第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 6:三十年目の祝杯と、泥だらけの誇り~
宗像支配人が清掃員の島田清子を呼びにロイヤル・スイートを飛び出していった後、四十六階の広大なリビングには奇妙な、しかしどこか弛緩した静寂が降りていた。
イタリア製の最高級革張りソファには、三十年間配管スペースの裏に引きこもっていた幻の天才建築家・有栖川が、泥と油にまみれたツナギ姿のまま、まるで自分のアトリエのように堂々と腰を下ろしている。彼は如月さんがルームサービスの専用冷蔵庫から勝手に出した高級なマカロンを、無作法に美味そうにモグモグと頬張っていた。
「甘い。実に甘い。壁の裏のコンクリートの冷たさを舐めながら啜る冷めたコンソメスープも悪くないが、やはり純粋な糖質は脳のシナプスに直接響くね」
「有栖川よ、カネボウ製の特注絨毯にマカロンの崩れた欠片を落とすな。後で清掃する人間の身にもなれ」
如月さんは大理石のセンターテーブルに軽く腰掛け、ミッドナイトブルーのドレスの裾から伸びる細い足を優雅に組みながら、氷のように冷たく言い放った。
完全武装したドレス姿の令嬢と、三十年前の地層から這い出してきたような浮浪者の老亡霊。そして、隅っこで巨大なリュックを抱えて縮こまる、ジャージ感覚のパーカーを着た僕。VIP専用のロイヤル・スイートで繰り広げられる、この上なくシュールで情報量の多すぎる光景だ。
僕は有栖川という男の、常人の理解を超える異常な適応力に呆れつつ、これから来るであろう『人物』のことを考えていた。
島田清子。六十八歳のベテラン清掃員。
もし彼女が本当にあのハニワを作り、重油臭い泥だらけのグラスに入れて四十五階の回廊のど真ん中に置いたのだとしたら、その合理的な動機は何なのだろう。ホテルの美観を保ち、無機質な清潔さを維持するプロフェッショナルが、わざわざ一番目立つダウンライトの直下に泥だらけの不純物を展示するなんて、彼女の職務に対する完全な背任行為であり、真逆の矛盾した行為だ。
十分ほど経った頃、重厚なオーク材の扉が控えめにノックされ、宗像支配人が戻ってきた。
彼の後ろには、ホテルの制服である汚れ一つないグレーのエプロンとスラックスを身につけた、小柄な老婦人が立っていた。
白髪交じりの髪を後ろで綺麗に束ね、六十八歳という年齢を感じさせないほど背筋の姿勢はピンと伸びている。目尻には深く刻まれたシワがあるが、とても優しそうで、どこか静かな品格を漂わせた顔立ちだった。
「お連れしました。彼女が、当ホテルの清掃責任者である島田清子です」
宗像支配人が震える声で紹介すると、島田さんは深く、そして洗練された美しい所作で一礼した。
「清掃部の島田でございます。本日はお忙しい中、私のような末端の者をお呼び立ていただき……あら?」
顔を上げた島田さんの視線が、革張りソファでマカロンを齧っている有栖川でピタリと止まった。
宗像支配人が慌てて間に入り、取り繕おうとする。
「あ、島田さん。驚かないで聞いてほしいんだが、実はこの方は、三十年前に失踪した有栖川先生で……」
「有栖川先生。お久しぶりでございます。今日はお日様の下に出られたのですね。お髭が随分と伸びていらっしゃる」
島田さんは全く驚く様子もなく、まるで近所のスーパーで顔見知りに挨拶するかのような、穏やかな笑みを浮かべた。
有栖川も「おお、清子くんじゃないか。君も元気そうで何よりだ」と、食べかけのマカロンを持った手を軽く振って気さくに応えている。
「えっ? お二人、知り合いなんですか!?」
僕が思わず間の抜けた声を上げると、如月さんが「ふん」と鼻を鳴らした。
「当たり前じゃ。サクタロウ、少しは脳のクロック数を上げよ。この有栖川が三十年間も配管スペースの裏で生存できたのは、廊下に出された食べ残しのカロリーだけが理由ではない。冬の寒さを凌ぐウール毛布や、最低限の水分と衛生環境の維持。誰かが『見て見ぬふり』をして、システム的な死角から物理的支援を継続していなければ、生物学的に不可能なことじゃ」
如月さんはテーブルから滑り降り、島田さんの目の前へと歩み寄った。
「島田清子。お主がこのホテルの構造的欠陥である穴蔵の存在に気づき、有栖川をシステム外で飼いならしておったのじゃな?」
「飼いならすだなんて、とんでもございません。私はただ、このホテルを設計された先生が、ご自身で作られた神殿の奥深くで静かに過ごしたいというご意志を、清掃員として『片付けなかった』だけでございます」
島田さんは悪びれる様子もなく、静かに、しかし毅然と答えた。
「三十年前。私は夫を不慮の事故で亡くし、途方に暮れていた時に、このホテルの基礎工事の現場で雑用係として雇っていただきました。あの泥だらけで強アルカリ性のセメント粉末が舞う過酷な現場で、有栖川先生は私のような末端の人間にも分け隔てなく接し、このホテルがどれほど素晴らしい建物になるかを熱く語ってくださいました。私にとって、先生はこのホテルの魂のルーツそのものです。数年後、私が清掃員として正式に採用され、壁の反響音や埃の積もり方からあの奥の空間に気づいた時……私は誰にも言わず、時々新しい毛布や日用品を置かせていただくことにしたのです」
三十年間継続された、壮大な隠れんぼの共犯者。
宗像支配人は「そんな馬鹿な……セキュリティの完全な崩壊だ……」と頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。開発責任者としては、部下が三十年間も不審者を匿い、システムの監視網をすり抜けていたなど、悪夢以外の何物でもないだろう。
「なるほど。論理的な矛盾を人情でコーティングした、心温まる美談じゃな」
如月さんの声には、一切の情動への共感がこもっていなかった。彼女は他人の人情話や自己犠牲のドラマには、一ミリの興味も示さないのだ。
彼女はドレスの隠しポケットから、あの重油臭い泥だらけのグラスと、有機的な艶を放つピカピカのハニワを取り出し、島田さんの目の前に突きつけた。
「お主らの三十年間の絆などという形のないものには興味がない。わしが知りたいのは、この物理的な『異物』のルーツのことだけじゃ。島田清子。このハニワを作ったのは、お主じゃな?」
島田さんは、如月さんの手にあるハニワとグラスを見た瞬間、今日初めてその穏やかな表情を崩した。
驚きではなく、どこかホッとしたような、そして底知れぬ誇りに満ちた、強い笑顔だった。
「はい。間違いなく、私のものです」
島田さんは、長年の洗剤や摩擦で荒れた両手を胸の前で合わせ、愛おしそうにハニワを見つめた。
「底に『S.K』と彫ってあるはずです。三十年前、まだここが泥沼の基礎工事現場だった頃。私は毎日、赤土と重油にまみれて働いていました。このホテルが少しずつ形になっていくのが嬉しくて、ある日、記念に現場の強い粘土質の土を少しだけ持ち帰り、小さな土人形を作ったのです。それが、そのハニワです」
「なぜ、それをこれほどまでに執拗に磨き上げたのじゃ?」
如月さんの問いに、島田さんは自分の荒れた手のひらのシワを見つめながら答えた。
「私はその後、清掃員として三十年間、このホテルのありとあらゆる場所を磨き続けてきました。大理石の床を、特殊ガラスの窓を、手すりを。私の仕事は、汚れという不純物を落とし、この巨大な建物を美しく保つことです。家に帰ってからも、その日の仕事の誇りを忘れないように、自分の手で作ったこのハニワを、親指の腹で毎日、毎日撫でて磨きました。私にとってこのハニワは、三十年間の私自身の『魂』であり、このホテルと共に歩んできた摩擦の証なのです」
その言葉を聞いて、僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。
ただの不気味な土人形だと思っていたものが、一人の女性の三十年分の労働と誇りの結晶だったのだ。親指の指紋がすり減り、タコができるほど磨き上げられたその有機的な艶は、彼女の人生の質量そのものだった。
「島田さん」
僕はたまらず口を開いた。
「どうして、その大切なハニワを、あんな三十年前の泥だらけのグラスに入れて、四十五階の回廊に置いたんですか? 今日は創業三十周年の記念パーティーで、一番目立つ場所じゃないですか」
僕の質問に、島田さんは少しだけ申し訳なさそうに視線を落とした。
「今日は、このホテルにとって特別な日です。下では政財界の立派な方々が集まり、綺麗なクリスタルグラスでヴィンテージのシャンパンを傾けていらっしゃる。でも、このホテルを本当に愛し、三十年間陰で支え続けてきた有栖川先生は、あの暗い配管スペースの裏にいる。そして、泥と重油にまみれて基礎を作った私たち名もなき労働者は、決してあのような華やかな表舞台に出ることはありません」
島田さんは顔を上げ、ソファに座る有栖川と、そして如月さんを真っ直ぐに見据えた。
「だから、せめて今日という日くらい、私たちも『祝杯』を挙げたかったのです。私は有栖川先生の部屋の前に置かれていた、三十年前の現場の泥がついたままの特注グラスを拝借しました。そして、そこに私の魂であるハニワを入れて、四十五階の回廊のダウンライトの下に、そっと置かせていただきました。あれは、私たち日陰の人間から、この巨大なホテルへ贈る、三十年目の乾杯だったのです」
静かなロイヤル・スイートのリビングに、島田さんの言葉が反響して消えた。
泥だらけのグラスは、三十年前の建設現場の地層の記憶。
ピカピカのハニワは、三十年間の清掃という名の摩擦の歴史。
あの不純物は、誰かの悪戯でも無価値なゴミでもない。このホテルを誰よりも深く知る人間からの、最高に純粋で、泥臭い祝福のメッセージだったのだ。
僕は隣に立つ如月さんを見た。
彼女はどんな冷酷な言葉を投げつけるのだろうか。ホテルの美観を損ねた清掃員を、コンツェルンの令嬢として、論理的な背任行為を理由に解雇するとでも言うのだろうか。
しかし、如月さんの口元には、いつもの人を小馬鹿にした冷笑ではなく、深い満足感に満ちた静かな微笑みが浮かんでいた。
「……見事じゃ」
如月さんは、手の中のハニワとグラスを高く掲げ、窓から差し込む西日に透かした。
「泥だらけの過去と、磨き上げられた現在。そして、名もなき労働者の執念。これほどまでに雄弁で、魂の質量の込もった『ありえないモノ』はそうそうお目にかかれるものではない。島田清子。お主の三十年間の執着と、この不条理極まりない展示のセンス、わしの審美眼は高く評価しよう」
如月さんはグラスを大理石のテーブルに静かに置くと、島田さんに向かって堂々と宣言した。
「このハニワとグラスは、如月瑠璃の個人コレクションとして、最高ランクで買い取らせてもらう。もちろん、その分の対価は破格の額を弾むぞ。それと宗像。この有栖川のじいさんと島田のばあさんの処遇じゃが、これまで通り一切不問に付す。もしシステム上の不備を理由に父に報告して解雇などしようものなら、お主の三十年間の『職務怠慢』をメディアにリークするからそのつもりでな」
宗像支配人は脂汗を流しながら何度も激しく頷き、島田さんは涙ぐみながら深く頭を下げた。有栖川は我関せずといった様子で、二つ目のマカロンに手を伸ばしている。
事件は終わった。
オカルトな幽霊でも巨大企業の陰謀でもない、ただの人間の歴史と誇りが物理的な痕跡として生み出した、小さな日常の謎。
僕は大きく背伸びをして、リュックの重みを感じ直した。時計を見れば、推しのライブ映像の鑑賞会は、アンコールどころか最後のスタッフロールまでとっくに終わっている時間だ。僕の完璧にスケジューリングされた休日は完全に台無しになったが、不思議と悪い気分ではなかった。
窓の外では、月見坂市の無機質な街並みが夕暮れに染まり始め、このホテルの巨大な影が長く伸びて、スマートシティ全体を優しく包み込もうとしていた。




