第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 7:死角の祝杯と、消えたVIP~
三十年前の亡霊と、清掃員の誇り高き祝杯。
そんな名作映画のラストシーンのような見事な結末を見届けた僕たちは、宗像支配人たちを四十六階のロイヤル・スイートに残し、二人でエレベーターホールへと向かっていた。
島田さんから買い取った──正確には後日、如月コンツェルンから法外な金額が振り込まれる予定の──泥だらけのグラスとピカピカのハニワは、如月さんが大切そうにシルクのハンカチに包み、僕のリュックの耐衝撃サイドポケットに収まっている。歩くたびに、推しのアクリルキーホルダーがカチャカチャと平和な音を立てていた。
これで僕の助手としての非合法な潜入任務は完了だ。この巨大なホテルの外に出れば、自転車──シルバーチャリオット号──が待っている。家に帰れば、冷めた筑前煮と、推しのライブ映像の四K画質の続きが僕を優しく癒やしてくれるはずだ。
「なんだかんだで、論理的な矛盾が人情でコーティングされた、いい話で終わってよかったですね、如月さん」
僕はエレベーターの下降ボタンを押し、大きく背伸びをしながら言った。極度の緊張の糸が解け、どっと乳酸の溜まったような疲労感が押し寄せてくる。
「三十年越しの乾杯かぁ。あの島田さんって清掃員の人、すごく優しそうな人でしたね。如月さんが怒って、セキュリティインシデントを理由にクビにするとか言い出さなくて、本当に安心しましたよ」
「ふん。わしは有能な人間と、合理性を超越した美しい執念を愛しておるのじゃ。あのばあさんのミリ単位の埃を許さぬ清掃スキルと、三十年間も土人形を親指で磨き続ける異常な摩擦への愛情。あれをシステムのエラーとして手放すなど、上に立つ者として三流のやることじゃ」
如月さんは細い腕を組み、エレベーターの到着を示すデジタル階数表示をぼんやりと見上げていた。
事件を解決し、極上の『鑑定品』を手に入れたはずなのに、彼女の横顔にはなぜかスッキリしない、微かなバグの残骸のような不満が張り付いているように見えた。まるで、出されたフルコースのメインディッシュの塩基配列に、ほんの少しだけノイズが混じっていたとでも言うような顔だ。
チン、と軽やかな電子音が鳴り、銀色の扉が開く。
僕たちは無言で乗り込み、一階のロビーへと向かうボタンを押そうとした。
だが、その直前。僕のデジタルの脳裏に、ずっと引っかかっていた『あるネットワーク上の違和感』が、エラーログのようにフラッシュバックした。
「あ、ちょっと待ってください」
僕は一階のボタンを押そうとした手を止め、如月さんを振り返った。
「どうした、サクタロウ。物理的な忘れ物でもしたか? お主のそのプラスチックの平面の偶像なら、ちゃんとリュックの横についておるぞ」
「違いますよ。あの、島田さんの行動のプロトコルについてなんですけど」
僕はパーカーのポケットからスマホを取り出し、先ほど四十五階の回廊で撮影した『天井の防犯カメラ』の高解像度拡大画像を画面に表示した。
「如月さん。島田さんが三十年分の情動の質量を込めて、あのハニワとグラスを四十五階の回廊に置いたのはわかりました。でも、それなら『あれ』はどう説明するんですか?」
「あれ、とはなんじゃ」
「PoE給電のドーム型防犯カメラですよ」
僕は画面の中の、稼働ランプが完全に消沈したハイクビジョン社製のカメラを指差した。
「僕、最初に言いましたよね。あの回廊のセンターラインを映しているカメラだけ、ネットワークからの応答がなく、稼働を示す赤いLEDランプが消えていたって。てっきり、犯人が自分の姿をログに残さないために、システムに干渉してカメラを切ったんだと思ってました」
「ふむ。そうじゃな」
「でも、矛盾してるじゃないですか。六十八歳のベテラン清掃員であるアナログな島田さんが、最新式のIPネットワークカメラの電源をピンポイントで落としたり、ハッキングして録画サーバーのデータを消去したりできると思いますか? 物理的にLANケーブルを切断した形跡もありませんでしたし、清掃員がそんなクラッキングをしたら一発でクビです」
僕の指摘に、如月さんのアメジストの瞳孔がキュッと収縮した。
彼女は僕のスマホの画面を凝視し、そのまま思考の深淵に潜ったように微動だにしなくなった。
「それに、動機という名のインセンティブも不自然です。島田さんは『三十年目の祝杯』として、あえて一番目立つ四十五階の回廊のダウンライトの直下に、あれを『展示』したんです。見せびらかすための祝杯なら、別に防犯カメラのデータに自分が映っても気にしないはずじゃないですか? むしろ、ホテルのセキュリティシステムを無効化するなんていう重罪のハッキングを犯してまで、自分の姿を隠す合理的な理由がありません」
僕が言葉のパケットを重ねるごとに、エレベーター内の空気が急速に冷えていくのを感じた。
如月さんの形の良い唇が、ゆっくりと三日月形に吊り上がる。
それは、隠された真理のアルゴリズムに辿り着いた時の、猛禽類のような凄絶な笑みだった。
「サクタロウ。お主、たまには脳のクロック数が上がるではないか」
「えっ? いや、ただのネットワーク機器の仕様上の矛盾を言っただけで」
「わしはずっと、何かが胃の腑に引っかかっているような論理の気持ち悪さを感じておったのじゃ。島田清子の動機と行動は完璧に合致していた。だが、現場の『物理的状況』と合致していなかったのじゃな」
如月さんはミッドナイトブルーのドレスの隠しポケットからウォルサム製の懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開けた。
チッ、チッ、チッ。
五振動の正確なリズムが、彼女の加速する思考を完璧にチューニングしていく。
「お主の言う通りじゃ。島田のばあさんにIPカメラを操作する技術的スキルも動機もない。ならば、導き出される解は一つしかない」
如月さんは懐中時計を閉じ、僕の目を真っ直ぐに射抜いた。
「防犯カメラのシステムを無効化した人間と、ハニワを物理的に置いた人間は『別人』じゃ」
「別人!? じゃあ、島田さん以外に、もう一人回廊に誰かがいたってことですか?」
「左様。二つの事象は、完全に独立したベクトルとして発生したのじゃ。何者かが、自らの悪意ある目的のために四十五階の回廊の防犯カメラを無効化し、監視網の『死角』を作り出した。そして、島田のばあさんはその死角の存在など露知らず、たまたま一番目立つ回廊の中央に、自分のハニワを置きに来たのじゃ」
背筋に冷たい電流が走った。
それはつまり、どういうことだ。
「如月さん。防犯カメラを無効化する目的って、普通に考えたら『犯罪』ですよね。泥棒とか、そういう」
「ただの窃盗犯なら、警備の厳重なパーティー会場の階など狙わん。もっと物理的セキュリティの手薄な客室を狙うはずじゃ」
如月さんはエレベーターの操作盤に向き直り、押しかけていた一階のボタンをキャンセルし、激しい勢いで『四十五』のボタンを叩いた。
「サクタロウ。事態の推移は、我々が思っていたより遥かに血生臭い方向に転がっているかもしれんぞ」
強烈な重力加速度と共に、下降し始めていたエレベーターが急ブレーキをかけ、再び上昇に転じる。
胃がふわりと浮き上がるような感覚の中、僕はたまらず手すりを握りしめた。
チン、と電子音が鳴り、四十五階で扉が開いた。
「な、なんですかこれ」
僕は思わず息を呑み、足を踏み出すのを躊躇した。
数十分前、僕がダクトから這い出てきた時の四十五階は、弦楽四重奏の優雅な調べが漏れ聞こえる、静かで完璧な高級ホテルの回廊だった。
だが今は違う。
深紅の絨毯の上を、インカムをつけた黒服のセキュリティスタッフたちが、血相を変えて走り回っている。
パーティー会場の分厚い防音扉は半分開け放たれ、中から怒号や悲鳴に近い不規則なノイズが溢れ出していた。優雅なクラシック音楽は完全にストップしており、代わりに飛び交うのは緊迫した大人たちの怒声だけだ。
先ほどまでハニワが置かれていた回廊の中央付近には、物理的な規制線を張るように数人のホテルマンが立ち塞がり、誰かを必死に探しているようだった。
「お嬢様!!」
エレベーターから降りた如月さんのドレス姿を認めるなり、顔面を蒼白にしたセキュリティのチーフが転がるように駆け寄ってきた。
「瑠璃お嬢様、ご無事でしたか! ずっとお姿が見えないと、会長が大変心配しておられまして!」
「祖父の感情などどうでもよい。それより、この騒ぎのインシデントレベルは何事じゃ。豚小屋のように五月蝿いぞ」
如月さんが氷点下の声で一喝すると、屈強なチーフはビクッと肩を震わせ、周囲の招待客を気にするように声を潜めた。
「そ、それが。パーティーの招待客が一名、忽然と姿を消したのです。しかも、ただの迷子や失踪ではありません」
「ただの失踪ではない?」
「はい。消えたのは、新進気鋭のIT企業『サイバーエッジ』の若きCEO、西園寺社長です。彼はスピーチの直前に『少し風に当たってくる』と会場を出たきり戻らず。スタッフが捜索したところ、この回廊の突き当たりにある非常階段の踊り場で」
チーフは生唾を飲み込み、震える声で告げた。
「西園寺社長の大量の血痕と、無残に物理破壊された彼の最新型スマートフォンの残骸が発見されました。間違いありません。何者かに暴行を受け、そのまま拉致されたのです!」
血痕。物理破壊。拉致。
僕の平和な日常のデータベースには存在しない、生々しい暴力の響きに、僕は呼吸を忘れた。
ただの美談で終わるはずだった休日の午後に、突如として真っ黒なマルウェアがぶち込まれたような気分だ。
「なるほど。論理が繋がった」
だが、如月さんは全く動揺する様子もなく、むしろ全てのパズルのピースが完璧に組み合わさったような、深い納得の吐息を漏らした。
彼女は僕のリュックのサイドポケットに視線を落とし、その中に眠る『泥だらけのグラス』を透視するように見つめた。
「サクタロウ。事の顛末のアルゴリズムが見えたぞ」
如月さんは、ミッドナイトブルーのドレスの裾を少しだけ持ち上げ、凄惨な事件現場となっている回廊を冷徹に見据えた。
「犯人は、西園寺を非常階段から連れ去るために、この回廊のネットワークカメラを意図的に無効化した。つまり、この回廊は数十分間、完全な『死角』となっていたわけじゃ」
僕はゴクリと喉を鳴らした。口の中の水分が完全に蒸発している。
「じゃ、じゃあ、島田さんがハニワを置いたのは」
「左様。島田のばあさんは、ホテルの構造や清掃には精通していても、デジタル機器の稼働状況には疎かった。彼女は自分が祝杯を置こうとした場所が、たまたま『拉致犯がカメラを切った直後の、凶悪犯罪のブラインドルート上』だとは夢にも思わず、一番目立つ中央にあのグラスを設置してしまったのじゃ」
ありえない場所にある、ありえないモノ。
それは、三十年前の亡霊が生み出したロマンチックな奇跡などではなかった。
恐るべき拉致事件の犯人が作り出した『防犯カメラの死角』という暗闇に、無垢な清掃員が偶然置いてしまった、強烈な皮肉のバグの産物だったのだ。
「前菜の時間は終わりじゃ、サクタロウ」
如月瑠璃の瞳に、今日一番の、そして最も危険な知的好奇心の炎が青く燃え上がった。
祝杯のハニワは、殺人鬼の通り道を示す道標だった。彼女のドレス姿が、今や冷酷な鑑定士の戦闘服にしか見えなくなり、僕はただリュックの肩紐を強く握りしめることしかできなかった。




