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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『祝杯の埴輪』 ~Section 5:イニシャル『S.K』と、身近な容疑者~

 ホテル・セレーネの最上階、四十六階。

 三十年間、生きた人間が引きこもっていたという埃と古い重油の匂いにまみれた配管スペースの隠し部屋。そこから這い出し、再びロイヤル・スイートの広大で清潔なリビングルームへと戻ってきた瞬間、僕は思わず大きく息を吸い込み、声を上げた。


「ああっ! そういうことか!」


 あまりの非日常的な空間の狂気に当てられて麻痺していた僕のデジタルの脳髄が、元の広くて明るい、空調の効いた部屋に戻ったことで、ようやく正常なクロック数と論理的処理能力を取り戻したのだ。

 先を歩いて大理石のセンターテーブルにグラスとハニワを置いていた如月さんが、不機嫌そうに振り返った。


「なんじゃ、突然猿のように大声を出して。ただでさえあのカビ臭い空間で鼻が曲がりそうじゃったのに、わしの鼓膜まで破る気か」


「すみません。でも如月さん、気づいてましたか!? あの有栖川って建築家なら、イニシャルの表記は『A』ですよね。でも、あのハニワの底に彫られていたイニシャルは『S.K』です。最初から完全に不一致じゃないですか!」


 僕は自分の名推理──といっても、ただのアルファベットの初歩的なパターンマッチングだが──に少し興奮気味に言った。

 三十年前の失踪者を見つけ出したこと自体は特ダネ級の出来事だが、彼が今回の『ハニワとグラスの展示事件』の犯人ではないという物理的な決定証拠だ。僕は助手の鑑として、この重大な矛盾を指摘したつもりだった。


 しかし、如月さんは僕を称賛するどころか、心底呆れたような、無価値な不純物を見るような氷点下の視線を向けた。


「愚鈍な。お主、本気で今頃気づいたのか? その脳の処理速度の遅さたるや、時代遅れの真空管コンピュータ以下じゃな。だからママチャリのギア変速すらないような鈍重な生活を送る羽目になるのじゃ」


「えっ? じゃあ、如月さんは最初からイニシャルが違うってわかってて、あの部屋を開けさせたんですか?」


「当たり前じゃろう。三十年前の強アルカリ性の赤土にまみれたグラスと、現代に作られ有機的な艶を帯びた手製のハニワ。この二つのオブジェクトが『同一人物の所有物』である確率など、初期条件の段階で限りなくゼロに近い。わしがあの穴蔵に行ったのは、あくまで『グラスの出所』という物理的な座標を確定させるためじゃよ。二つの謎の起源を切り離し、前提条件を整理する。それが鑑定の基本中の基本じゃ」


 彼女はドレスの隠しポケットから、有機的な艶を放つハニワを取り出し、親指の腹でその黒光りする表面をゆっくりと撫でた。

 天井のクリスタル・シャンデリアの幾何学的な光が、彼女の透き通るようなボーンチャイナの肌と、土人形の曲面を同時に照らし出している。そのミッドナイトブルーのドレス姿と相まった絵画のような美しさに、僕はまた視神経の防衛本能が働き、慌ててハニワの表面のテクスチャの方だけを凝視した。


「有栖川という世捨て人の老人は外に出ず、グラスだけが四十五階の回廊のダウンライトの直下に移動した。つまり、何者かが偶然あの隠し部屋を見つけ、あるいは三十年前から知っていて、あの泥だらけのグラスを『拝借』したということじゃ。そして、その人物こそが、このハニワをあそこに意図的に置いた真の犯人。『S.K』というわけじゃな」


 淀みない、冷徹な論理展開。相変わらず、この人の頭の中のアルゴリズムはどうなっているのだろうか。思考のショートカットが常人の何倍も速い。

 僕は感心しつつ、ふとある初歩的な検索結果に思い当たって、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


「待ってください。S.Kって……朔、光太郎。僕のイニシャルと完全に一致してるじゃないですか!」


「ほう」


 如月さんのアメジストの瞳が、スッと細められた。

 獲物を狙う鷹のような、あるいは未知のバグを見つけたプログラマーのような、危険な光が宿る。


「奇遇じゃな、サクタロウ。まさかお主、わしの目を盗んで三十年前の隠し部屋の物理ロックを解除し、グラスを盗み出し、日夜ハニワを磨き上げるという高度な変態行為に及んでいたとは」


「違います! 完全な冤罪です! 第一、僕がこんなところにハニワを置く合理的な動機(インセンティブ)がないじゃないですか! 僕は今日、家で推しの彩華ちゃんのDVDを高解像度で見てたんですから! アリバイだってあります、端末の再生ログを見せましょうか!?」


「冗談じゃよ、愚か者が。お主のような卑屈で臆病な男に、こんな高セキュリティの高級ホテルに単独潜入する度胸などあるわけがない。第一、お主の親指の腹には、コントローラーの十字キーやキーボードの摩耗によるタコはあっても、土を何十年も磨き続けたような職人特有の角質化は見られぬからな」


 如月さんはフッと笑うと、背後で完全にシステムフリーズを起こしている宗像支配人の方へ向き直った。

 彼は開発責任者時代からひた隠しにしてきた『ホテルの暗部』の物理的矛盾を暴かれ、さらにそれがオカルト的な亡霊ではなく、現実の質量を持った人間のパラノイアだったという事実で、完全にライフゲージがゼロになっているようだった。


「如月さん。宗像支配人のタブレットを借りて、ホテルの人事データベースや本日の宿泊客リストから、イニシャル『S.K』で正規表現検索(パターンマッチング)をかけましょうか? 僕なら管理者権限さえあれば、一瞬でソートをかけられますよ」


 僕は自分の得意分野で役に立とうと、リュックの重い肩紐を握り直して提案した。膨大なデータの中から条件に合う人物を絞り込むのは、デジタル機器の最も得意とする力業(ブルートフォース)だ。

 だが、如月さんはピシャリと撥ね付けた。


「味気ない真似をするでない。そんな機械的なソートで何が楽しい。それに、検索条件に入れるべき『人間の情動』や『機微』は、無機質なデータベースのテーブルには載っておらん。宗像の三十年分の記憶(ストレージ)を直接検索した方が、遥かに早くて正確じゃ」


「え? 人間の記憶を直接……ですか?」


「左様」


 如月さんは大理石のテーブルの前に立ち、絶対君主のような威厳を持って宗像支配人を見据えた。

 宗像支配人はビクッと肩を震わせ、直立不動の姿勢をとった。


「宗像。思考回路を回せ。本日のパーティー招待客であるVIPの中に、重油臭い泥まみれのグラスを持ち歩き、自ら回廊のど真ん中に展示するような、非合理で酔狂な人間がおるか?」


「お、おられません。招待客の皆様は手荷物をすべて一階のクロークに預けておられますし、あのような衛生基準に反する泥のついた物を隠し持っていれば、必ずスタッフの目にとまります」


「ならば内部犯じゃ。それも、この四十五階と四十六階のセキュリティ構造を熟知し、長年怪しまれずに徘徊できる権限を持つ者。そして、あの隠し部屋の存在に、日々のわずかな反響音の違いや埃の蓄積から気づけるほど、このホテルの裏側の物理的変化を知り尽くしている者じゃ」


 如月さんは、手の中のハニワを宗像支配人の目の前に突き出した。


「さらにもう一つの条件。このハニワの有機的な艶じゃ」


「艶、ですか?」


「うむ。このハニワはただ作られただけではない。親指の腹で、何年も、何十年も撫で続けられた摩耗の痕跡がある。これは、反復的な手作業を厭わず、一つのものを徹底的に磨き上げる『職人』のような性質を持った人間の仕業じゃ。何かを綺麗に保つことに、異常なまでの執着と誇りを持っている人間」


 如月さんの言葉が、一つ一つ重みと解像度を増してリビングに響き渡る。

 僕は息を呑んだ。彼女はただのイニシャルという記号の一致を探しているのではない。その人物の『性質』や『行動原理』までプロファイリングして、検索条件(クエリ)を絞り込んでいるのだ。


「宗像。お主の三十年分のエピソード記憶を掘り起こせ。デジタルデータの検索など不要じゃ。お主自身の目で見てきた人間の中に、必ず完全に一致する該当者がおるはずじゃ」


 如月さんは、ゆっくりと、念を押すように言葉を紡いだ。


「このホテルに開業当初から勤め、VIPフロアへの立ち入り権限を持ち、手仕事に異常な誇りを持ち、一つのものを徹底的に磨き上げる執着心を持った人間。……そして、イニシャルが『S.K』の人物はおらんか?」


 宗像支配人は目を閉じ、必死に記憶の糸をたぐり寄せ始めた。額から流れる脂汗が、タキシードの襟元を黒く濡らしている。

 三十年間。開業前から関わってきたこのホテルで、数え切れないほどの従業員を見てきたはずだ。だが、如月さんの提示した条件は、あまりにも具体的で、そして鋭利だった。


「三十年前から……VIPフロアへの立ち入り……磨き上げる執着心……S.K……」


 宗像支配人が呪文のように呟く。

 その直後、彼はカッと目を見開き、信じられないものを見るような表情で完全に硬直した。


「まさか……」


「思い当たったようじゃな。名を言え」


 如月さんの氷のような命令に、宗像支配人はかすれる声で答えた。


「島田……島田(しまだ)清子(きよこ)さんです」


「島田清子。清掃スタッフか?」


「はい。彼女は、このホテルが開業した三十年前からずっと勤めてくれている、大ベテランの清掃員です。現在は四十五階と四十六階のVIPフロアの清掃責任者を任せております」


 宗像支配人の言葉に、僕の頭の中で全ての論理的ピースがカチリと音を立てて組み合わさった。


 清掃スタッフ!

 だからこそ、塵一つない四十五階の回廊に、不審がられることなく堂々と物を置くことができた。

 だからこそ、清掃の基本手順から外れているはずの四十六階の隠し部屋の存在に、壁を拭く際のわずかな反響音の違いや、埃の不自然な蓄積から気づくことができたのだ。

 そして、何十年も何かを磨き続けるという行為は、プロの清掃員という彼女の職分、あるいは本能そのものではないか。


「三十年前から、じゃと?」


 如月さんの声のトーンが、一段階下がった。

 それは彼女が、事件の『核心』に完全に触れた時の合図だった。

 僕も息を呑む。三十年前。それはあの泥だらけのグラスが地下の地層に埋まり、このホテルが産声を上げたのと同じ時期だ。


「グラスは三十年前の基礎工事の土壌を纏っておる。そして、このホテルが開業した時からずっと、この場所の汚れを清掃し続けてきた女。しかも、イニシャルは『S.K』。完璧じゃな」


 如月さんは満足げに頷き、ミッドナイトブルーのドレスの裾をふわりと翻した。

 デジタル機器に頼ることなく、純粋な物理的観察と冷徹な論理、そして人間の記憶だけを頼りに、彼女はたった数分で真犯人を特定してしまったのだ。


「宗像。その島田清子という老婆を、今すぐここへ呼べ。……客には見せられぬ『ホテルの汚れ』のルーツを、わしが直接鑑定してやろう」


 僕は改めて、この同級生の底知れなさに恐怖と、抗いがたい敬意を抱かずにはいられなかった。

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