、グラスの中の氷がカランと鳴るが、それすらもこのレトロな喫茶店の趣の一部に思えた。
僕の平穏な放課後は、このまま何事もなく美しく終わるはずだった。
コロン。
突然、くぐもった小さな音が、足元から聞こえた。
如月さんがスプーンを持つ手を止め、わずかに眉をひそめる。
「サクタロウ。お主、今足で何か蹴ったか?」
「えっ?いや、僕は何も。脚を組んだりもしてませんよ」
「そうか。わしの靴のつま先に、硬いものが当たった感触があったのじゃが」
如月さんはベルベットの椅子から少し身を乗り出し、薄暗いテーブルの下を覗き込んだ。
僕も不思議に思い、横から首を突っ込んでテーブルの脚の周辺を見る。
アルコールランプの僅かな光が届く床の隅。艶やかなフローリングの上に、それは無造作に転がっていた。
「碁石……ですか?」
僕が思わず声を漏らす。
そこには、直径二センチほどの丸く平たい石が、二つ落ちていた。
一つは純白。もう一つは漆黒。
間違いなく、囲碁の対局で使われる白黒の碁石のセットだった。
「なぜ、こんな場所に碁石が?」
僕は店の中をぐるりと見渡した。
アンティークランプ、柱時計、帆船の模型、深紅のベルベット椅子。どこをどう切り取っても、ここは西洋の海をイメージしたレトロな純喫茶だ。和風の要素は一ミリもなく、当然ながら、店内で囲碁を打っているような客の姿はどこにもない。
碁石などという極めて和風なアイテムが、この洋風の空間の床に落ちていること自体が、強烈な違和感だった。
「ありえない場所にある、ありえないモノ」
如月さんの声のトーンが、一段階下がった。
彼女はゆっくりと身を起こし、ドレスのポケットから白手袋を取り出して両手にはめた。先ほどまでメロンクリームソーダを味わっていた可憐な令嬢の顔は完全に消え去り、そこには冷酷で傲慢な『鑑定士』の顔が浮かび上がっていた。
「サクタロウ。拾い上げよ。極上の不純物の匂いがするぞ」
「は、はい」
僕は言われるがまま床に手を伸ばし、白と黒の碁石を拾い上げて、赤いテーブルの上へそっと置いた。
ランプの光に照らされた二つの石は、不気味なほど場違いな存在感を放っている。
なぜ、この薄暗いレトロ喫茶のテーブルの下に、白と黒の碁石が一つずつ落ちていたのか。和でもなく、囲碁の気配すらないこの場所で、誰が、何のためにこれを持ち込み、そして落としていったのか。
如月瑠璃の瞳に、知的好奇心の危険な炎が燃え上がる。
僕の平穏な放課後は、この小さくも決定的な違和感によって完全に終わりを告げた。この二つの石が、やがて新市街を揺るがす凶悪な強盗事件へと繋がっていくことなど、この時の僕は知る由もなかったのだ。




